本日7月26日、ミスチルのシングル「himawari」がリリースされた。
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25周年というキャリアの節目に出される、「ヒカリノアトリエ」に続く本年2作目のシングル。
(年に2度以上シングルを出すのは2008年ぶりの快挙。これだけで僕らミスチルファンはハンターハンターの連載再開ばりに喜んでいる)

映画「君の膵臓をたべたい」の主題歌と、大型タイアップが付いたこの楽曲について、思うところを書く。


「himawari」

そのタイトルから想像していた優しい印象とは180度方向が異なる、重厚なバンドサウンドから始まるイントロ。歪んだギターの音が攻撃的なニュアンスすら見せ、この曲が僕らの知るやわらかな夏の花のそれとは異なる意味も持っていることを最初に気付かせる。

Aメロは(あえて過去の楽曲に例えるなら)「Bird Cage」を彷彿とさせる、リズム隊の圧倒的な活躍ぶり。アタック音が強く残るベース音に、激しく降る雨音をイメージさせるスネアの音が突き刺さる。

「歌詞は曲の冒頭を大切にする」という桜井氏の言葉遊びは、ここにきて更にギアがかかる。仮歌の段階から残っていたという「死化粧」と「角砂糖」の韻の踏み方は、真骨頂。ここにニヤついた人と僕は酒が飲みたい。

コード進行は同じことからBメロともサビとも取れる中盤からストリングスが乗り、視界が一気に開ける。しかしその景色は、入道雲が浮かんだ夏の畑に咲く、熱い強風をもろともしないたくましいヒマワリのようでもあるし、大雨の中折れずに体を支え、ひたすら太陽を待つ力強いヒマワリのようにも感じる。このシングルのジャケットのように、青く暗く冷たい世界とヒマワリの暖かさの両面が描かれた、楽曲においてとても大切なシーンだ。

そしてサビに入り、ギターは再度深く歪み、落雷のような激しい音を奏でる。そこに運指の激しいストリングスが攻撃的に鳴り響き、ヴォーカルすらもバンドのサウンドに埋もれるギリギリのライン、圧倒的な音圧でリスナーの心をそれこそ嵐のように揺さぶる。

そして1サビの終わりにして、突然嵐は去る。歌詞のとおり「僕」が恋していた「嵐が去ったあとの陽だまり」が、そこに訪れる。その美しさに、突然の静寂に、いなくなった「恋していた人」が重なり、僕らは戸惑う。

そして2番に移って主人公は、「君」のいない世界を弱々しく戸惑いながら歩き出す。遠くに旅立った存在に翻弄されながら、時に妥協しようとしながら、嵐の中をまた彷徨う。それは例えるなら「忘れ得ぬ人」のように、ずっと心に残り続けるその人を思いながら生きていく。

歌詞と合わせて聴いてみると、楽曲の力強さは、常に「恋していた」その人の「明日へ漕ぎだす」力強さやその恋自体のことを指していて、それと反比例するように、歌詞では主人公の弱さがただただ語られていることに気付く。
この対比はMr.Childrenらしさでいえば100点満点であって、別に珍しいことでもない。それゆえ僕らは安心するが、一方でこれまで以上に攻めたバンドサウンドに驚き、戸惑い、興奮する。

そういう意味で、「himawari」は25周年を締めくくるというよりは、その先を見せた楽曲であったと思う。


ここからは「himawari」から感じる現在進行形のMr.Childrenについて書く。

まず訪れるのは、大きな期待と安心感である。

ひとつ前のシングル「ヒカリノアトリエ」およびそれを誕生させるに至ったホールツアー「虹」「ヒカリノアトリエ」において、僕がほんの少しだけ懸念したことはひとつ。

「ミスチルは、もう『REFLECTION』以降、スケールの大きな楽曲の製作やツアーはやらないんじゃないか?」というものだった。

響きのよいホールで、アンプから直接バンドの「生」の音を届ける。そのツアーコンセプトが最大限活かされるように丁寧に作られた、心に優しく寄り添うような前作「ヒカリノアトリエ」を聴いて、明らかな路線変更を感じたのはきっと僕だけじゃないはずだ。

頭をよぎるのは「REFLECTION」という超大作をいかに超えるかというハードルで、その次に打席に立った「ヒカリノアトリエ」は、見方によってはヒヨッたようにも感じられた。

でも、あるインタビューで桜井和寿は答える。
「ONE  OK ROCKと対バンしたとき、彼らのライブを見て『うちらもやっぱりこっちだよね』と思った」
※資料手元にないのであとで修正します。

ここでいう「こっち」は、エモーショナルで、シャウトがあって、スケールの大きなライブアクトをするONE OK ROCKのようなスタイルを指す。

まだ小さなハコで丁寧に音楽を紡ぐ段階ではない。若き後輩たちに火を付けられた彼等がそれを意識したことが強く感じられるナンバーが、今作「himawari」ではないかと思う。

また、今作には表題作である「himawari」以外にもいくつかの曲が収録されている。ONE OK ROCKと対バンした際の「終わりなき旅」が収録されているのも、その意思が感じられる気がするし、さらに言えばこの「終わりなき旅」のラストのシャウトこそ、Mr.Childrenの旅の「これから」を感じさせるものではないかと思う。

(ライブ盤の「終わりなき旅」は原曲を遥かに上回るので、未聴の方はこの際にお買い求めください。個人的に好きなエピソードに、Mr.Childrenファンならみんな大好きなインタビュアー・小貫さんが、「終わりなき旅はライブで『何処かに自分を必要としている人がいる』を『あなたを必要としている人がいる』と歌い変えたことでまた別の価値を手に入れた」みたいなことを話しており、ライブ盤を聴くたびに僕はひとりそこのパートに痺れています)

そんな「終わりなき旅」をはじめ、ホーンがバンドメンバーに入っているからこそ活きる「メインストリートに行こう」や「PIANO MAN」、2005年のツアー以来となる「跳べ」のライブ盤など、珠玉のナンバーが詰まったシングルが、今作である。

ミスチルの入門編と言っても過言ではないし、往年のファンでも楽しめる、これがMr.Childrenの現在進行形なのだと胸を張って言える一枚だ。

最後に、初回限定版について来るDVDは、ディスクの裏面までしっかり楽しんでほしいということを伝えて、「himawari」の所感を終えることとする。

ああ、はやくその先も、さらにその先も見てみたい。




縦に裂きたい。

これは「ある人」が口癖のように使う言葉なのだけれど、出展元はあえて書かずに言いっ放しにしたい。

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私は、小説「ボクたちはみんな大人になれなかった」を書いた燃え殻さん( @Pirate_Radio_ )という、追いつきようのない背中をどうにかして縦に裂きたい。

なぜそう思ったか。本書を買って読めばわかる。読めばわかるけれど、あえて言う。

この小説は、大人になる過程で誰もが経験し忘れてしまう「広義の青春」の中でも、最も泥臭く、醜く、人間らしい部分を全力で絞り出してくる作品である。そして、「ラブ・ストーリー」という言葉が最も似合わない「ラブ・ストーリー」である。

この本に出会った多くの人が、年齢を問わず読了後、「懐かしくなった」(今風に言うと「エモすぎる」)という感想を口にしたように、読者は、引き摺り出されることになった自身の青春時代を振り返っては延々と泣く。涙が引っ込んだころには川か海でも見に行きたくなり、好きだったあの人や(堀江貴文さんの帯の言葉を借りるなら)謝りたいあの人のことを想ってはまた泣き、最後に、名前をふと口に出しては三度泣く。

別に、小説の主人公である「ボク」と読者が、まったく同じ経験をしたわけではない。でも、本書を読むと、記憶の片隅のさらに隅っこで埃にまみれていたはずの思い出が、突然音を立てて姿を現す。そして、私たちの心を乱暴に鷲掴みし、ジャイアントスイングを仕掛け、全てを鮮明に思い出すまで延々と揺さぶってくる。

「これ、あのときのオレ(わたし)、まんまじゃん」

そう思ったが最後、貴方は筆者の術中に、ハマっている。



なぜ、縦に裂きたいか。

それは、この物語を読むことで、私たちの人生がこれっぽっちも特別でなく、特殊でなく、特異でなかったことを認めざるを得なくなるからだ。

誰も体験したことのない過去の失態。
ほんの少し誇らしげにしている実績や栄光。
忘れられないデートや笑い合ったラブホテル。

自分だからこそ経験したいくつかの「譲れないこと」が、誰にでもある。でも、本書を読むと、「自分だけ」のはずだった譲れない過去は、全てこの物語にリンクされ、インターネットのように接続し、高画質で自動再生されてしまう。

読むだけで思い出してしまう光景は、甘過ぎず、どちらかと言えば湿っぽく、そのくせSNOWやfoodieには決して表現できない思い出加工が施され、鮮明に映る。「ダサい大人になりたくない」と思っていたハズの自分が、どんどんダサい大人になっていく過程がありありと描かれ、今の自分を少し卑下したくもなる。

そんな感情にまで持っていかれそうになるから、縦に裂きたくなる。
本当に縦に裂きたいのは、平凡な人生を歩んできた自分自身なのに、それを筆者のせいにしたくなる。これは、そういう小説だ。平凡な自分の人生を恨み、それでもこの人生が素晴らしいと思わせてしまう、嘘のように現実的な物語である。



もう少しだけ語らせてほしい。

物語は、43歳男性の現在と過去の回想シーンを、行ったり来たりする。それも、映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のように劇的なタイムトラベルではない。「文通」が「フェイスブック」に変わり、「PHS」が「スマホ」にアップデートされ、「原付」が「運転手付きの社用車」に格上げされる程度の、平凡な回想劇だ。それなのに、テンポはかなり速い。カメラはくるくると動き、女性用下着のホックを慣れた手付きで外すように、物語はストレスなく進む。

だからきっと、「ホットドッグプレス」も「オリーブ」も「フリッパーズギター」も「むげん堂」も知らない若者にも、この作品は響く。大学生にもなれば(そして私のフォロワーであればより)47ページから53ページのラブホテルで描かれる青春劇は共感と羨望の嵐だろうし、23ページに書かれた以下一文に、「ボク」を自分に重ねる人は続出すると思う。

"その頃ボクは、普通じゃない自分を一生懸命目指していた。今考えれば、普通に生きるための根気がなく、努力もしたくなかっただけなんだけど。"



映像ディレクターの大根仁さんは、この作品を「新時代のハードボイルド小説」と呼んだ。過去まで一気に振り回されたような読後感は、まさに「ハードボイルド」と呼ぶにふさわしい。乱暴なのに繊細で、とんでもなく醜いのに、限りなく美しい。

私は、

「エモすぎて、泣いた」
「ダサい大人にならないための一冊」

というダサすぎるブログタイトルを付けて、バカにしようかと思った。
でも、それもまた負けた気がするのでやめた。

そして、冷房の弱い喫茶店で読み終えたときの読後感を、そのままタイトルにすることにした。この本はまるで、夏の終わりの焦燥感のように、身と心を焦がす。

結局、この作品の前に、私の人生はひとつも勝ちようがなかった。
10年早く生まれたとしても勝機が見えなかった遠すぎる背中を、私は縦に裂きたい。

あとは、読んでもらってから話の続きをしたい。そろそろ重版分の入荷が終わって、全国の書店に再び顔を見せる頃だ。

貴方が筆者に腹を立てる様子を見るのが、とかく楽しみである。



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「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」という本の感想を書こうと思い、読み進めていたが、憤りを感じている。

まずはJR横浜線で桜木町へ向かう途中、この本を読みだしたと思ったらそれはまあ「わがままボディ」という単語がよく似合うセクシーでグラマラスでダイナマイトでウェッジソールな女性が僕の隣に座ったことから始まる。

この日の僕は相も変わらず売れないバンドマンみたいな格好をしているものの、「スマホ」ではなく「本」を読んでいたのだから普段より幾分マシに見えたはずだ。売れてないバンドマンだけど活字は読むちょっとインテリ派。きっとウェッジソールな彼女の瞳にはそう映ったはずだ。

よくよく考えてみると、あの小沢健二にだって売れていない時期はあったはずだ。彼だって売れていないころは井の頭線か東横線かわからないけど何線かの電車に乗って、きっと文庫本とかを読んでいたに違いない。僕もギターこそ背負ってはいないが目と鼻の穴が2つずつあって口が1つしか付いてないのだから、小沢健二とほぼ同義と言える。だからウェッジソールの彼女にもきっとモテる。電車で本を読めばそれは、小沢健二に激似だからである。





話がのっけから思い切りずれているので、とりあえず本題に戻す。憤りを感じているのは、そのセクシーな美女の隣で読んでいた、本の内容だ。

これがまさか、190ページにも及ぶのに最初から最後までカップ焼きそばの作り方しか書かれていないのである。それも、「新しいカップ焼きそばの作り方」や「10倍おいしいカップ焼きそばの作り方」などの実用的な提案しているわけではない。オーソドックスで伝統的なカップ焼きそばの作り方を延々と190ページ、役100回繰り返されているだけの本なのだ。

何度ページをめくっても、繰り返される湯切り。

それをいかにマトモそうな顔で読んでも、もうどうにも格好つかないのである。隣にいるセクシー美女の露わになった太腿も、巻き散らかされるかやくのまえには無意味。これでは僕の太宰も、湯切り後にベコっと音を鳴らしたシンクよろしく治になるというものである。





よって、憤っている。せめてこのタイミングでヘミングウェイでも読んでいればよかったのに、僕はよりによってカバーもかけず「もし文豪たちがカップ焼きそばの作り方を書いたら」を読んでいるのだ。タイトルを周りに見られないように、少し本を倒し気味にして読んでいるのだ。すると両隣ーーすなわちセクシー美人ーーには本文が丸見えなわけで、延々と繰り返されるカップ焼きそばの作り方に狂気すら感じていることだろう。信じてください、僕は決して、妖しい者ではないのです。




ここまで憤りだけでiPhoneをフリックし続けてきたが、憤っているのはその概要だけではない。よくよく読んでみるとこれが、電車の中で読むには悉く向いていない笑いのるつぼのような一冊なのだ。

少し具体的に書くならば星野源がいつものエッセイ調でカップ麺を作っているかと思えばシャーロックホームズが実に論理的に部屋の主がカップ焼きそばを食べたばかりであることを推理し、その横をロミオとジュリエットがカップ麺と愛について語り歩いているのである。

名だたる文豪たち(や時には女性誌「VERY」や迷惑メールにまで)の文体を模写し、完璧に再表現する。そのクオリティの高さと、オリジナル作品への異常なまでの執着と愛に、ただただ憤りを覚えるのである。

「ジュリエット、ぼくはあなたのカップ焼そばになりたい」(本文51ページ)
やかましいわ。





ほかにも憤っているところは幾つもある。たとえば表紙は田中圭一先生が手塚治虫に寄せたタッチで太宰治を描いているのだが、これももう、いい加減にしてもらいたい。どこまでハイクオリティの模写を続ければ気が済むのだ。満点である。
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さらに、本の帯は、あのクリープハイプの尾崎世界観が書いている。

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あんた、ここで何やってるんだ。

この装丁の時点で、憤りしか感じない。なんて贅沢なのだろう。関わる全員が全員、才能の無駄遣いをしているのだ。そしてそして、最後に憤るべきなのがこの作品の首謀者、作者2名についてである。

菊池良といえば、「世界一即戦力な男」としてWebメディア界を震撼させたあの男だ。あれから何年たったかわからないが、元・即戦力の男は相変わらず現代社会を鋭い視点で切り抜いたシュールなネタをSNSに投げては画面を賑わせ、その様子をパソコン越しに「爆笑」という名の真顔で見ているに違いない。つまりこの書評も、きっと彼の眼には止まっているものの大した反応も示さずにビジネスライクな「いいね!」とRTと月並みな感想が付いて終わるのだ。憎い。ぼくよりバズるアイツが、とかく憎い。

もう1人の作者が、神田圭一だ。尊敬する先輩ゆえここは本来敬称を付ける場面だろうが、もはやそれも面倒くさい。「POPEYE」「スペクテイター」「ケトル」。神田圭一という男は、ライターを目指すサブカル好きな若者なら誰もが一度は憧れる媒体でバシバシ記事を書き上げては、何食わぬ顔をして飄々と生きている男なのだ。憎い。僕なら絶対ドヤ顔してしまう場面でも何食わぬ顔で飄々と暮らしている神田圭一が、とかく憎い。



ということで、憎きライター・クリエイターである2人による共作が、本書である。当然、内容は先ほど挙げたとおり、憎い。憎いぐらいに面白い。いま改めて読み返してみたら、高城剛さんが「ハイパーメディアヤキソバー」という見出しでカップ焼きそばについて語っていてさらに憎い。どこまで人を小馬鹿にすれば気が済むのか。また、その小馬鹿にした内容に反して、どうすれば作者へのリスペクトをこれほどまで巧みに込められるのか。大ファンであっても不快にならない。それこそが、本書で最も憎いところである。

長々書いたが、最後にひとつ念を押しておく。本書はギャグである。冗談である。ジョーク商品である。冗談やギャグやジョークには、笑ってこたえるのがオーディエンスというものである。この作品について「バカにしている」「パクりである」と、昨今のウェブ界隈のように怒鳴り散らすのは、お門違いである。ツッコミばかりが増えているこの時代に、ひさびさに良質なボケが生まれたのだから、ここはひとつみんなで見守ろうではないか。私は憤りながらも笑っている。皆さんもぜひ本書を手に取り、笑ってほしい。


(JR横浜線の桜木町→町田駅間で書いたため、誤字・脱字についてはご容赦願います)

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