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昭和31年(1956年)の年末のことだ。
出張先の北海道の新得町から戻った父が
ほれ
と僕に鋏の入っていない切符を渡した。
帯広から幸福行の切符だった。
「幸福という駅名は面白いだろう」
「うん」
僕はあまり気の入らない返事をしたと思う。

父は工事畑の旧国鉄職員だったが
昭和27年
早期退職して国鉄の外郭会社で鉄道建設などを行う会社に入った。
長期出張の多い会社で
武蔵野市の自宅に帰るのは盆暮れしかなかったとしもある。
その頃の北海道はまだ新線工事や 延伸工事が盛んで
父の現場は帯広周辺にあった。
ヒグマの肉を土産に戻ってきたこともある。
新得町はアイヌの人も住んでいて
その人たちと一緒に撮った写真を見せられたこともある。

父によると
広尾線の幸福駅はその年に開業したばかりだった。
初めどうでもいいお土産だったが
何度か見直しているうちに愛着が出た。
通学の定期入れにしまって
思いだしたように取り出しては見入った。
高2のとき
定期券を紛失し幸福行の切符も運命を共にした。
いっとき
大事なものを紛失した思いに捉われたが
いつしか その
切符のことは忘れた。

保険の調査員をやっていた頃 父が
「北海道へ行くのか。寄れたら幸福駅を乗り降りをしてみろよ」
と 何気なく言った。
保険調査員の出張は慌ただしく幸福駅に足を延ばす時間はなかった。

1973年
幸福駅が愛国駅と共にNHKんのテレビ番組「新日本紀行」で紹介されて
その翌年 ブームが起きた。
前年には7枚しか売れなかった「愛国→幸福」の切符が
1974年には300万枚も売れた。
父はそのことをよく知っていたはずだが
何にも言わなかった。

1980年代に入ってブームは完全に去り
1987年 広尾線は廃線になり
それに伴って幸福駅は廃駅になった。

2000年代に入って大分経ってから
僕は初めて観光名所としての幸福駅を訪れた。

父が僕に土産にくれた幸福行の切符には
僕が幸せの道を歩むよう父の切なる願いがこもっていた
と このとき悟った。

ブームになっても父は黙して語らなかったが
その切符をなくした僕に気を遣ったために違いない。



1980年
僕が直木賞を受賞して間もなく父が逝った。










 なぜ迷うんだい


 人生は長いから


 死ぬ気で頑張るときがあっても


 程々に頑張るときがあっても


 いいじゃないか。


 一面 人生は短いから


 死ぬ気で頑張ろう


 でもいいんだよ。


 選択するのはきみだ。


 そのときにはそのときの意思が


 決めてくれる。


 心配無用なんだよ。



 ただ


 他人が


 死ぬ気で頑張れなんて言っても


 真に受けないでいい。


 どうしてもその気になれないのに


 死ぬ気で頑張ったら


 特攻隊だよ。



 死ぬ気で頑張ろうというときに


 程々に頑張れなんて言われたら


 水を差されたようだろ。



 死ぬ気で頑張るのも


 程々に頑張るのも自分なの。


 死ぬ気で頑張るのも


 程々に頑張るのも


 頑張ることに変わりはないんだから


 そのときの意思のまんまに


 任せればいい。


 ということだから


 頑張れないときは


 様子見がいちばんだよ 。


バリケードの前まで行けるんなら

きみの心に入ってみたい

 内側がどうなっているのか

 バリケードをよじ登って

 覗いてみたい

 そのとき

 僕を狙撃する兵士は

 いるのだろうか


 いないだろうね

 きみはバリケードの内側に

 様々な妄想を置いている

 きみが生み出した妄想だから

 僕には見えない


 つまり

 空っぽなんだよ

 それをバリケードまで築いて

 守っている

 強いて言えば

 そこにはきみの

 被害者意識が潜んでいる

 そんなもん守ってどうするんだい

 
 さあそのバリケードを

 撤去しようか

 外のいろんな意識が入ってきて

 きみが守っていた

 被害者意識は

 虚妄妄想を産み出していた

 だけだって解るよ




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