ウクライナを舞台とする戦争が始まってから、

4歳時、5歳時の記憶が次々に甦っている。

毎日のように耳に入ってきた言葉のいくつかを

タイトル文の中に入れてみた。

【英霊の家】は戦死者を出した家で、
表札の隣に(誉の家)と記された鑑札のようなものが貼られた。

中国大陸だけで戦争をしていた時代は地域の軍の担当者や、市町村の長や、

助役が遺骨や、遺髪を入れた白木の箱と共にやってきて、

それを隣組の人たちが迎えて大変な騒ぎだったらしいが、

その儀式を僕が目撃したときは随分と簡素な印象を受けた。

白木の箱の中身も木片のような位牌のみだったという。

戦況が著しく悪化して遺体を収容するどころか、

遺髪を収集する余裕さえなかったことを表している。

【銃後の民】は戦地に対応する言葉で、

つまりは軍務についていない一般国民のことになる。

幼い僕も銃後の民の1人だった。

(産めよ増やせよ)は子宝を増やして将来の兵員を確保するための標語で、

昭和14年 1939年に時の厚生省が掲げたものだ。

僕は昭和15年の生まれだけど、厚生省が(産めよ増やせよ)の施策を打ち出したときには、

すでに妊娠していたのでその恩恵で生まれたわけではない。

しかし、僕の記憶が明らかな4歳、5歳の頃には子供がぞろぞろいたわけではない。

食料不足もあって、そんなに産んで育てられる状況ではなくなっていたのだろう。

むしろ、戦後まもなくの団塊世代の頃がどこへ行っても子供がいっぱいいたように思う。

この(産めよ増やせよ)は、

旧約聖書の(産めよ増やせよ地に満ちよ)という言葉からヒントを得たのかな。

僕はが懐かしく覚えているのは【慰問袋】だった。

どこの誰かも知らない戦地の兵隊さんにプレゼントする布袋のことで、

いろいろのものが市販されていた。

中にお守りや、昆布菓子や、カルタ、絵はがき、切手などが入れられた。

隣組を通して役場に集められ、さらには地域の軍当局に献納された。

両親や、姉たちが慰問袋に詰める品々を見て、

満州にいる兄ちゃんにも送ればいいのに、

と僕は納得できなかった。

兄ちゃんは旧満州、現在の中国東北部で終戦を知らずに戦い、

20歳で命を散らしている。

僕の1歳年長の人たちはすでに国民学校の生徒で、

見知らぬ兵隊さんに手紙を書いて慰問袋に入れるよう担任の先生に指示されたという。

3つ4つ上の近所の国民学校の生徒が、

お国のために1人でも多くの敵をやっつけてくださいと書いた、

と自慢そうに言ったことを覚えている。

子供の勇ましい言葉は、

戦地の兵隊さんには強い励ましになったようだ。

慰問袋を受け取ったセンチの兵隊さんからお礼の葉書が届いたことがある。

慰問袋に差出人の住所が記されていたからだ。戦況が悪化してから我が家があった都下の上空は、

はすでに戦場だった。

敵の戦闘機に乗っていた向こうの兵隊さん達にもそれぞれ家族がいるだろう、

という思いは生まれることなく、

ただただ味方の戦闘機が敵機を撃ち落とすことのみ祈っていたと思う。

戦争は学歴前でまだ戦意高揚の教育を受けていない

僕ら幼い世代の心まで蝕むのだと思う。

ウクライナ情勢のニュースを耳にするたびに、

銃後の子供たちの逃げ惑う姿が脳裏に浮かんで離れない。