中野の北口にある居酒屋だった。
思いついた時にしか行かない店なのに、
いつも混んでいた。
カウンター席でたまたま隣合わせた男が、
「やってるんですか?」
と、話しかけてきた。
僕は慌てて小説雑誌のページを閉じてバックにしまい込んだ。
たまたまその発売日で、僕が応募している新人賞の中間発表のページをちょっと開いたときに、
僕より少し若いらしいその男が声をかけてきた。中間発表は 一次予選、二次予選に通った作品の作品名と作者の筆名が掲載される。
きっと同じ新人賞に応募している人だな、
とぴんときた。
「僕も応募してるんですよ」
と、彼は言った。
黙っていると、
「予選、通ったたんですか」
と追及するような感じで訊いてきた。
「どうにか二次予選に残りました」
と、僕は答えた。
「そうですか、それはすごいなぁ、僕はその新人賞に数回応募していますが、どれも 一次予選にさえ引っかかりませんでした。他の新人賞にも応募していますが、どれもこれも駄目ですね」
彼はうつむいた。
その彼とはその後、1回だけ会あった。
名刺を所望されて個人名刺を渡したので、
翌日すぐに電話をかけてきた。
会話が始まると、いきなり、
「苦しい、本当に苦しいんですよ、どうにかなっちゃいそうです」
と、暗い声で訴えるように言った。
僕は当時、業界誌の記者をやっていた。
取材先が数カ所あった。
時間を気にしながら適当に話を合わせて、大丈夫ですよとか、もう少し耐えたらどうですかとか応じていたが、
「会いませんか、明日あたりはどうですか」
と、彼が話題を変えたので、
電話終わりにしたくて会うことにした。
彼は初め明るかったが、すぐに表情を陰らせて、「苦しい辛い、いつまでこんな状態が続くのか、もう生きていたくない」
と、訴え始めた。なぜ苦しいのか、なぜ辛いのか、と僕は訊いて、
彼が答えたことに僕ならこうするという言い方で、彼が傷つかないように気を使った。
「そういうことはすべてわかっているんだよ。
でも、そのように自分はできないんだ。だから、
苦しくて仕方がないんだ」
こういう会話はとても疲れる。
途中で僕は彼の話を聞くだけにした。同じことを延々と繰り返し話す。
明日があるので、と僕が立ち上がりかけると、
「あと10 分だけ聞いてくれないか」
と、彼は意外にもスッキリした顔になった。
「フリーターをやっていてもしょうがないな。新人賞への応募もしばらくやめようと思う。田舎に帰ってこの体を使う気になれば仕事は見つかる」
「大きな心境の変化ですね」
と、僕は驚いて強くうなずいた。
「自分に期待しすぎたんです。行く手に輝きばかりを見てね。それで苦しくて辛かったんですね。地道な自分にしばらく付き合ってみようと思います。自分は自分、しばらくごく普通の自分で勝負してみます。こうして誰かに聞いてもらいたかったんです」
田舎へ帰ったその彼から1度だけ葉書がきた。
製材所でデスクワークをしていると書かれていた。
休日には山歩きをしていて結構楽しい、
と伸びやかさを感じさせる言葉もあった。
僕も葉書で返事を書いたが、それっきりになった。
今でもたまに彼のことを、
地道な自分にしばらく付き合ってみようという彼の言葉とともに思い出す。
それは彼のいつ明けるともしれない夜が
ようやく明けた言葉だと信じている。