小学6年のときだった。
入学以来、初めて遅刻しそうになった。
子ども時代は虚弱だったから、
風邪を引いて熱を出すなどで、
何日か欠席したことはあるよ。
でも、遅刻だけはしたくなかった。
絶対、してはいけないことだった。
どうしてそんなに頑なな思いになったのか。
それはボクが旧国鉄職員の家庭に生まれ、
その官舎で育ったことにヒントがある。

当時、どこの家にもあった時計は、
柱時計だった。
ボーン、ボーン、と鳴って時間を知らせてくれた。
今の時計のように、正確ではなかった。
あちこちの家の柱時計が知らせる時間は、
みんな少しずつズレていた。
正午の何分も前に、
ボーン、ボーンと鳴って正午を知らせる。
正午をとっくに過ぎた頃に、のどかに鳴リ始める。
みんな、それで平気だった。
柱時計はそういうものだ、
と思っていたのよ。
ただ、旧国鉄職員の家の多くでは、
柱時計はほぼ正確に時を刻んでいた。
鉄道員は正確な時間を求める傾向が強かった。
我が家は工事畑の職員だったが、
父は朝6時少し前になると柱時計の柱の前に踏み台を持ってきて乗り、
ゼンマイを巻いてラジオの6時の時報を待った。
ラジオが6時を告げると、すかさず針を正確に調整した。
その光景を毎朝見ながら育ったボクは、
時間というものをとりわけ大事なものに思うようになった。
要するに、時間に遅れることは、
とんでもないことだと思い込むようになった。
その日、
いつもよりボクは家を出る時間に遅れた。
必要な教科書が1冊見つからず、
家中を探し回ったからだった。
その教科書はとうとう見つからず、
家を出てすぐに駆け足になった。
学校までは子供の足で12、3分だったと思う。
でも、駆け足ぐらいでは間に合いそうもなかった。
途中で絶望的になり、
原っぱに入り込んでカバンを投げ出し寝転がった。
覚悟を決めて開き直ったんだと思う。
白い雲があっちもこっちもポッカリポッカリ浮かんで、
顔を爽やかな風がなでていく。
心地よかったよ。でも、罪悪感に囚われた。
慌てて起き上がって、
カバンから飛び出した教科書、ノートをちゃんと入れて道に出た。
気持ちはまだ開き直っていた。
どうとでもなれという感じで、
かえって胸を張って歩けた。
学校に着いて教室に行くと、
国語の時間で担任の先生が教科書に載っている詩を朗読していた。
教室の後ろの戸を開けて自分の机に向かうと、
先生はボクを一瞥した。
でも、何も言わなかった。
ボクはそのまま授業に溶け込むことができた。
だいぶ後になってのことだったが、
そのときのボクについて先生はこう言った。
「悪びれず堂々と入ってきたよ。イッパツ叱ろうと思ったが、叱る言葉が出なかった」
ところで、見つからなかった教科書は、
当時、飼っていた犬の犬小屋で見つかった。
どうして犬小屋にあったのか、
おそらく廊下でその教科書を読んでいて置きっぱなしにしたため、
飼い犬がくわえて自分の小屋に運んでいったんだと思う。
カレには廊下に前足だけかけて空腹を知らせる癖があった。

それはともかく、その遅刻の1件以来、
ボクは時間にあまりこだわらなくなった。
時間にルーズになったということではない。
時間に縛られなくなったのだ。
何かの約束をするときでも、
慌てなくてもすむような時間に決めて約束をした。
余裕を見て時間を決めるようになった
それは今でも変わらない。
職業柄、締め切りがある仕事をしている。
その締め切り日時ならゆうゆうと仕上がるだろう、
と自信を持てないと引き受けなかった。
テレビにも出ずっぱりで、
執筆のほうでも締切日は受けた段階でもう切迫状態、
という時期も何年間かはあった。
それでも穴を開けないですんだのは、週刊誌、
月刊誌だったらその発売日から逆算して本当の締め切り日を読めたからだった。
寝る時間も短く詰めた。
大丈夫だろうと自分に言い聞かせると、
ちゃんと間に合った。
小学生時代の遅刻はしたくない、
遅刻をしてはいけないという意識だったとしたら、
締め切りが切迫した原稿は書けなかっただろう。
締め切りに縛られるのではなく、
多少の無理をすれば締め切りには間に合わせることができる。
そういう読みを大事にした。
要介護4の車椅子ユーザーの今は、
1日6時間を上限にした仕事時間の中で、やはり、
やたら多忙だった時期と同じ意識でやりくりしながら仕事をこなしている。
時間に追われるな、
時間を追いかけるな、
時間と折り合え、
というのがボクと時間との約束ごとになっている。