今
僕は泣いている。
わけを訊く前に聞いてくれよ。
1923年9月1日11時58分32秒
23歳の母は
このとき東京の本所にいたんだ。
今は墨田区本所だが
当時は東京市本所区。
技芸学校の寄宿舎にいて
寄宿生みんなで作っていた昼食が
間もなく食卓に上るところだった。
道を隔てて技芸学校の校舎が立っていた。
技芸学校では料理 和洋裁を教えた。
花嫁学校ということかな。
翌年の春
伊豆宇佐美出身の母は
小田原に住む婚約者と
華燭の典を挙げることになっていた。
午前中の授業は少し早めに終わって
寄宿舎に戻り昼食の支度にかかる。
下町だから
木造の平屋二階家が密集している。
その頃は焼き物は七輪が多かったんだよ。
昼食に食べるサンマの焼ける匂いが
あちこちから漂ってくる。
魚河岸に大型のサンマが揚がりゃ
下町だからさ
我が家も隣家もって感じになる。
いきなり
地鳴りのような不気味な音と共に
経験したことのない揺れがきたんだよ。
それも短い時間に断続してね。
どうなるか想像してみてよ。
たちまちのうちに
阿鼻叫喚が始まった。
かまどや
七輪の火はあっという間に
木造の建物を薪にしてしまった。
母たちは着の身着のままで逃げ惑った。
気がついたら
母は独りになって西へ向かう道を歩いていた。
被災者が列をなして歩いていたという。
母から聞いた話は
すべて断片的だったんだよ。
話したくなかったんだろうね。
かすかな振動を感じても
僕ら家族をおっぽり出して庭へ飛び出した。
日頃
芯が強くて冷静な母なのに。
凄い恐怖のストレスがかかったのに違いない。
末っ子の僕は子どものときから
母と2人だけになると
大震災の体験を聞きたがった。
どうして逃げ延びられたの?
みんなはどうなったの?
母はいやがったねえ
沈黙して瞳を泳がせた。
地震で揺れているみたいにね。
地獄をフラッシュバックさせていたんだぜ
きっと。
「人様の善意に恵まれなければ
私は今ここにいないよ」
ポツリと一言。
地獄には触れず
沿道の人々の炊き出しや
学校 寺社が宿舎を提供してくれたことは忘れられない
と 感謝の念をあらわにしたけどね。
僕がこうして書き進められるのも
母のポツリの集大成があればこそよ。
幾つもの川を渡ったはずなんだよ。
鉄道の鉄橋も道路の橋も殆んど不通で
ボランティアが運用する小舟の渡しでね。
そして酒匂川に出た。
この川を越えれば小田原の市街地。
母は婚約者の実家に寄ってから
東伊豆の宇佐美に帰るつもりでいた。
酒匂川を越える被災者が群れていたそうだよ。
善意の小舟も両手の指に余るほどだった。
順番がきて乗り込んで対岸に着くと
大勢の人が
尋ね人の氏名を書いた幟を立てたり
メガホンで肉親の名を連呼していたって。
土手に上がる途中で母は
「ツヤさん!」
と 通称で呼び止められた。
笑ってくれよ
いや 笑ってくれんなよ
僕の母の本名は
くま
っていうんだぜ。
ひらがなでな。
くまじゃまずかろうって
通称をツヤにしたんだと。
でもよ
役所へ出す書面なんか見ると
くま って書いてあんの。
見るたんびにね
いやな気持ちになって
ぼく じゃ
こぐま かよって。
そんな僕が
後年
ツキノワグマを狩るマタギの頭領の
話を書いて直木賞をいただくんだから
解らないもんだねえ。
話を戻そう。
母を通称で呼んだのは
母の婚約者
つまり
後に僕の父親になる人だった。
婚約者は毎日
酒匂川の西岸出て
渡しで渡ってくる人の中に
母を見つけようとしていたんだって。
婚約者の実家で心身の疲労を取り
母は父に送られて
無事 宇佐美の実家に帰ることができた。
1994年
母はふとした風邪がもとで体調を崩し
自宅で病床についた。
出先からたまたま早く戻った僕は
すぐに母を見舞った。
母はうつらうつらとしていた。
その表情が一瞬ゆがんで
羊皮を力任せに裂くような悲鳴がもれた。
「母ちゃん」
僕は声を落として呼びかけた。
母は目を開けた。
「怖い夢を見ていたの。
最後は仲良しの○○ちゃんと2人だけで逃げて」
「その人どうしたの?」
「逃げる方向が別々になって…」
母は口を閉ざした。
苦しそうに息を継いだ。
「善意に恵まれたんだよ、私は」
母は楽そうに細々と寝息を立てた。
その半月後
母は静かに逝った。
94歳だった。
翌年
阪神大震災が発生した。
僕はごく当たり前のように
1年間 講演 イベントのギャラの1部を
現地の日赤を通して義捐させていただいた。
「よい子に読み聞かせ隊」を結成してからも
中越地震
福岡西方沖地震
東北大震災
熊本地震
などが起こるたびに仲間と共に
被災地を慰問させていただいている。
母が僕を働かせているのだと思う。
母ちゃん
僕はまだ泣いているよ。
寄宿舎の仲間は40人ぐらいいたんだってね。
殆ど逃げる途中で犠牲になったんだろ。
母ちゃんは何も書き遺していなかったけど
あのあたりの惨状を調べた限り
寄宿舎じゃ生き残りは少ないって。
母ちゃんは知ってたよね。
生き残りだったんだから。
○○ちゃんとも逃げ別れになったけど
そっちへ逃げた人は
みんな駄目だったんだろう。
その年若い寄宿生の不運や
とりわけ
母ちゃんと離れ離れになった○○ちゃんの最期を
想って胸が潰れたけれど
それで泣いてんじゃないんだ。
母ちゃん
別の道へ逃げた
○○ちゃんの最期を見たんだろ。
多くの仲間の死も含めて
そのことでとうとう
母ちゃん
自分を責め続けたよな。
母ちゃんの気持ちを思うと
息がつけなくなるけれど
そのことで泣いてるんでもない。
ついに親孝行できなかったなあ。
しっかりと
特に話しづらいことは細大漏らさず
聞いておくべきだった。
それが最大の親孝行になるのにできなかった。
母ちゃんだって解っていたはずなのに
とうとう墓場へ持っていってしまったよな。
それで泣いてんだって。
でも
それでよかったんだよ
母ちゃんが背負った十字架に対する
それが答えなんだ。
そうだよな
母ちゃん
1923年9月1日11時58分32秒
23歳の母は
このとき東京の本所にいたんだ。
今は墨田区本所だが
当時は東京市本所区。
技芸学校の寄宿舎にいて
寄宿生みんなで作っていた昼食が
間もなく食卓に上るところだった。
道を隔てて技芸学校の校舎が立っていた。
技芸学校では料理 和洋裁を教えた。
花嫁学校ということかな。
翌年の春
伊豆宇佐美出身の母は
小田原に住む婚約者と
華燭の典を挙げることになっていた。
午前中の授業は少し早めに終わって
寄宿舎に戻り昼食の支度にかかる。
下町だから
木造の平屋二階家が密集している。
その頃は焼き物は七輪が多かったんだよ。
昼食に食べるサンマの焼ける匂いが
あちこちから漂ってくる。
魚河岸に大型のサンマが揚がりゃ
下町だからさ
我が家も隣家もって感じになる。
いきなり
地鳴りのような不気味な音と共に
経験したことのない揺れがきたんだよ。
それも短い時間に断続してね。
どうなるか想像してみてよ。
たちまちのうちに
阿鼻叫喚が始まった。
かまどや
七輪の火はあっという間に
木造の建物を薪にしてしまった。
母たちは着の身着のままで逃げ惑った。
気がついたら
母は独りになって西へ向かう道を歩いていた。
被災者が列をなして歩いていたという。
母から聞いた話は
すべて断片的だったんだよ。
話したくなかったんだろうね。
かすかな振動を感じても
僕ら家族をおっぽり出して庭へ飛び出した。
日頃
芯が強くて冷静な母なのに。
凄い恐怖のストレスがかかったのに違いない。
末っ子の僕は子どものときから
母と2人だけになると
大震災の体験を聞きたがった。
どうして逃げ延びられたの?
みんなはどうなったの?
母はいやがったねえ
沈黙して瞳を泳がせた。
地震で揺れているみたいにね。
地獄をフラッシュバックさせていたんだぜ
きっと。
「人様の善意に恵まれなければ
私は今ここにいないよ」
ポツリと一言。
地獄には触れず
沿道の人々の炊き出しや
学校 寺社が宿舎を提供してくれたことは忘れられない
と 感謝の念をあらわにしたけどね。
僕がこうして書き進められるのも
母のポツリの集大成があればこそよ。
幾つもの川を渡ったはずなんだよ。
鉄道の鉄橋も道路の橋も殆んど不通で
ボランティアが運用する小舟の渡しでね。
そして酒匂川に出た。
この川を越えれば小田原の市街地。
母は婚約者の実家に寄ってから
東伊豆の宇佐美に帰るつもりでいた。
酒匂川を越える被災者が群れていたそうだよ。
善意の小舟も両手の指に余るほどだった。
順番がきて乗り込んで対岸に着くと
大勢の人が
尋ね人の氏名を書いた幟を立てたり
メガホンで肉親の名を連呼していたって。
土手に上がる途中で母は
「ツヤさん!」
と 通称で呼び止められた。
笑ってくれよ
いや 笑ってくれんなよ
僕の母の本名は
くま
っていうんだぜ。
ひらがなでな。
くまじゃまずかろうって
通称をツヤにしたんだと。
でもよ
役所へ出す書面なんか見ると
くま って書いてあんの。
見るたんびにね
いやな気持ちになって
ぼく じゃ
こぐま かよって。
そんな僕が
後年
ツキノワグマを狩るマタギの頭領の
話を書いて直木賞をいただくんだから
解らないもんだねえ。
話を戻そう。
母を通称で呼んだのは
母の婚約者
つまり
後に僕の父親になる人だった。
婚約者は毎日
酒匂川の西岸出て
渡しで渡ってくる人の中に
母を見つけようとしていたんだって。
婚約者の実家で心身の疲労を取り
母は父に送られて
無事 宇佐美の実家に帰ることができた。
1994年
母はふとした風邪がもとで体調を崩し
自宅で病床についた。
出先からたまたま早く戻った僕は
すぐに母を見舞った。
母はうつらうつらとしていた。
その表情が一瞬ゆがんで
羊皮を力任せに裂くような悲鳴がもれた。
「母ちゃん」
僕は声を落として呼びかけた。
母は目を開けた。
「怖い夢を見ていたの。
最後は仲良しの○○ちゃんと2人だけで逃げて」
「その人どうしたの?」
「逃げる方向が別々になって…」
母は口を閉ざした。
苦しそうに息を継いだ。
「善意に恵まれたんだよ、私は」
母は楽そうに細々と寝息を立てた。
その半月後
母は静かに逝った。
94歳だった。
翌年
阪神大震災が発生した。
僕はごく当たり前のように
1年間 講演 イベントのギャラの1部を
現地の日赤を通して義捐させていただいた。
「よい子に読み聞かせ隊」を結成してからも
中越地震
福岡西方沖地震
東北大震災
熊本地震
などが起こるたびに仲間と共に
被災地を慰問させていただいている。
母が僕を働かせているのだと思う。
母ちゃん
僕はまだ泣いているよ。
寄宿舎の仲間は40人ぐらいいたんだってね。
殆ど逃げる途中で犠牲になったんだろ。
母ちゃんは何も書き遺していなかったけど
あのあたりの惨状を調べた限り
寄宿舎じゃ生き残りは少ないって。
母ちゃんは知ってたよね。
生き残りだったんだから。
○○ちゃんとも逃げ別れになったけど
そっちへ逃げた人は
みんな駄目だったんだろう。
その年若い寄宿生の不運や
とりわけ
母ちゃんと離れ離れになった○○ちゃんの最期を
想って胸が潰れたけれど
それで泣いてんじゃないんだ。
母ちゃん
別の道へ逃げた
○○ちゃんの最期を見たんだろ。
多くの仲間の死も含めて
そのことでとうとう
母ちゃん
自分を責め続けたよな。
母ちゃんの気持ちを思うと
息がつけなくなるけれど
そのことで泣いてるんでもない。
ついに親孝行できなかったなあ。
しっかりと
特に話しづらいことは細大漏らさず
聞いておくべきだった。
それが最大の親孝行になるのにできなかった。
母ちゃんだって解っていたはずなのに
とうとう墓場へ持っていってしまったよな。
それで泣いてんだって。
でも
それでよかったんだよ
母ちゃんが背負った十字架に対する
それが答えなんだ。
そうだよな
母ちゃん