1994年夏
母が94歳で逝った
関東大震災の被災体験を持っていた

親の決めた許嫁がいて
花嫁修業のため
和洋料理と和洋裁を教える
下町の学校の寮に入り学んでいた

昼休みに寮に戻り
みんなで昼食の支度中に
大揺れに襲われた

木造建物の密集地区のことで
あっという間に一帯は火の海になり
母は命からがら火の海から脱出し
その後は歩いて伊豆の実家へ向かった

沿道の人々から炊き出しをいただき
寺院や 学校に泊めて貰い
数日かけて実家にたどり着いたという

1994年の春頃まで
母は頑健に生きてきたが
春の半ばに体調を崩し
2、3ヶ月ほど床に臥した

当時の僕は
人生でいちばん多忙だった時期で
その病床の母とゆっくり話すことは
殆どできなかった

少なかった会話の中で
僕の心に深く刺さった言葉がある
「こうして生き永らえてこれたのは
  人様の善意のお陰なんだよ」

その数日後
母は他界した

阪神大震災では
現場に入ってボランティアをしたかったが
超多忙状態が続いており
妻と相談して
1年間 講演の謝礼の10%を義援金として
各地の日赤などを通して
寄付させていただくことにした

1998年の秋から
僕は読み聞かせ活動を始めた
母から受けた読み聞かせの思い出が
大変心地よいものとして
落ち込んだときの僕に
いつも元気を与えてくれた

そのことが
始める動機の大きな部分を占めていた

翌1999年夏
仲間が10人を超えたので
「よい子に読み聞かせ隊」を結成した

本格的な活動ということになるが
その方向性はしっかり定まらず
活動しながら迷いがあった

その年の12月のこと
西宮市立瓦林小学校のPTA 役員から
読み聞かせのオファーがあった

〜うちの学校には阪神大震災を罹災し
   今でも心に深い傷を負って
   突然 悲鳴を挙げるような子が
   何人もいます。そういう子たちに
   読み聞かせを体験させたい〜

すぐに承諾させていただいたが
年が明けてその日が近づくに従い
何を読み聞かせるかで迷いが生じた

すでに自作の絵本が何冊かあったが
親との別れとか
悲しい場面がかなりある

母が読み聞かせしてくれた絵本の大部分が
アンデルセンのものだったせいかな

その悲しい場面では
普通に腕白な子供達も
涙を流してくれる
しかし
PTSD を抱えている子供たちにはどうか

散々迷ったが
先入観なしに
いつもの通りにやることにした

涙を流す子がいつになく多かった
やはり まずかったか
と思ったが
それは杞憂だった

終了後
泣いた子たちが僕や
フルートを奏して
物語世界を広げてくれたメンバーに
まつわりついてきて
しばらくは
離れなかったのだ

僕らは命の大切さを
メッセージとして訴えてくれる
絵本を軸に活動を続けていこう
と 方向性を定めることができた

以来
通常の読み聞かせ活動の合間に
様々なかたちで
読み聞かせ慰問を行ってきた

どうしても
地震の被災地が
慰問の中心になった

中越地震 九州西方沖地震
そして
一頃 毎年慰問していた東北大震災
さらに熊本地震

でも
関節リウマチになり
慰問活動は熊本地震を最後に
休止している

昨年の6月からは
車椅子のユーザーになり
秋以降は講演 イベント 読み聞かせなど
体を外で使う仕事は
すべて休止中である

無念の思いも強いが
症状が安定したら
都内等に場所を限定して
読み聞かせ活動と慰問は
再開したい
と 執念を燃やしている

話は阪神大震災がらみのことに戻る

今から6年前のことかな
東京ディズニーランドの最寄駅で
人と待ち合わせをしていたら
突然 声をかけられた
見ると 22、3歳の女性である
傍にお母さんらしい年頃の
女性も立っている

「私 西宮の瓦林小学校時代に
 先生の読み聞かせを聞きました」

2、3分
慌ただしく懐旧談を弾ませたが
その日は眠りにつくまで
いい心地だった

長年を積み重ねてきた活動なので
当時 園児や 小学生だった子供たちも
成長している

今までに何度か大きな駅などで
幼稚園のとききてくれました
などと声をかけられたが
そのときの嬉しさは格別である

これからは
たとえ執筆活動がメインになろうと
僕にとって読み聞かせは
ライフワークとして
再開せざるを得ない道である

無理せず楽しく嬉しく〜