月別アーカイブ / 2019年06月


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北尾さんの生き方は破天荒そのものだった。

22歳11か月で1度も優勝せずに横綱になった。
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199センチの長身で均整がとれているという恵まれた体。

天性の相撲勘。

横綱になれば優勝を重ねていくだろう

と 大きな期待をかけられての推挙だったが

その期待を大きく裏切り

師匠と大喧嘩をして部屋を飛び出し

そのまま廃業に追い込まれた。

22歳11か月で横綱になり

廃業時 まだ20代半ばだった。

僕はこの人がパソコンに精通し

ナイフの収集が好きだと知って

型破りの横綱が誕生した

と 大いに興味をそそられた。


角界を飛び出しての北尾さんは

タレント 冒険家 格闘技選手 プロレスラーという

幾つもの顔を持ち 声優まで勤めている。

何でも受け入れる素質に恵まれ過ぎていた

ということが裏目に出たのだろう。

持病の病気の悪化もあって大成をはたせず

今年の2月10日に55歳で旅立った。


僕はこの人の破天荒ぶりが今でも好きである。


実生活を営むにはキャラが立ち過ぎていた。


しかし

悲劇の横綱と言えば

悲劇度は北尾さん以上に悲劇性に富んだ人がいる。

その名を知っている人は今では少なくなった。


吉葉山潤之輔 本名池田潤之輔


当時としては大柄の力士で美男だったから人気は高かった。

北海道から働くために上京し上野駅に迎えにきていた

相撲部屋の2人に勘違いされ彼もまた勘違いして

そのまま部屋に連れていかれた。

人違いのまま入門したというから

おおらかな時代だったのだろう。

十両入りを目前にして兵隊にとられて大陸を転戦

2発被弾の瀕死の重傷を負った。

兵役は4年に及んでおり

相撲取りとしては伸び盛りの時期を棒に振っている。


戦後 角界に復帰

中学生だった僕が吉葉山の不安いなったときは

幕内三役で活躍していた。

彼には鏡里という好敵手がいた。

いつも鏡里に1歩先を越され

横綱も鏡里の後塵を拝している。


1954年(昭和27年)1月

僕は朝5時前に起きて母から弁当を渡され家を出た。

初場所の千秋楽の日で

大関吉葉山と横綱鏡里はともに14戦全勝で

千秋楽の結びの一番をとる日だった。

その日は早朝から雪が降りしきっていた。

最寄り駅の中央線武蔵境から乗車すると

下りの線路で保線区の鉄道員たちが駆け声を上げながら

ツルハシを繰り返し振り下ろす作業をしていた。

始発から2,3番目の電車でガラガラだった。

近くで大きな四角い缶を肩から下げた人が

座席に座らずドアのそばに立っていた。

河岸へ仕入れにいく魚屋さんだった。


両国で降りると

雪は10センチぐらい積もっていた。

両国の国技館へ行くと戸締りされている。

僕が途方に暮れていると

相撲だったら蔵前の仮設国技館だよ

と通りがかりの人がお知れてくれた。


僕は大雪のなかを蔵前の仮設国技館へ急いだ。

木戸が開く前に並んでいないと

当日売りの立ち見の入場券は売り切れになる

と 聞かされていた。

やっとたどり着くと20人前後が並んでいた。

木戸が開くまで長かったこと。

手袋がなかったので手指はかじかんだ。

木戸が開いて中へ入るとまだ前相撲も始まっていなかった。

序の口 序二段あたりまでの取り組みは真面目に見ていたが

やがてあきて館内の冒険を始めた。

お腹が空いて弁当を食べた。

立見席からの土俵は小さく見えた。

幕下の取り組みが延々と続いていた。

退屈してまた冒険に出た。


支度部屋に入り込んだ。

誰も何も言わなかったが

僕がずっと立っていたので親方みたいな人が

「なんだい?」

と 訊いてきた。

「道に迷って」

僕はあやふやに言って背中を向けた。

十両の取り組みが始まるまで長かったなあ。

桝席に客も入ってきて相撲の雰囲気ななってきた。

いよいよ幕内に入るというときにトイレへ用足しにいった。

立見席に戻ると花道に続く通路を

恐ろしいほど背の高い力士が歩いていた。

214センチの不動岩だった。


結びの一番は吉葉山への大声援から始まった。

立見席も立錐の余地がなかった。

僕は最前列で椅子席との境の手すりを必死に掴んでいた。

吉葉山と鏡里は寄り寄り返されの力相撲を続け

最後に吉葉山が寄りきって初優勝を決めた。

座布団が乱舞した。

僕の目は曇り勝ち名乗りを受ける吉葉山の姿はぼやけた。


場所後

吉葉山は33歳で横綱になった。

しかし 力は峠を過ぎており怪我もあって

優勝を1回もしない横綱として引退した。

引退後 吉葉山道場を作り後進の育成に当たったり

料亭を経営をしたもののいずれも長く続かず

病気もあって57歳で他界した。


悲劇の横綱だったが

生き方はオーソドックスで

破天荒だった北尾さんとは対照的だった。



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 思い出のタイツ

 マリリン モンローの

 赤い顔 黄色い顔 青い顔が

 プリントされてる

 このタイツを

 ニューヨーク土産にもらって

 僕は変わった

 2足もらって

 1足は履きつぶし

 2足目を3度目に履いたとき

 それ 思い出のタイツでしょう

 とっておいたら

 と言われた

 以来

 大事にとってある

 マリリン モンローは

 トランプさんの世代には

 思い出のスター

 トランプさん

 モンローのタイツを履いてみませんか

 機会があったら言ってみたい

 でも

 赤ネクタイに合うかな

 それより

 2国間交渉になったら

 ぜひ

 安倍さん

 トランプさんに言ってみて


 トランプさん

 花札やりませんか

 いや シンゾー カジノへ行こう


そう返されそうですね

来日中のトランプさんに

もしも どこかでバッタリ会ったら

当然 そんなことはありませんが

誘ってみたいっす


せんべろ行きませんか


って

せんべろの説明を求められたら


千円でべろべろに酔えるところです

麻生さんと違って


行こう 面白そうだ


と言いそうじゃないですか

居合わせた人たちとワイワイワイワイ


日本の庶民は話が解る


と気に入ってくれそうです


日本よいとこ 何度でもおいで


せんべろ庶民はトランプさんを篭絡する

えっ そんなことはありませんか

では おしまいにしましょう








 

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欅坂46の2期生 松田里奈さん
19歳 宮崎県出身
ここまではアイドルとしては
ごくありふれた経歴だ。
坂道合同オーディションの応募者総数129182人の1人で
倍率は何と約3400倍。
その難関を潜ったのだから
輝いていたのは疑う余地がない。
少しの社会人の経験がある。
欅坂のアイドルとしては初めてだという。

延岡工業高校で生活工学を専攻し
フードデザインを学んだ。
しかし
卒業して食の世界に身を置いたわけではない。
本人が少しの社会人経験でものにした特技が

  ~札勘定~

つまり 銀行員をやっていた。
ここで
だいぶ 変わり種だなあ となる。

志望動機がまた変わっている。
アイドルに関心はあったが
強く憧れていたわけではない。

  ~受けたらどこまで進めるんだろうか~

何となく自分を試したかったようである。
でも
お堅い銀行員からどうなるか解らないオーディションを受けるまでは
半年間の葛藤があったという。

アイドルを目指す人は
中学 高校時代からその道一筋のことが多く
卒業してからもダンスや
歌のレッスンに通い
何かのバイトをしたことがあっても
オーディションに合格してデビューすることに青春を賭ける。

このことは昔も今も変わらない。
1985年 昭和で言えば60年
小泉今日子さんの「なんてったってアイドル」が大ヒットした。
なんてったってアイドルなんだ
なんてったってアイドルになるんだ
なんてったってアイドルがいちばんなんだ
男の子達の視線を釘づけにできるし
アイドルはやめられない。
当時の
そんなアイドル志願の子の気持ちがよく出ている歌詞で
パンチがあった。

当時のアイドルは大集団のアイドルグループではない。
数人止まりのグループはあったが
ソロのアイドルが多かった。
また グラドル という言い方が生まれたように
いろんな分野でアイドルが誕生した。

そうして平成に入り
みんなでアイドルなら核分裂的エネルギーが発揮できる
という見込みがあったかどうかはともかく
AKBの大成功で世は大集団アイドルグループの全盛になった。

令和でどういう軌跡をたどるか
大集団アイドルグループの未来を予測するのは至難だが
少なくともアイドルになる経緯が多様化することは間違いない。

なんてったってアイドルではなく
なんとなくアイドルになる子が多くなると思う。
そういう子が新しい斬新なアイドル像を創造しそうだ。

松田里奈さんには
その先駆けになってほしい。
画像で見る限りクールな印象だが
声は柔らかくとても可愛らしいという。

札勘定を特技とする里奈さんには大いに期待したい。


 

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