当時、
我が家は武蔵境駅が最寄りの
小金井町、現小金井市の東端にあった。
武蔵境駅から三鷹駅まで電車に乗って、
南口へ降りて線路沿いの道を歩いて
耳鼻科医院へ通った。
日が長い時期は帰途たまにだっただけど、
この跨線橋を越えて歩いて帰った。
正確に言うと、
太宰治を見たのは2度。
1度目は屋台風の飲み屋さんで。
風貌が独特だし、
目立ったんだよ。
「ダザイオサムさんだよ」
と、新聞売りのおばさんが教えてくれた。
僕もうっすら名前は知っていたよ。
武蔵野、三鷹、小金井あたりの
主婦の間では、
その小説は読んでいなくても、
彼はアイドル的存在だったのよ。
我が家は旧国鉄の官舎だったけど、
母が夕食時に、
「向かいの○○さん、今日、三鷹のマーケットで
太宰治を見たんだって」
と、少し興奮して話したことがある。
アイドル要素が4つあった。
1つは東大。卒か、中退かはどうでもいいの。
2つは実家が青森県の津軽の大地主。
3つは心中のしそこない。
自分の亭主にはできないことだから
憧れるのよ。
4つは長身で長髪、のっぺりした顔に、
深い陰鬱さを漂わせていたこと。
通院時に線路沿いの道で
すれ違った彼は着流し姿の下駄履きで、
一瞬、その憂鬱な目と合った。
背後に遠ざかる下駄音は、
少し引きずったものだったかな。
ところで、
当時のこの跨線橋は、
金属ネットも張られていない
鉄筋の骨組みに、
通路の床は少し反ったところのある
コンクリ舗装だった。
階段も両側のガードがなかったし、
階段の縁があちこちに小さく欠けていて、
大きな砂利が剥き出しのところもあった。
恐々登ったもんよ。
通路も風の強い日は怖かったな。
ひ弱な体つきだったし、
飛ばされたら鉄筋の隙間から抜けて
線路へ落ちそうな気がしたもの。
何度も補修したんだろうな。
当時のまんまだったら、
遺跡級だろう。
なくなるのは寂しいけどな
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