_var_mobile_Media_DCIM_103APPLE_IMG_3412.JPG金の卵か
そんなおおそれたもんじゃなかったぜ
東北の今は平成の大合併で
市になってるけど
当時はN町の生まれ育ちよ
子供はいっぱいいたけど
中学卒業したって
働き口はねえ

俺らの先輩
1950年ぐらいからじゃねえかな
金の卵だなんておだてられてよ
集団で東京へ就職していったな

俺は6人きょうだいのいちばん上で
下は女4人
男1人
その弟のできがよくて
高校に行かせなきゃなんねえ

それで
金の卵になった
1963年(昭和38)のことよ
あとで考えりゃ
団塊の世代の先頭弾じゃねえか

凄かったぜ
そんときの俺らの中学の在校生
600人超よ
俺らの学年
220人な

そのうちの150人以上が
集団列車に乗ったのよ
近隣の他の中学の金の卵を
圧倒していたな

風の便りに聞いたぜ
俺らの中学 今
在校生が100人もいないんだとな
時代の流れは残酷だよな

話を元に戻すと
上野駅には
就職先の係りの人が
いっぱいきていた
幟を立ててメガホンで叫びながらな

俺らの就職先からは
社長も迎えにきていた。
大手自動車メーカーの下請けだからな
孫請けか
従業員100人足らずのな

他中学の連中もまじえて
約20人がトラックに乗せられてよ
宿舎へ案内された

外に階段がついた
2階建てのアパートだった
トイレは1、2階の両方に
1箇所ずつあったけど
風呂は1階にしかなかった
つまりは
風呂もトイレも共同だったけど
新築だし
6畳の部屋に2人ずつで
小さな農家に育った俺には
天国だったな

会社には食堂もあって
朝食から食えた
メシはおかわり自由でな

仕事は雑用よ
旋盤主体のところで
どの旋盤にも戦前戦中は
軍需工場にいたという
古参の奴がついていて
俺らには油指しもやらせてくれなかった

昼休みに旋盤を撫でていたら

テメー
旋盤様にご不敬すんな
テメーらの代わりはいくらでもいるんだ

って怒鳴られて
1発 殴られたけど
これで金の卵かよ
求人率は3倍だっていうのによ

でも
みんな我慢したぜ
辛くて実家へ逃げても
もう居場所がねえんだものな

下町だったから
中秋の名月には寮でお月見をした
数年先輩の人がさ

俺達の親も同じ月を見上げてるぜ

なんて呟くのよ
キュ〜ンと目頭が熱くなってな
親はどうしてんのかな
弟 妹達は元気かな
って思ったら切なくなった

そっとトイレへ行って泣いたよ
なかなか涙が止まんなかった

それから40年程経ってな
会社は2部上場の
従業員2000人近い規模になった
工場がいくつもできて
俺はその一つで工場長を務めた
その時点で他の工場長は
1人の工業高校卒を除いて
みんな大学出だぜ

よくやってきたって
我ながら思ったよ
他の工場で班長やってる同期がいて
独立してうちの下請けをやってる同期もいる

でも
他はどうしちゃったのかな
それぞれちゃんとやってんだろうけど
賀状のやりとりもなくなったよ

それから何年かして
無事リタイアできた
孫が5人いるけれど
2人は大学生
高校生でドイツへ留学しているのもいる
医大も目指しているのもいるんだよ

夢のようだな
俺がスマホいじってるんだものな

自負はあるぜ
日本の高度成長を支えたのは
紛れもなく現場で生き抜いた
俺達のなんだって

その意味じゃ
金の卵なんだよ

夜行の集団就職の列車は
今も俺の心で駆けてるぜ

俺らと故郷を割くような
汽笛を鳴らしてな