小学3年の今頃の季節だったのか。
学校から帰ってカバンを放り出すと、
母が台所から出てきた。
とても嬉しそうな顔していた。
「どうしたの?」
と、僕は訊いた。
「バットとグローブを買ってあげるね」
母はウキウキとした声で言った。
よほどいいことがあったのかな。
僕はかえって心配になった。
近くに住む同級生がバットとグローブを買ってもらった。
その同級生は運動が得意で、
今で言えばリトル野球のチームのような地域のチームに入っていた。
僕はそのとき限りの気まぐれで、
バットとグローブを買ってほしい、
と母に駄々をこねた。
もう何ヶ月も前のことだった。
こっちが忘れていたのに、
母が覚えていてくれてそう言ったのだ。
どちらかと言えば、
虚弱体質の僕にとってバットとグローブは、
猫に小判のようなものだった。
それなのに母はどうやってそのお金を工面したのだろう。
家計をやりくりしてヘソくったのかな。
無理したに違いないが、
その母の無理がそのときの僕にとっては何ともやり切れなかった。
(ちゃんとしたバットやグローブを買ったって、
それをちゃんと活用できないでしょ)
と、母が言えばそれですんだのだ。
母は僕の顔を覗き込んだ。
嬉しそうな瞳に、
9歳の僕だったからこそわかった悲しみがそっとにじんでいた。
僕はそんなもん使わないよ、
とその母を本当に困らせることを言った。
母はみるみるうちに悲しみに支配された瞳になって、
「どれだけ大変な思いをして買ったかわかっているの」
と、辛そうな声で叫んだ。
僕は座敷と廊下を走り抜け裸足で飛び降り、
そのまま庭の木戸を開けて外へ飛び出した。
なぜだか怒りがこみ上げてきた。
母を悲しませたことによるものか、
僕が僕自身を怒っているのかはわからなかった。
この日は一駅先の耳鼻科へ通院する日だった。
そのまま僕は裸足で線路に沿った道を歩いて、
一駅先の耳鼻科へ行った。
着くと、
年配の看護師(看護婦さん)が待合室に立っていてニコニコと僕を迎えた。
「これで足を洗いましょうね」
出された水の入ったバケツに僕は足を入れた。
看護師さんは強く絞った雑巾で、
僕の両の足を丹念に拭いてくれた。
何ごともなく治療を終えて待合室を出ると、
さっきの看護師さんが履き古した運動靴を出してくれた。
「少しブカブカだけど、はけるわね。返さないでもいいのよ。
 はいていた人はもう大きくなっちゃったから」
僕はすいませんと恥ずかしそうに言って外へ出た。
なんて余計なことをするんだ。
僕は母に反発した。
母は自宅から近い酒屋さんへ行って電話を借り、
耳鼻科の人に事情を話したようだった。
僕はむくれながらブカブカの運動靴を引きずるようにして家路を急いだ。
我が家に着くと、
僕の好きなジャガイモの煮っ転がしを煮るときの匂いが僕の鼻を刺激した。
「お帰りなさい」
母はにこやかに笑って僕を迎えた。
その瞳にはやはり悲しい色がにじんでいた。
その悲しい色に僕は心の中でごめんなさいと謝った