月別アーカイブ / 2022年12月


 大卒後


 職を転々としてきたけどね


 ここで清水の舞台から飛び降りた気になりゃ


 一打逆転かなあ


 と思うことが何度かあった


 1度


 当時 首都圏私鉄の沿線で


 サラ金をチエーン展開していた経営者の娘の


 家庭教師をしたことがあって


 娘に凄く気に入られた


 と言っても小学高学年だ


 艶っぽいことではない


 ただ エキセントリックな性格で


 今まで6,7人も家庭教師を取り替えたが


 1ヶ月と勤まらなかったという


  

  あんたと娘は本当に相性がいい


 

 とまもなく2ヶ月になろうという頃


 なに相性がいいというより


 ただ遊び相手になっていただけで


 勉強が本当に嫌いな子だった


 僕も勉強を教えるより


 その子とアヤトリをしているほうが楽しかったのだ


 いくらいくらだそう


 だから フル勤務にならないか


 と水を向けられた


 いや 迫られた


 28歳半ばの一流会社社員の給料の


 倍額はあった


 それまで吹きだまりのような


 小企業の勤務が多く


 給料も相場の3分の2足らずの


 ところばかりだったので


 心は動いたよ


 でもねえ


 その父親


 毎日幹部社員を自宅に呼びつけて締めあげるの


 暴力団そこのけの怒声罵声を響かせて


 娘の部屋までがんがん聞こえる


 それに家庭教師は副業で


 別の勤めがあったし断ることにした



  

  そんな奴に娘の家庭教師は任せられない


  今日限りやめろ


 と首になった


 一打逆転のチャンスに三球三振だったかなあ


 と思ったが


 2,3ヶ月後


 その社長は脱税か何かの容疑で逮捕された



 こんな1打逆転のチャンスのケースを


 いくら話してもしょうがないか


 僕の場合は三球三振で正解だったんだから



 まともな一打逆転のチャンスを話して終わろう


 29歳で不摂生が祟り


 虫垂炎をこじらせ腹膜炎を併発し


 何日か視線をさまよった


 元気になっても入院が長引いて


 学生時代 他大学の哲学科の学生に


 何気なく書いた文章を褒められた記憶が蘇った



  きみ 小説を書けるぞ



 その一言を思い出して


 生まれて初めて小説を書き


 小説雑誌の新人賞に応募した


 それが2次予選を通った


 それから直木賞までは11年かかったが


 初応募は一打逆転を呼び込む


 貴重な出塁になった


 


 


   



今までに28個の漢字が選ばれた。
今年の(戦)までの過去の漢字を振り返ってみたい。
言葉になっているのは僕の記憶法なので、
気になさらないでほしい。

震えおののく身を
食い物にしようとして
倒しにくるものの浅はかさ
毒が自らに回り
末路が哀しすぎる
金がものを言い
戦が起きて人心が荒ぶ
帰路に昔の童謡を口ずさむと
虎が18年ぶりに現れる
災相次ぎもうごめんと人心は
愛の尊さに目覚めて
命の重みを知る
偽善がまかり通り
変身で当座をしのぐ
新しい夜明けを渇望し
暑熱高まり害を為す
絆を深めて支えあい
金輪際の災いを断ち
輪になって喜ぶ
税金は重くのしかかり
安全な生活を脅し
金欠病が蔓延する
北から飛んできて列島を横断するものに
災いの予兆として怯えるとき
令和が始まる
密に生きてはコロナの餌食
金棒を鬼のように持ちて猛々しく
戦に志願して虚しく散る

戦は2回、
金は何と4回も選ばれている。
悪い漢字ではないが、
やや切ない気持ちにはなる。
災は2回、震、倒、毒、偽が各1回。

さて、僕にとっての素敵な漢字になるが、
愛、命、新、絆、安の5字。
1995年から今年までの世相は、
やはり厳しいことのほうが多かったのかもしれない。
みなさんはどんなふうに思い描くだろうか。

来年は和平の和が選ばれてほしい、
と強く切望する。


 


168回まできたのか。
時の流れは早いもんだな。
僕が直木賞を受賞したのは、
1980年7月のことで第83回だった。
受賞作は「黄色い牙」。
さて、本題に入ろう。
直木賞受賞がメディアで報道されると、
その一瞬後から電話が鳴り止まなくなる。
花束もジャンジャン届く。
大変気になる電話が1本あった。
「このたびは直木賞ご受賞、誠におめでとうございます。武蔵小金井の〇〇商事の△ △でございます。本当に私も嬉しいです」
「ああ、いや、どうも… . 」
僕が意味不明瞭な言葉を発しているうちに、
電話は切られた。
この3年弱前のことである。
その頃、僕は書き下ろし長編小説を
数ヶ月に1回刊行するようになっていた。
そして、ヒットシリーズも生まれていた。
新宿をはじめ、
JR中央沿線で飲みまわるのが大好きで、
妻からもらう小遣いでは足りなくなることがしばしばだった。
あるとき、スカンピンになったことがあって、
こっそりと電話債権を持ち出した。
それを隠し持って最寄り駅の武蔵境駅から2つ下りの武蔵小金井駅で降り、
南口の裏通りで見つけた質屋に持ち込んだ。
「おいくらお貸しすればいいですか?」
僕は束の間考えて左手の指を4本立てた。
「その倍ぐらいご用立てできますよ」
まだ40歳前後と思われる主人は、
苦笑いしながら言った。
でも、僕はそれでいいですと断り、
指を立てた分だけ借りた。
そのカネは、
多分2 、3日のうちに羽が生えて飛んでいったと思う。
問題はそれからである。
金融が主体の質屋さんだったので、
流質期限は短かった。
そのかわり、利子が少し安かった。
翌々月には流質期限がきて、
利子だけ払った。
 3000円だったと思う。
それから毎月、
僕は利払いの締め切り直前には利子を払いにいった。
その気になればいつでも元利を払うことができたのに、
なぜ毎月利子だけをきちんきちんと払いにいったのだろうか。 
1つには商売気がまったくないのに、
変に几帳面なところがあったからかもしれない。
早く請け出さなければ利子を余計払うだけ損になる。
それがわかっていても、
なんだか元利合計で清算するのは面倒くさい、
という実に非生産的なズボラさもあった。
それよりも、
毎月1回、武蔵小金井に赴くということが、
僕の生活の中では欠かせない習慣の1つになりつつあったからではなかろうか。
いつも質屋の主人は気の毒そうな、
そして冷やかすような愛想笑いを浮かべて、
利払いの領収書を書いてくれた。
余計なことは一切訊かなかった。
領収書は質屋さんを出ると、
すぐに小さくクチャクチャにして道端に捨てた。
いつしか、その帰りに北口の飲食店街をぶらついて、
ここ感じがよさそうだと勘が働いた店に立ち寄るようになっていた。
最初の1杯が運ばれると、
ああ、今月もすんだなとほっとした。
その頃には質屋の主人もうすうす僕の職業に気づいていたようだった。
店の奥の卓上金庫を置いた机に、
やや遠目だったのではっきりとはたしかめられなかったが、
僕の著書らしき本が置かれていたこともあった。利払いをすませ、
北口に回って今日はここにしようと初めての店に入り、
ご機嫌になって鼻歌を歌いながら歩いて帰ったこともある。
タクシーに乗って帰ることもあった。
そんなときは利子の数倍カネがかかった。
やがて利払いに費やした金額は、
最初に電話債権を担保にして借りた金額の2倍を超えた。
それから間もなくのこと、
幸いにも僕は直木賞受賞できた。
その1本の電話は、
質屋さんの主人からのお祝いの電話だったのである。
その月はもう利払いがすんでいた。
翌月利払いに訪れると、
主人は改めて喜んでくれた。そして、
その月の利子は免除してくれて、
元金だけで電話債権を請け出させてくれた。
「毎度どうも」
店を出るときに、
僕の背中に飛んできた主人の声には、
明らかに感激の響きがこもっていた。

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