月別アーカイブ / 2021年03月


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講談師が寄席その他で口演したものを、
編んだんだろうね。
辞書みたいに分厚かった。
なぜ読んだかというとね、
漢字は総ルビだったのよ。

初め意味が解らなくても、
また出てくれば何となく解る。
またまた出てくれば、
更に理解できた。

この巻には
メインの「東海道中膝栗毛」のほか、
「夜もすがら検校」「捨て身の構え」、
更に徳川家光の異母弟にあたる
保科正之の物語(題は忘れた)が
収められていた。
保科正之は会津藩の藩祖になる。

難しい漢字を随分覚えた。

旅籠   はたご
五月蝿い   うるさい
雪隠   せっちん
手籠  てごめ
売女   ばいた
獄門   ごくもん
妾   めかけ
御台所   みだいどころ
御寵愛  ごちょうあい
側室  そくしつ
不義密通  ふぎみっつう
中臈   ちゅうろう
花魁  おいらん
尻軽  しりがる

カタカナでね、
きちんとルビが振ってあった。

列挙した漢字に偏りがあるのは、
今でも強く印象に残っているためで他意はない。

名誉回復のため、

使嗾   しそう
籠絡   ろうらく

なども挙げておく。
ああ、別の意味でやはり偏っているな。

いちばん繰り返し読んだのは、
弥次喜多、つまり、東海道中膝栗毛。
繰り返し読むうちに滑稽味が
よく理解できてくる。
大声で笑うので、
用事できていた親戚の者にきみ悪がれた。

12最年長の長姉の婚約者が
「ガリバー旅行記」を買って
プレゼントしてくれた。
でも、
ジュニア版だったので物足りなかった。
長姉にI文庫版でいいのに、
と言ったら書店へ行って、
それに取り替えてきてくれた。
講談の「東海道中膝栗毛」と表現も違い、
知らない感じもいっぱい出てきたが、
講談本で繰り返し読んでいたので、
何とか読み通すことができた。

漫画もよく読んでいたが、
小学6年のときには二葉亭四迷の「浮雲」や、
徳富蘆花の「不如帰」、「みゝずのたはこと」を読んでいた。
いずれも父の本箱にあったものだった。

体は虚弱だったのに、
そういうほうではませていたのかな。
小学高学年の頃には、
大人になったら大店の娘を大川の土手へ誘き出し、
手篭めにしたい、
と妄想をたくましくしたが、
大学生になっても女性と1対1で話すと、
顔が赤らむ状態で叶わず仕舞いになった。






夏休みに入り、

私は仲良しのÑ子と

南太平洋に浮かぶT島を訪れた。

N子はこの島で晩年の多くを過ごした

フランス人画家のフアンで、

そのゆかりの場所を巡ることが主目的だった。

私はと言えば、

この島の文化、民俗に興味があり、

あわよくば卒論のテーマにしたい、

という思いが強かった。

それで、

この島の大きな街のホテルに宿泊して、

最初の2日間は別行動を取ることになった。


この街は沖縄の那覇からアメリカ色を抜いて、

代わりにフランス色を入れたようだ、

と私は思った。

この島を中心とする諸島は、

いまだにフランス領だった。

私は女子大でフランス語を専攻していた。


通りがかりのフランス住宅風の建物の入り口に、

T島民俗館、という看板が出ていた。

民間の運営、それも個人が運営の民俗館らしい。

自動販売機で入場券を買い館内へ入ると、

30坪ほどのところの3方の壁に沿って

農具を中心とした民具が展示されていた。

特徴に台湾や、ハワイの民具との共通点が多く、

そのすべてが下調べをしてきた私には

おなじみのものだった。

ただ、ガラスケースに収まった

最後の展示物には興味を惹かれた。

よく手入れされて金色に輝くトランペットが、

何の説明もなくT島の草木染らしい

布の上に置かれていたのだもの。


私は当惑した。

不意に私の横に人影が立ち、

「ニッポンの方ですか?」

と、英語で訊かれた。

「はい。日本人です。少しならフランス語を話せます」

フランス訛りの英語だとピンときたので、

私はフランス語で答えた。

「おう、それは素晴らしい!」

その人はT島の人とフランス人のハーフか、

クォーターらしい風貌をして、

50歳前後に見えた。

「実は先週にオープンしたばかりで、あなたが

 11人目の入館者です。このトランペットについての

 由来の説明文に苦労していて、

 書き直しているところなのです。

 何か訊かれたら説明するつもりでしたが、

 皆さん、ちらっと見ただけでした」

「このトランペットがどうしてここに展示されているのか、

 それを聞かせていただけますか?」

「望むところです」

館主はほぼ中央に置かれた丸テーブルと椅子2つのコーナーへ、

私を案内した。テーブルも椅子も手製のようだった。

「あなたはいくつですか?」

「20歳ちょうどです」

「20年前、日本を大津波が襲いましたが…」

「その年にF県F町で生まれています。津波に襲われ、

 更に原発の事故で全町避難に遭った町です」

「では、ご家族で犠牲になられた方もいたのでは?」

「祖母が津波で命を落としました。父は東京へ出張中で、

 身重の母は内陸の街にある実家へ戻っていて無事でした。

 私は母の実家で、その年の春の終わりに生まれました」

「震災後の子というわけですね。震災後の生まれでも

 ご家族や、周りの人の苦しみ悲しみを映していて、

 どこかに翳が射しているものですが、

 あなたにはそれが見られない。芯からの明るさと

 強さを持っている」

「10年前までは私も暗かったです。今の我が家は母の実家の近くに

 新しく建てたものですが、両親も親戚の人達も周りの人たちも、

 みんなまだ心に深い傷を残していて、

 明るい日常が戻るには程遠いが状態でした」

「当然です」

館主は大きくうなずいた。

「20年経った今は違いますね。

 津波禍も全町避難もまともに体験して、

 今は高齢の方々もようやく気持ちの整理をつけて、

 心から前向きです」

このようにフランス語での会話を書き記すと、

流暢に運んだように思われる。

実際には館主はゆっくりと話してくれたし、

私はつっかえつっかえの話しぶりだった。


「さて、あなたにあのトランペットの由来を話しましょう」

館主はトランペットを指差してから、

おもむろに話し始めた。


~日本を大津波が襲ってから3年目の春のことでした。

僕は1人で趣味の漁に出ての帰途に、

波間に見え隠れしている小舟を見つけました。

近づくと帆柱を折られて失っていましたが、

3、4人が乗れるキャビンを持ったヨットでした。

キャビンも半ばは海水に浸され、

全体に腐食が進んでいて今にも沈みそうでした。

その小さな幽霊船のようなヨットを曳航して島に戻り、

居合わせた漁師に手伝ってもらい浜に引き上げました。

キャビンの海水を抜くと、

床にトランペットのケースが現れました。

ケース内にも海水が滲み出ていましたが、

トランペットは辛うじて腐食を免れていました。

僕はトランペットの内側も含めて汚れを丁寧に落とし、

その後は日常の手入れを続けて調節も行いました。

僕はフランス時代、

少しトランペットをやっていたんですよ。

試しに吹くといい音が出ました。

ケースの蓋の裏側に、

持ち主の氏名と住所が書かれたカードを差し込んだ、

プラスチックケースがくっついていました。

私はそれを日本の知人のギタリストに送り、

トランペットの持ち主を調査してもらったんです。

新聞種や、テレビのニュース番組のネタにならないよう

念を押して頼みました。

騒がれるのがいやだったからです。

ヨットのほうは浜に引き上げるときも

どんどん崩れたぐらいで、

漁師たちの申し出により

漁師たちに焼却処分にしてもらいました。

漂流中、よくも海の藻屑にならなかったものです。


日本の知人から1ヶ月半後に報告のメールがきました。

それによると、

トランペットの持ち主は、

当時、M県K市在住の音楽教室主催の男性でした。

ヨットが趣味だったようでした。

大津波がこなければ、

奥さんと沿岸航海に出るつもりで、

その準備を自宅とヨットハーバーを往復して

整えている最中に津波に襲われたそうです。

夫婦とも犠牲になり、

夫婦の間に子はいませんでした。

夫婦ともに1人っ子で、

奥さんのほうの認知症のお母さんが

施設で暮らしているだけで、

他に係累はいないということでした。

これも日本語で言う「他生の縁」だから、

きみがトランペットを大事に使うなり保管してくれ、

ということでずっと僕が保管し続けています。


日本の知人から持ち主調査の報告があって

約2ヶ月後のことでしたが、

ヨットを引き上げた浜でイベントがありました。

主催者から何かやってくれと言われたので、

あのトランペットで、私の生まれ故郷の

フランドル・フランセーズの民謡を吹きました。

明るい曲調なのに、

その場にいた300人前後がしんみりし泣き出したのです。

あのトランペットは犠牲になった人達や、

悲嘆のドン底に突き落とされた人達の

無数の心を宿しているのだと思いました。


以来、手入れと調節は怠っていませんが、

吹くことはありませんでした。

ところが…と館主は言葉を切りました。


「ところが、どうされたんですか?」。

私はうながすように言った。

「今年の3月10日のことです。知人のギタリストが、

 後輩だというトランペッターと一緒にこの島を訪れました。

 たまたまのことですが、翌日は浜でイベントが開催される

 ことになっていました。これも偶然ですが、翌11日は

 日本を大津波が襲ってから20周年。トランペットのことを訊かれて、

 いろいろ話しているうちに、トランペッターはそのトランペットを

 吹いてみたいと言い出しました」

「それで?」

「翌日のイベントで吹いてもらいました。凄い吹奏になりました。

 吹き終えて大歓声と大拍手が起こりました。老若男女を問わず、

 元気と勇気を与えました。あなたがそうであったように、

 あのトランペットは暗く悲しい翳を20年で拭い去り、

 聴く人々に元気と勇気をもたらしたのです。

 そういう音色を発することができるようになっていた

 ということです」

館主は顔を紅潮させていた。


T島民俗館を出て歩きだしてすぐに、

私は後ろから声をかけられ振り向いた。

20代後半らしいネイティブの女性だった。

島で発行しているウェブ新聞の記者と名乗り、

「館主から海を渡ってきたトランペットにまつわる

 話を聞いたと思いますが、そのことで取材させてください」

と、早口で言って名刺を差し出した。

私は名刺を受け取らずに、

「何も話すことはありません」

と、取材を断った。

どこか気持ちに引っかかるものを覚えたからだった。

館主の話にも、待ち構えていたように

記者が現れたことにも。


日本へ戻って1ヶ月も経たない頃だった。

某週刊誌が、

[悲しみを乗り越え、

 20年の歳月を経て日本へ還ってきたトランペット]

といったタイトルで大特集の記事を掲載した。

館主と、その知人のギタリスト、トランペッターが

立役者的に取り上げられていた。

内容は私が館主から聞いた話を美談風にまとめていた。

そして、T島をたまたま訪れた25歳の音楽教師が

そのトランペットとの数奇な運命を知り、

地元のウェブ新聞に取材を受けたことがきっかけで、

日本への返還が実現した、ということになっていた。


その週刊誌の記事がきっかけで、

数奇な運命のトランペットは、

いっとき、マスメディアの寵児になった。


 








 










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子供の頃ね、

母に手を引かれながら暑い暑い思いをして歩いて、

木陰に入ったらもう出るのが嫌になったの。

目指す叔父の家までは、

まだ日盛りの道を歩かないと着けないのに。

「お日様は夏は暑いのよ。寒い冬は

 お日様が有り難いでしょ。お日様から

 恵みをいただいて、みんな生きていけるのよ」

「お日様はなぜまぶしいの?」

「長く見つめちゃ駄目よ。お日様は燃えているんだから」

「えっ」

僕はきょとんとなった。

「じゃ、消えるの?」

「ずっと燃えて恵みをいただけるのよ。

 さあ、歩こうね」

その頃、

我が家ではタドンを使うことがあった。

真っ赤になると透明な炎を低く這わせて、

長く長く燃えていた。

でも、

翌朝見ると灰になって崩れていた。


それに太陽を重ねて、

僕は心底からの恐怖に襲われて、

すくみあがった。

太陽が土砂降りに遭ってジュウジュウ消えるのも、

想像すると恐ろしかった。


その恐怖は小学校に上がり中学年になる頃まで、

ときに僕を襲った。


 

 太陽が爆発したらどうしよう。


 地球が破裂したらどうしよう。


 こんなことを思うのが杞憂だ。


 明日太陽が爆発するかもしれない。


 1年後 、


    地球が破裂したってあり得ないことではない。


 でも 心配しても仕方がない 。




 人智ではいかんともしがたいことだから。



 人はどこからきてどこへ行くのか。


 こんなことを一生懸命考えている人がいる。


 これも杞憂に近い。


 この地球に生まれ、


 この地球で滅する に決まってる


 そんなことを考えていると、


 しっかり活動している奴に


 途方もなく後れを取るぞ。


 もっと 目先のことを、


 もっと 普通のことを、


 もっと 当たり前のことを


 着実にやれってことなんだよ。


 それをやってない奴が多い。


 遠くに夢を描くだけでさ、


 これも杞憂のようなものだ。


 目先のことで当たり前のことを


 ちゃんとやるだけで、


 この地球じゃ夢も叶うんだよ 。



 みんな そういう星に生まれたんだ!!!

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