80年代 90年代は
何回か
三島由紀夫ブームが起きて
若い女性が彼の後期の著書を手に
崇めるようにミシマがミシマがと叫んだ
21世紀に入って
そういう三島はブームは起きなくなった
若い人が崇める人は多様性の時代を反映して
多岐にわたるようになったせいもある
2017年
文庫本の「命売ります」がよく売れて
静かな三島ブームか
と思ったが
うねりにはならなかった
20歳前後の頃
三島由紀夫の作品は5,6作読んだ
みな初期のもので
「仮面の告白」は数回読んだ
自分に重ねていたのかな
ところで
1970年11月25日
仕事が休みだったのか
僕は部屋で三島事件を報じるTVを見続けていた
夕方になって
5、6年越しのつきあいになるKから
呼び出しの電話がかかった
「今すぐこいよ」
興奮した声で三島の挙を語り
新宿だったか中野だったかのバーを指定した
Kは哲学青年で
同人誌に哲学的な詩を発表していた
哲学 文学に関しては大変博識で
その方面について
僕が彼から学んだことは多い
僕に文章を書かせて読んで
「おい、小説を書けるんじゃないか」
と言ったことがある
その言葉は僕の心に刺さり
小説への関心を深めたが
本気で小説を書く気になったわけではなかった
当時は
年若い哲学青年 文学青年がやたらいて
30歳になった僕が小説を書いたところで
彼らに追いつけるとは思えなかった
呼び出されたバーに行くと
カウンターに彼1人がいて痛飲中だった
僕がその横に行くなり
彼はとうとうと三島論を弁じ
僕はひたすら聞き役にまわった
いつでもそうなった
ただ
そのときに彼が弁じた三島論は
殆ど覚えていない
僕は僕で三島事件についていろいろ思い
彼の話を聞き流していたものか
鮮明に覚えているのは
「よし!」
と彼が奮然と叫んで
「いいか、きみは直木賞を取れ。
僕は芥川賞を取る」
と続けたことである
なぜ憤然としたのだろう
三島由紀夫に遅れを取ったという意識か
それとも
三島の起こした事件を憤ってのことだったか
後に彼に訊いてみたかったが
痛飲していたので記憶が飛んでいると思い
あえて訊かず仕舞いになった
その年の1月
保険の調査員として
出張先で暴飲暴食を重ねたせいか
出張先から帰宅した僕は
救急車で運ばれて入院した
手遅れの虫垂炎で腹膜炎を併発し
何日か死線をさまよった
元気を回復したが
院長が退院には慎重で入院は長引いた
小説家志望が芽生えかけていて
僕は入院中に書きかけて小説を
退院後に仕上げ
某小説誌の新人賞に応募した
その作品は2次予選を通り
応募を続けてみようかどうか
僕は決めかねていた
三島事件の夜のKの言葉は
僕の気持ちを応募を続けるほうへ
大きく傾けた
僕はコツコツと応募原稿を書き続けた
7年後
他の小説誌の新人賞を受賞し
更にその4年後
直木賞を受賞した
1999年
僕は「よい子に読み聞かせ隊」を結成
隊長として全国各地で読み聞かせ活動を展開した
その開催回数が2000回に近づいた頃
膠原病で車椅子のユーザーになり
その翌年にコロナ禍がきて
読み聞かせ活動は休止を余儀なくされている
約1歳半 年長のKは
芥川賞は取らなかったが
一昨年
80歳にして某論文賞を受賞して
賞金500万円を授与された
Kがいなかったら
僕が小説家になることは
100%なかったろう
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専修大学出身のお母様によろしく。専修大学の前身を設立した人達の物語「蒼翼の獅子たち」を2008年に書き下ろしで刊行しています。
7年もの間、未来への光を閉ざさず、真っ直ぐに小説に向き合われた事。
そして、ご友人との約束を見事有言実行され、3年後に、最高峰の直木賞を受賞された事。
そしてその栄光に驕ることなく、未来ある子供達へ、自由な本の世界を教えていらっしゃる事。
精神、振る舞い、全てがご立派で、しかも優しい。
優しい方は、誰よりも強い心をお持ちだから、誰よりも優しいんですよね。
やはり凄い方だなぁと、敬服致しました。
私には、志茂田景樹先生が、道標です。
今日も、背中を押す、力強いお言葉をありがとうございました。
先生、今日はもうパソコンに30分以上向き合われているのではありませんか?
どうか、ご無理なさりませんように。
また明日も、その一本の指から迸る、力強い志茂田景樹節をお待ち申し上げております。
ありがとうごさいました。