月別アーカイブ / 2022年05月


 

1994年夏、

94歳で母が亡くなりました。

90歳を過ぎても毎日のお使いに、

掃除洗濯に元気いっぱいでしたが、

その年に体調を崩してしばらくして息を引き取りました。

母は東京の下町にあった技芸学校の寮に入って、

料理裁縫などを学んでいましたが、

昼食の支度の最中に関東大震災に見舞われました。

着の身着のままで火の海のなかを逃げ惑い、

九死に一生を得たものの、

それから伊豆の東海岸にある実家へ辿り着くまでが大変だったようです。

母は大震災の体験をあまり語りたがりませんでした。

「私がこうして生きてこられたのも、

 人様の情けのお陰なのよ」

体調を崩してからの母が、

僕にボソッとつぶやいたことがありました。

翌1995年1月、

阪神大震災が発生しました。

そのとき、火の海の中を逃げ惑う母の姿が浮かびました。

こうして生きているのも人様のお陰、と言った母の言葉が耳元で蘇りました。

慰問活動に駆けつけようと思いました。

でも、当時の僕は人生でもっとも多忙な時期で、

小説、エッセイ等の執筆、テレビラジオへの出演、講演イベント活動などで、

1年ぐらい先まで予定がぎっしりと埋まっていました。

そのため、慰問活動に駆けつける時間は都合がつけられなかったのです。

何とかして被災者の役に立ちたい。

僕はその年の暮れまでの予定にある講演の謝礼の 1部を、

各地の日赤などを通して被災者のために使ってほしいと寄付をすることにしました。

たまたま、秋に「激震都市 東京」という小説の単行本刊行したので、

その印税の半額を出版社を通して寄付させていただきました。

 1999年8月、僕は「よい子に読み聞かせ隊を結成し、

全国で読み聞かせ活動を開始しました。

超多忙だった時期に比べて時間的な余裕が生まれたので、

大きな災害が発生すると仲間と慰問活動を行いました。

中越地震では山古志村の老若男女が避難していた長岡の高校の体育館を訪れ、

読み聞かせ慰問を行いました。

福岡西方沖地震では玄海島の人々が避難していた

福岡市の九州電力の体育館を訪れ、

読み聞かせ慰問を行いました。

東北大震災では被災地が読み聞かせ活動で訪れたところとずいぶん重なっていたので、

5年連続で慰問に入りました。

2016年は熊本地震が発生したので熊本で小学校、幼稚園、

保育園その他で読み聞かせや、ミニ音楽祭を開催して慰問させていただきました。

その翌年から右膝が腫れて歩行が苦痛になりました。診断の結果は関節リウマチでした。

腰椎骨折などの事故も重なりリウマチを悪化させ、

2019年の初夏から車いすユーザになりました。

それでもその年はいくつかの読み聞かせイベントを行いましたが、

2000年からはそういう活動は不可能になり、

原稿執筆とSNSへの発信はかろうじて続けてきております。 

 そういう状態のときに、

ロシアがウクライナに侵攻してウクライナを舞台に戦争が起こりました。

無垢の子供たちが巻き込まれて犠牲になっていく。

そういう姿をテレビや、ネットの動画で見るたびに、

僕の心は痛みました。

健康だったら時間を作りウクライナに飛んで子供たちに日本の絵本の読み聞かせをやってあげたい。

もちろん、通訳をつけてのものになりますが、海外で2度、その国の子供たちに読み聞かせを行った経験

がある僕にとって、それはぜひやりたいことだったのです。

でも、今の僕の体では到底不可能なことです。

おりもおり、GALLERY21という画廊さんから、

僕のアクリル作品「自虐的自画像」が版画化されて販売になりました。

第39回日象展小作の部で秀作賞いただいた作品です。

阪神大震災のときには超多忙で動きが取れなかったのですが、

今回は時間は作ることができても体の都合で動きが取れません。

版画化された作品は1点売れれば20%の版画料が僕に支払われます。

それを全額、日本へ避難してきたウクライナ避難民の子供たちの役に立ってほしい、

と寄付することに決めさせていただきました。

販売期間は6月いっぱいまでですが、

僕の版画化作品ですからどれほど売れるかまったく予想もつきません。

でも、一生懸命告知活動をして1点でも多くの版画料を寄付できれば、
と強く願っております。

寄付の窓口をどこにするかは販売が終了するまでに決めさせていただききます。


版画化作品の詳細については下記URLをご覧ください。

 gallery21 gallery21.buyshop.jp/items/62524073 #BASEec @gallery21daibaより





ウクライナを舞台とする戦争が始まってから、

4歳時、5歳時の記憶が次々に甦っている。

毎日のように耳に入ってきた言葉のいくつかを

タイトル文の中に入れてみた。

【英霊の家】は戦死者を出した家で、
表札の隣に(誉の家)と記された鑑札のようなものが貼られた。

中国大陸だけで戦争をしていた時代は地域の軍の担当者や、市町村の長や、

助役が遺骨や、遺髪を入れた白木の箱と共にやってきて、

それを隣組の人たちが迎えて大変な騒ぎだったらしいが、

その儀式を僕が目撃したときは随分と簡素な印象を受けた。

白木の箱の中身も木片のような位牌のみだったという。

戦況が著しく悪化して遺体を収容するどころか、

遺髪を収集する余裕さえなかったことを表している。

【銃後の民】は戦地に対応する言葉で、

つまりは軍務についていない一般国民のことになる。

幼い僕も銃後の民の1人だった。

(産めよ増やせよ)は子宝を増やして将来の兵員を確保するための標語で、

昭和14年 1939年に時の厚生省が掲げたものだ。

僕は昭和15年の生まれだけど、厚生省が(産めよ増やせよ)の施策を打ち出したときには、

すでに妊娠していたのでその恩恵で生まれたわけではない。

しかし、僕の記憶が明らかな4歳、5歳の頃には子供がぞろぞろいたわけではない。

食料不足もあって、そんなに産んで育てられる状況ではなくなっていたのだろう。

むしろ、戦後まもなくの団塊世代の頃がどこへ行っても子供がいっぱいいたように思う。

この(産めよ増やせよ)は、

旧約聖書の(産めよ増やせよ地に満ちよ)という言葉からヒントを得たのかな。

僕はが懐かしく覚えているのは【慰問袋】だった。

どこの誰かも知らない戦地の兵隊さんにプレゼントする布袋のことで、

いろいろのものが市販されていた。

中にお守りや、昆布菓子や、カルタ、絵はがき、切手などが入れられた。

隣組を通して役場に集められ、さらには地域の軍当局に献納された。

両親や、姉たちが慰問袋に詰める品々を見て、

満州にいる兄ちゃんにも送ればいいのに、

と僕は納得できなかった。

兄ちゃんは旧満州、現在の中国東北部で終戦を知らずに戦い、

20歳で命を散らしている。

僕の1歳年長の人たちはすでに国民学校の生徒で、

見知らぬ兵隊さんに手紙を書いて慰問袋に入れるよう担任の先生に指示されたという。

3つ4つ上の近所の国民学校の生徒が、

お国のために1人でも多くの敵をやっつけてくださいと書いた、

と自慢そうに言ったことを覚えている。

子供の勇ましい言葉は、

戦地の兵隊さんには強い励ましになったようだ。

慰問袋を受け取ったセンチの兵隊さんからお礼の葉書が届いたことがある。

慰問袋に差出人の住所が記されていたからだ。戦況が悪化してから我が家があった都下の上空は、

はすでに戦場だった。

敵の戦闘機に乗っていた向こうの兵隊さん達にもそれぞれ家族がいるだろう、

という思いは生まれることなく、

ただただ味方の戦闘機が敵機を撃ち落とすことのみ祈っていたと思う。

戦争は学歴前でまだ戦意高揚の教育を受けていない

僕ら幼い世代の心まで蝕むのだと思う。

ウクライナ情勢のニュースを耳にするたびに、

銃後の子供たちの逃げ惑う姿が脳裏に浮かんで離れない。

 





そのローカルとは「草なぎやすとものうさぎvsかめ」

(読売テレビで毎週日曜午後0時35分)

開始早々の番組にインターホンが鳴り響く。

草なぎがドアを開けると、

なんと稲垣吾郎が立っている。

「おお!吾郎」

と、びっくりする草なぎの固まり具合がハンパないもので、

まさに化石そのもの。

お仲間の稲垣吾郎が大阪までわざわざドッキリをやるためにくる、

とは予想もしなかったのだろう。

さて、ドッキリが成功した番組ではそれまで語られていなかった秘話が語られるという。

一体どんな秘話が語られるのか。

放送日の6月5日はぼんやりできないぞ。

稲垣はやすともとは初対面だという。

でも、大阪名物のたこ焼きでもてなすやすともと、

あっという間にフレンドリーなったというから、

ますます 秘話として語られてこなかった事実が語られるかもしれない。

僕はそう勝手に思い込んでいる。

さぁ、どんな秘話が飛び出すか。

香取慎吾も関わる(新しい地図)の秘話ならぜひ聞きたいものだ。


マジに期待しているけれど、

いずれにしろ、痛快で面白い話だろ。



※ 敬称略

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