伊豆の海辺に産まれたが、
3歳から現在まで武蔵野台地で暮らしてきた。 
子供の頃の武蔵野大地は、
畑と雑木林と防風林に囲まれた農家、
それに後の住宅都市を暗示するかのような住宅地区が浸食して活気を秘めた田園地帯だった。
麦畑にサツマイモ畑、ジャガイモ畑が多かった。
その武蔵野台地の1部になるが、南方を流れる多摩川と、北方流れる玉川上水の間の地域、
つまり、現在の武蔵野市、三鷹市、調布市、府中市、小金井市、国分寺市などが典型的な武蔵野台地の繁栄部を象徴している。
多摩川と玉川上水を結ぶ形でほぼ南北に多数の用水が流れていた。
東西に道を歩くと、ほぼ400メートル感覚で用水が流れていた。
用水に沿った農家は洗濯物や、食事後の茶碗類の汚れ落としを用水ですませた。
そういう農家の多くがアヒルを飼っていた。
夏の夜は蛍が舞って人の目を楽しませてくれた。
用水は生活に密着していたが、
僕ら子供たちにとってもかけがえのない遊び場だった。
コイや、フナを釣ることもできたし、アメリカザリガニもいっぱい捕まえられた。
武蔵野台地の用水の流れは緩やかで、やや濁っていた。
所々が広がって淵になっており、魚の釣り場でもあったが、
それ以上に僕ら子供にとっては泳いだり潜ったりの遊び場だった。
当時は学校にプールがなく、市営町営などのプールもごく少なかった時代で、
真夏がくれば僕ら子供たちは家からふんどし1本の姿で用水の泳ぎ場に向かった。
暗い思いでもある。
夏休み中に、こういう用水で溺れ死にする子供がいたことは忘れられない。
武蔵野台地の用水群は昭和30年代に入ると次々に暗渠化や、
埋め立てられて姿を消していった。
それを加速化したのは1964年の第一回の東京オリンピックだ、と思う。
武蔵野台地の雑木林や、畑も次々に狭まっていき住宅街がモンスターのように広がっていった。
今の子供たちは園や、学校のプールで水に楽しみ、
本格的に水をやる子はスイミングプールに通っている。
用水という自然がそのまま生きている水遊び場は、
もはや、僕ら同世代の記憶の中に存在するだけなのかもしれない。
今から思えば危険な遊び場だったと思うしかないか、
用水で養われた生きる知恵、身を守る工夫もまた多かったにしても。
武蔵野台ちから用水はほぼ消滅したが、
日本の多くの地域には用水が残っている。
そういうところで遊ばないよう、
それを子供の常識として強く養っていくことが急務のように思う。