朝のドラマ「半分、青い。」を観ている。
主人公の鈴愛ちゃんが左耳が完全に聴こえない
という設定なので興味を持った。
僕は5歳時から難聴である。
左耳が完全失聴の主人公の演技に大変注目した。
鈴愛ちゃんの演技は
95%健常者のものである。
耳に障害があることを打ち明ける場面で
そうか鈴愛ちゃんは左耳が聴こえないんだった
という大変リアリティーに乏しい設定を
そのとき 僕は思い知らされることになる。
片耳が完全失聴だと
立ち居振る舞い 挙措動作のすべての面に
その影響が出る、
耳が聴こえないことで起こる不自由さは
健常者には想像もつかないかもしれない。
程度の差こそあれ
耳の不自由な人は
社会生活をしていて人に訊かれれば
その旨を明かすけれど
「私は左耳が完全に聴こえません」
と書いた紙を胸に吊るして歩くわけではない。
職場などで誰もがその事実を知っていれば
それなりの配慮をしてくれるが
街で出会う人は健常者として見ている。
そのことによって起こる悲喜こもごものことは
どちらにせよ
耳の悪い人には不利益となって返ることが多い。
「半分、青い。」はドラマだからあれでいいと思う。
見逃す回もあるけれど
ストーリーが面白いので
僕は楽しみに観ている。
僕は5歳のときに両耳に患い難聴になった。
右耳が健常者の80%
左耳はその70%の聴力である。
加齢も加わって両耳とも
さらに5%以上失ったかもしれない。
僕より重度の難聴の人がいる。
その人たちに比べれば
社会生活での不自由度はまだまだ低いだろう。
小学へ入ってすぐに知的障碍児と誤解された。
耳が聴こえないことは充分に自覚していたけれど
それを他人に知られることを
僕は異常なほど嫌がった。
声の低い女の先生だったので
授業内容はブツブツとしか聴こえない。
何かで差されてもはにかんでうつむくだけ。
そのうち おうむ返しに解りません
と言えばいちばん楽なことに気づいた。
母が授業での僕の状況を知って先生に話し
先生は僕をいちばん前の机に移した。
後ろから声をかけられても解らない。
とぼけたやつだ となじられた。
面倒くさいから聴こえないことには
うなずく癖がついた。
約束を破った
と非難されたことはよくあった。
高校大学時代は子供のときより聴こえるようになったかな
と自分でも思うことがあった。
聴こえるようになったわけではない。
話す相手の表情や 唇の動きで
聴こえないハンデを補う術を知ったのである。
聴こえた前後の言葉から
聴こえなかった言葉を推理する腕も上がった。
しかし
社会に出ても
シカトされた。
約束を破った。
などと言われることから無縁にはなれなかった。
聴き間違いから起こることは
笑い話が多いが
声が低くて口の中にくぐもるタイプの人の声は
まるで聴こえない。
大きな声でしゃべってください
と頼んでもつかのまでもとの声に戻る。
こっちはときに相槌を打ちながら黙って聞くだけになる。
念を押して引き受けて貰ったことだと言い張られて
どなたかが穴をあけた締め切り原稿を
徹夜で書くはめになったこともある。
バラエティー番組では聴こえなかった人の言葉に
トンチンカンに応えて爆笑を得る
ということが何度かあった。
悪いことばかりではない。
悪口は小声でもよく聴こえる。
表情 口の動き 雰囲気を集中力で感じとり
何を言っているかを類推するからだろう。
メール時代になって本当に楽になった。
よく聴こえない人との打ち合わせでも
「要点をメールに記して送ってくださいね」
と頼んですむようになった。
最近は聴こえないということが
平気になった。
むしろ
改めて診断を受けて
障碍者手帳を交付して貰おうか
などと思う。
何かのときは
「これが目に入らぬか」
と障碍者手帳を振りかざす。
将来 仕事が暇になったら障碍者手帳を懐に
全国を独りで旅したい。