江戸後期から幕末にかけての人から
コロリの通称で怖れられたコレラ

幕藩体制下で
細かい統計は伝わっていないが
3回にわたって大流行している

第1回は文政年間の1822年で
朝鮮半島か 琉球経由で
九州に上陸して
東海道を東上したらしい

第2回は安政年間の
1858年のことで
やはり 東海道を東上した

第3回は
文久年間の1863年のことで
三たび 東海道を東上した。

しかし
3回ともコロリは江戸に達しなかった

なぜか

箱根の関で
感染者と思しきものは排除される
体温を計ったかどうかは知らない

コレラの感染者は
下痢が止まらず脱水症状を起こし
見るからに憔悴している

炯眼の関所役人と
関所に詰める医師の目は
誤魔化せなかったろう

無論
東海道だけではなく
江戸へ至る街道のすべてで
江戸に近い関所では
箱根同様の警戒を行なったろう

江戸は水路の要所にも
見附(監視所)があった

江戸はパンデミックスを起こす
感染症には強い大都会だった

ただ 風説は色々あって
安政年間の大流行のときは
地方の文書に仰天ものの記述が残る
安芸広島の海王寺の文書
「見聞わらび集」に

江戸虎浪癩病(コレラ)ニテ
死人三十万人余ト申ス沙汰有之

当然
風説を聞いての記述である

この種の風説の記述は各地で
散見できるが、
仮に10万人としても
当時の江戸の人口は100万余
10万人も死者が出れば
江戸の大事件として今日に伝わる

文久年間の大流行でも
江戸の死者が7万人とか8万人とか
の風説が流れている

ただし
3回の大流行時に
江戸の死者がゼロ
ということはなかったろう

コレラは暑い盛りの伝染病
数回の下痢でケロリと治る人も多かった

症状が軽い人は軽かった
そういう感染者の江戸入りを
完全に遮断することはできなかったろう

江戸の寺の過去帳から
そのことを分析する研究もあって
流行年の7月8月の死者数は
通常の年の7月8月に比べて
ピンと跳ね上がっているという

それにしても
2倍3倍という程度である

江戸の関所でコレラを遮断する作戦は
まずまずの成果を挙げたのではないか

さて
私達はそれぞれに
新型コロナに感染しない
対策を持つべきだ

自分を江戸と思おうか
その自分につながる
いくつものルートに
ウイルスは侵入して迫ってくる

各ルートに関所を設けて自衛すべきだ

例えば
何かの娯楽場ルート

マスク 手洗い うがいだけでは
感染のリスクは根絶できない

思い切って終息するまで通わない
という選択も有益だろう














1858-安政年間 江戸だけで10万人


1863-文久年間
 江戸73000人