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昭和24年の秋も深まった頃

小学4年の僕は独りで

上野動物園へはな子に会いにいった。

タイから日本の子ども達へ贈られた

アジアゾウのはな子は

すでにしてアイドル的存在だった。




その年の夏休み

僕は同じ国鉄官舎に住む

2学年下の仲よしの女の子を失った。

アコちゃんという愛称だった。

体が弱かった僕を

なぜかアコちゃんは

無二の遊び相手にしてくれた。

鬼ごっこが好きで

雑木林に隠れたアコちゃんを追っていくと

額と両頬に土を塗りたくって灌木の間から飛び出した。

「浮浪児じゃぞ~」


戦争が終わって

そのころまでの僕ら子供にとって

フロウジ

という言葉を聞いただけで

恐怖が先に立った。

新聞などに

浮浪児という見出しに気づく度に

見るからに近寄りがたい存在だった。

ラジオから飛び出す

浮浪児狩りや 狩り込み といった言葉に

身がすくむことがあった。

大人たちが浮浪児を話題にすると

すぐに聞き耳を立てた。

食べものなどを盗む。

持ち物をひったくって逃げる。

警官は1匹2匹と数える。


そんなことを聞かされれば

僕らの心の偏見は膨らんでいくばかりだった。

僕らだって焼け出され身寄りのない

可哀想な子ども達だってことは知っていた。

終戦の年の3月10日の夜の東京大空襲では

一夜にして10万人の犠牲者が出たという。

上野駅の地下道を根城にする浮浪児の多くが

その夜 親を亡くした子ども達だ

ということも無意識のうちに

知識として理解していたように思う。

アコちゃんは僕が怖がるのを知って

浮浪児に化けて飛び出したのである。


そういうアコちゃんを失ってから

僕は今で言えばずっと鬱の状態にあったようだった。

独りではな子を観にいく気になったのも

アイドルとして全国区の人気になった

同じ子どもであるその華やかさにあやかりたい

という気もあったに違いない。


西郷さんの銅像を見てから

動物園に入るつもりだったので

長い地下道を通って上野駅の外へ出た。


度重なる狩り込みで上野駅から浮浪児は一掃された

と 親から聞かされていた。

でも まだ生の浮浪児は見たことがなかった。

何人かの子どもの靴磨きを浮浪児と誤認して立ちすくんだ。


浮浪児はいた。

西郷さんの銅像を見て

それから動物園の入り口に向かった。

桜の幹に寄りかかり

奥まったベンチに寝転んで

通りかかった僕に視線を飛ばしてきた。

目だけが澄んで輝いていた。

その目に僕は脅えた。


動物園に入って

すぐに黒山の人だかりに気づいた。

外側の大人たちの脇を潜って前へ出ると

まだ子供のはな子が

朝礼台の半分の高さの木の台にはな子が乗り

飼育係が渡す日の丸の小旗を器用に鼻で巻いて受け取り

後ろ脚だけで立ち

その日の丸の小籏を振りかざした。

歓声があがり拍手が響き渡った。

はな子は何度も向きを変えながら

その芸を繰り返した。

僕は夢中で歓声を挙げた。

はな子の目と合った。

澄んでとても寂しそうだった。

タイにお父さんもお母さんもいるはずなのに

こんな遠い国に独りで貰われてきて頑張っている。

そのことに気づいたとき

僕ははな子から元気を貰っていた。


帰途は別のコースをとって公園口改札に向かった。

その途次にも浮浪児はいた。

僕はその子の目と はな子の目を重ねていた。


生きることに頑張っているんだ。


何だか目頭が熱くなった。



同じ子どもでありながら

あの時期の戦災孤児に対する偏見は何だったのだろう。

同一人の心の優しさと非情さに人は翻弄される。

僕もまた翻弄されてきた。


おそらく

これからも


でも

知らず鍛えられたと思う強さを信じて生きていきたい