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空襲警報が鳴ると、
すべての電灯を消したけれど、
お茶の間の電灯は、
傘に捲り上げられていた
黒い布を下ろすだけで点けたままだった。
傘付き電灯は、そのとき、
黒いロングスカートを履いたようだった。
仄暗いスポットライトの内側に入り、、
家族はちゃぶ台をみんなで抱えるようにして、
空襲警報が解除になるのを待った。

そんな従順な対応は最初のうちだけだった。
東京都下の畑と雑木林が同居しているような地域で、
都内のように大規模な市街地や、
住宅密集地は見当たらなかった。
B29の大編隊が、
焼夷弾の雨を降らすようなことはなかった。
ただ、旧国鉄官舎の我が家から半径3キロ以内には、
10指以上の軍事施設、
軍需工場が点在していたので爆撃、
機銃掃射等による攻撃はしょっちゅうあった。
北西方向には、
最盛期には工員5万人を擁した
中島飛行機武蔵製作所があって、
何回かB29の標的になり、
1トン爆弾を集中豪雨のように投下された。
こいつの爆撃音は凄かった。
ズッシーン、
と地響きのように伝わってきた。
その他の軍需工場は小規模だったから、
戦闘機による機銃掃射や、
小型爆弾による攻撃にさらされた。

ほぼ真南には首都防空の重責を担う
陸軍の勇猛な航空隊の調布基地があって、
迎撃に舞い上がった。
敵戦闘機は艦載機のグラマン6F6か、
硫黄島の敵陸軍基地から飛び立ったP51。
多勢の敵戦闘機群に突っ込んで挑み、
角度を変えた円を描きながらの空中戦をやった。
昼間、空襲警報が鳴ると、
防空壕のある庭へ出るけれど、
空中戦を見上げることが何度もあった。
空中戦をやっていれば、
地上へ機銃掃射はしないと解っていた。
夜も空襲警報が鳴ると、
電気をすべて消し縁側へ出て空を見上げた。
数発に1発は弾着を確かめるために、
曳光弾が装填されていた。
それが夜空に赤い点線を描いて美しい光景だった。
戦争なんて感じはしなかった。

後に熾烈な沖縄戦を支援するために、
九州の基地へ移ったと知ったが、
不意に勇猛な戦闘機隊である
陸軍飛行第244戦隊が迎撃に舞い上がらなくなった。

京浜地区を爆撃に行くか、
その帰途のB29の編隊はよく目撃したが、
空中戦の目撃は激減した。

敵戦闘機はわがもの顔に飛んできた。
学校とか、列車とか、
群衆とかを機銃掃射するようになった。
戦闘機は高空を飛んでいる分には怖くない。
機首を下げてきたら危ない。
下げた機首の向きがこっちでなくても、
すぐに防空壕に飛び込むようになった。

そのうち、
敵戦闘機の姿もあまり見なくなった。
代わって、
官舎の大人たちが藁人形に向って、
竹槍を構え奇声を発しながら突撃する
訓練を毎日見るようになった。
学齢期前の幼い子供であった僕の年頃は、
先入観なしに本質を見ていたのかな。
空中戦を目撃しているので、
どこか醒めた目で見ていた。
あんなんで勝てっこないや、って感じで。

それからすぐに8月15日になったと思う。

終戦の翌年、
僕は小学校に入った。
2年のときだったかな。
官舎の女の子たちが、倉庫にオバケが出る、
と騒ぎ始めた。
「ゾウみたいに鼻が長いの」
そんなものいるか、と同級の男の子を誘って、
オバケ探検を行った。
倉庫は官舎敷地に隣接しており、
資材、工具の置き場だった。
倉庫の扉には大型の南京錠がかかっていたが、
窓の1つが開いていた。
そこから薄暗い倉庫内へ入った。
様々な工具が工具かけにかけられているコーナーで、
鍬に似ているが、
木の柄の部分が太く緩やかに流線型を描いている
工具があった。
柄を押すとぶらんぶらんと揺れた。
「これだな?」
「そうだ、これだ」
僕らは顔を見合わせた。
もう少し探検して、
少し懐かしく、かなり怖いものを見つけた。
先端を鋭角に尖らせて、
尖らせた部分を少し焼いて強靭にした
数10本の竹槍が壁に立てかけてあった。
僕らは黙って数秒間、見上げていた。

それから間もなく、
官舎の各家庭の物干し竿が新しいものに替えられた。
新しい物干し竿は、
先端部分を切り落とされた竹槍の平和な姿だった。
なぜかそれに気づいたとき、
僕は胸に希望が灯るのを感じた。