月別アーカイブ / 2020年02月

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スペイン風邪は
1918〜1919に
世界的に大流行した

その時期は
第1次大戦の後期に当たる
スペイン風邪の終息は
終戦を待たなければならなかった

当時の世界人口は
推定の国々 地域も含めて
18億人から20億人

そのうちの5億人が感染し
5千万人から1億人が死んだ
(死者数には諸説あり。
 5千万人以下という説もある)

その最大値をとると
人口に対する致死率は
5%ということになる

ちなみに
当時のアメリカの人口は
日本の2倍弱
死者は50万人だった
(日本の死者数は45万人という説もある)

人口比致死率は日本のほうが高い

そのアメリカが感染源だった
それでなぜスペイン風邪か

当時
スペインは中立国で
様々な情報を自由に発信できた
スペイン国内での大流行もあって
スペイン風邪と呼ばれるようになった

ところで
感染源のアメリカは
国内各地の兵営で感染が広がった
軍事基地は密室的社会で
基地間の連絡は密である

感染しやすく広がりやすい

そのアメリカが大戦中途で参戦し
将兵が続々とヨーロッパへ渡った
菌は一気に拡散されて
あれよあれよという間に
パンデミックになった

日本で感染が広まったのは
やはり 参戦し
中国にあったドイツの租借地や
ドイツが統治していた南洋諸島を占領し
感染した将兵が凱旋した
影響もあったかもしれない

また 渡米 渡欧した政財界人や
アーティストを経ての感染もあったろう

当時は所要日数の長い船便で
船内で感染す事例も多かった

ちなみに
劇作家の島村抱月や
画家の村山槐多も感染して死んだ

マスク不足に陥ったかどうかはともかく
僕の母もマスクをつけたという

新型コロナウイルスに
トランプさんが
過敏に反応しているように見えるのは
スペイン風邪を世界的に流行させ
パンデミックを起こしたという
アメリカのトラウマを意識し
それを背に負ってのことだろう








終戦の年1945年の早春の宵
暗い廊下でうずくまり
苦しそうに食べたものを戻している
兄の背中を繰り返し撫でながら
母は励ますように言葉をかけていた

襖を取り払っての二間の座敷では
やや乱れてきた壮行会が
まだ続いていた

兄は壮行会に参加してくれた
近所の男衆に酌をしてまわったが
返盃の酒を飲み干し続けて
かなり 酔っ払っていた

僕が宴席を覗くと
軍装の兄はすくっと立ち上がり
僕に敬礼を行なった

用紙が赤みを帯びていたので
赤紙と通称された召集令状を受けて
数日後には召集先に指定された
部隊の門を潜らなければならない

このとき兄は20歳で
僕は5歳になる少し前だった

後に調べると
兄は3月の上旬に召集され
僕は同月25日に満5歳を迎えた

兄が召集された部隊は
まもなく中国東北部(旧満州)に動員され
ソ満国境近くに駐屯して
国境の守りについた

「満州なら安心ね」

その母の言葉を僕は何度か耳にしている

すでに我が家があった都下の上空は
敵戦闘機がブンブン回っていたし
沖縄戦も始まった

しかし
母には満州の地は
日ソ不可侵条約のお陰で
平和郷そのものに思えたのだろう

8月9日
日ソ不可侵条約を一方的に破り
ソ連軍が国境を越えてなだれ込んできた

旧満州に駐屯していた日本軍は
関東軍と総称されたが
精鋭部隊を南方に抽出され
残った関東軍部隊の多くの装備は劣弱だった

兄がいた部隊は
たちまちのうちに蹴散らされ山野を敗走した
8月15日 
日本は無条件降伏を行なった

兄のいた部隊は
小部隊に分かれ戦いながら敗走を続け
終戦を知らずにいた

その頃のことだと思う

「お兄ちゃんは必ず還ってくるからね。
  うんと強く願おうね」

母が僕を抱きしめて必死の声で言った
「きっと帰ってきてね。
 みんな待っているよ。約束だよ」

それは祈りに思えた

もっと大きくなって 僕は
暗い廊下で兄の背中を撫でながら
母は励ましの言葉ではなく
祈りを口にしていたのではないか
と 思うようになった

兄のいた部隊は敗走しながら
ソ連軍の掃討を受け
全滅状態になったらしい


そのため
戦死の確認が取れない状態で
行方不明扱いだった

僕は学校から帰ると
兄の部屋に入るのが
日課のようになった

本箱には主に詩集が入っていた
読めないままにページを繰っていると
そばに兄がいるようだった

座り机の上には20歳の軍装姿の兄の写真が
写真立てに入れられて飾られ
その前にいつも陰膳が供えられていた

父が出勤し
姉たちも出勤や 登校し
僕も登校した後に
母が供えたものだった

中学入学の年で
まだ小学校の卒業前
学校から帰って兄の部屋へ入ると
母が陰膳の前で正座して
僕に背中を向けて嗚咽していた

僕が入ってきたので立ち上がり
素早く出ていったが
泣きはらした表情だった

母の涙を見たのは
それが初めてで最後のことになった

夜になって家族が揃い
母が泣いていた理由が解った

兄と一緒に敗走して生き残った戦友2人が
シベリアの抑留から解放され
その証言で
兄の戦死の状況が明らかになり
役場から戦死公報が届けられた
言うまでもなく
受け取ったのは母だった

母は気持ちの整理をしていたのか
そのときの嗚咽の声は
今でも耳に響くことがある

中学に入っての初めての夏休み
僕は廊下のそばの畳で昼寝をしていた
話し声に薄眼を開けると
廊下に母が座り
近所の茶飲み友達のおばさんが
廊下に斜めに腰を下ろしていた

戦争の話をしていた

「こんなのばかりが生き残って」

母は僕の方へ手を振った

茶飲み友達のおばさんは
「いい子じゃないの」
と 慰めて笑った

こんなのか
と 僕は束の間傷ついたが
すぐに立ち直った

母が僕に注いでくれる愛情を
僕は充分に受け取っていた

それに
戦死したと解っていても 母が
なお心に兄への愛情を溜めていることを
僕は痛いほど察していた

その母の思いの半ばは
僕が共有しているものでもあった

僕は茶飲み友達のおばさんが帰るまで
タヌキ寝入りを続けた















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新しい地図の3人もジャニーズ退所組で

最近は地上波でも復活の狼煙を次々にあげて

今年の活躍ぶりが大いに期待される


錦戸亮 そして彼の先輩筋になる

赤西仁も同じ退所組だが

共にグループを離れソロになっての

退所であることが違う


この2人はもともと

ローンウルフ的なタイプなんだろうね


年若いうちは

ジャニーズ事務所という学校にいて

アイドルグループ活動に勤しんでいたほうが

学びになるし 友情も育める


しかし

20代も半ばを過ぎる頃になると

ローンウルフタイプは

少しの焦燥感に捉われながら

俺の道 という まだ未知の道を見据えて

ウズウズしてくるんだよ


見据えた先が今は荒野でも

輝く己の道を描いている


ローンウルフとはそういうものだ


俺の道を目指してリスクはいとわない


赤西仁は2014年2月に退所したが

退所以前にKAT-TUNを離れ

全米でソロデビューをはたし

そのシングル「Etemal」は発売初週で

21万7000枚を売り

オリコンチャート初登場1位に輝いた


一匹狼の本領躍如ではないか


退所したときは

すでに全米にフアンを持ち中国での人気も高い


音楽市場としては

アメリカも中国も超大国である


2015年には北京で

「アジア人気アーティスト賞」

「年度音楽大賞」の2賞を

日本人として初めて受賞した


昨年9月末で退所した錦戸亮は

同年12月には赤西とN/Aというユニットを組み

今年からその活動を始動させる


でも

独自の活動が先行している


昨年の11月から

「錦戸亮 Live TOWER 2019‘‘NOMAD``」の公演を

福岡 愛知 東京 宮城 大阪の5か所で11回行った


アルバムも出したし

赤西とのユニットに関係なく

その惑星的活躍は注目していいだろう


一匹狼は無意識に個性を強く出すので癖が強い

彼がいた関ジャニはそれぞれにキャラが立っていた


何度かネタにされたことがあるが

僕は彼らの個性が弾けたやりとりが好きだった


錦戸亮は個性を超えた個性を放っていた

協調性を意識してはその個性が死ぬ

ジャニーズ事務所という学校を卒業して

スキャンダルの楯を失ったが

ローンウルフはそれを怖れない


ローンウルフはスキャンダルを迎え撃って

さらにパワーを発揮する


ところで

ソロ活動で音楽的才能は当然欠かせないが

BTSを見てもみんなダンスがうまいだろ


赤西も錦戸も

日本人のアイドル出身としてはダンスがうまい

と 僕は思うのだがー


N/Aというユニットは波乱含みだな

個人的には仲がいいらしいし

愉快な内容の協定も交わしたというが

なにせ 共に曲者ローンウルフ同士

無事ではすまないだろう


それすら2人のフアンは内心期待している


僕もそうだ

火花散る大喧嘩が一匹狼にとっては

切磋琢磨なのだ


   切磋琢磨なのだ!!!



(敬称略)






























 

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