NBt28Heglc.jpg

終戦時

満5歳だった僕が40代前半の頃

太平洋戦争の歴戦の兵(つわもの)達は

60代前後でピンピンしていた


僕は15歳年長の兄を戦死で失っていたので

居酒屋等で歴戦の人達が

戦争体験を話し始めると

必ず聞き耳を立てた


中学生から高校生にかけては

戦記雑誌「丸」の愛読者で

勇ましい海戦や 空戦の記事に

胸を高鳴らせた


でも

いつも味方は最後に負けた

いつかはホワイトハウスと

クレムリン宮殿に日章旗を翻し

仇をとってやるぞ

と本気で思ったこともある


そんな記事に興奮しなくても

4歳5歳の頃の我が家の上空は戦場だった

B29もグラマンもロッキードも

P51も見上げて覚えている

戦後になっても

機銃弾はよく畑で拾ったな


地方へ講演に行って

たまたま乗ったタクシーの運転手が

太平洋戦争後期の海軍偵察機彩雲の搭乗員と知り

「あれは速かったですか?」

と訊くと

「速かったですよ。グラマンに見つかっても

 スイスイ逃げられたですから」

などという返事に胸を躍らせた


五反田に行きつけの大きな居酒屋があって

混雑時は2階の大広間に上げられた

壁に大きな日章旗が掲げられており

日の丸の周りに寄せ書きがされていた

「丸」でも何度か登場した歴戦の

海軍航空隊の署名も入っていた


いつも僕には連れがいて

その壁のそばの席が空いていれば

そこへ行った

連れにその航空隊の活躍を語るのが習慣になった


ある夜

その壁のそばで

20人前後が車座を造って飲んでいた

殆どが60代のようだった

その年齢と車座で飲む姿を見て

あの航空隊の同窓会だ

とぴんときた


近くの座卓の席に

彼らに背中を向けて座った

立ち聞きするためだった


勇ましい空戦の話は出なかった

赤トンボと通称された練習機で訓練した

予科練時代の思い出や

ハチの大群のように

上空をぶんぶん飛び回る敵機に迎撃に出られず

愛機とともに掩体壕で歯噛みしたときの

悔しさは語られた


そのうち

戦死した戦友の話になり

援護できなかったことを悔い

自分を責める人もいた


しめは「さらばラバウル航空隊」の合唱だった


この数年後だったかな

僕が仮戦記を書き始めたのは


歴戦の兵達には

日本の敗戦で心に淀んだ敗戦コンプレックスの

残滓が拭い難く残っている

ことを思い知らされたからだ


それに近い残滓が僕の心にもあった


僕は仮空戦記で

日本がアメリカをナチスドイツと分轄支配し

そのナチスドイツと最終戦を演じる
ストーリーなどで大いに跳ね上がった


2年ぐらい経った頃

突然

道で声をかけられた

「読ませていただいていつもスッキリします。

 戦時中は二式大艇に搭乗していました」


ああ 心に淀んだ残滓を解消してくれたんだ

と嬉しかった


5、6年前

本当に久々に例の居酒屋の前へきた

以前の店は消えていた

あの日章旗はどうなったのだろう

元兵(つわもの)共は健在か


仮空戦記をとっくに卒業していた僕は

時が経つことの非情さを

ある意味で心地よく思いながら

自分の戦後を振り返っていた