平岡円四郎が非業の死を遂げた後の京都政情は、

複雑怪奇で何が起きてもおかしくない。

闇で起きる出来事が白昼に、

白昼になすべきはずのものごとが闇で決められる。

価値観が一夜で逆さまになるような、

凝縮して引っくり返るような日々が続く。

第1次長州征伐が始まり、

この時期から薩摩藩の暗躍が目立つ。


征長軍は35藩から動員し、

総勢約15万という大軍になった。

火縄銃装備の藩も多く、

お家騒動や、

領内に百姓一揆の火種を抱えている藩も少なくなく、

戦意は乏しい。

長州は総動員で対応しても、

せいぜい4000人だろう。

数の上では問題にならない。

薩摩藩も征長軍の一角を占めていたが、

戦意がないどころか、

長州の軍事力を温存させる地下工作に腐心していた。

しばらく前までは尊攘派浪士から、

(薩奸会賊)として憎まれていたが、

この時期の薩摩は本心が武力倒幕に傾いており、

長州藩を潰したくなかった。

薩奸会賊とは、

薩摩と会津こそ奸賊という意味である。


薩摩藩の表舞台での立役者は、

西郷吉之助だった。

征長総督は尾張藩前々藩主の徳川慶勝。

西郷は総督から長州藩との交渉を一任され、

禁門の変で上洛した三家老の切腹、

四参謀の斬首を主な条件として長州藩側に実行を迫った。

長州藩はそれを実行し、

長州藩主父子の謝罪状も提出した。

幕府としては長州藩主父子と、

三条実美ら五卿の江戸への勾引を実現したかったが、

総督は征長軍の解兵を急ぎ、

その件は懸案になってうやむやのまま、

第1次長州征伐は一応の終結を見た。

長州藩では俗論党による保守派政権が

奇兵隊、遊撃隊などの諸隊の蜂起で倒され、

武力倒幕藩としての潜在力を温存できた。


しかし、

長州の戦力を根こそぎにしたかった幕府としては、

消化不良もいいところであろう。

京洛の地では禁裏御守衛総督の慶喜対薩摩藩の

綱引きが始まり、

佐幕派としては将軍家茂の上洛が待望された。

薩摩藩の綱の引き手は大久保一蔵、西郷吉之助、

小松帯刀だった。

禁裏は常に揺れたが、

慶喜は孝明天皇の信頼を徐々に得て、

公卿のうちにも慶喜に肩入れする者が多くなってきた。

長州再征の勅許を得て、

自ら兵を率いて大討ち込みと張り切ったが、

長州藩は武備に怠りはない。

薩摩藩の名義でイギリス商人から

ミニエー銃など6000挺以上を仕入れていた。

この長州再征こそ幕府の命取りになるが、

慶喜と薩摩藩の綱引きは続く。

新選組も存在感を大きくしていた。

この時期から鳥羽・伏見の戦い、

大坂城へ将兵を置き去りにしての

最後の将軍慶喜の不意の東帰。

約2年の期間なのに、

謎と波乱の坩堝だったと言っていい。


草なぎ慶喜がその折々をどのように演じるか。

幕末維新の本当の闇が解明され、

それと共に真の慶喜像が衝撃を持って浮かび上がるか。


草なぎ慶喜に期待すること大である。