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暑い日だったけど
空は透明に青かった

アオギリに止まっていたセミは2匹。
一瞬 鳴きやんで
一瞬後 板塀の木戸がパタンと開いた。
1匹が残り
1匹が短く鳴いて飛び立ち
幹の裏側からも1匹飛び立って
よほど慌てたのか
板塀のすぐ外の電柱の電線に当たり
大きくよろけて持ち直し
飛び去った。

父は台所で昼食の用意をしていた
母に向かって叫んだのである。
国鉄職員としての父の職場は
30秒もかからないところにあった。

母が縁側に出てきて
「本当に?」
と 震えを帯びた声で訊いた。
「ああ、玉音放送で、忍び難きを耐えろ、
 と、仰せられたよ」

母は目を光らせ
へなへなと両膝から崩れて膝立ち状態になった。

僕は空を仰いでいた。
小さな千切れ雲1つなかった。
虚しく寛いだ瞬間だった。
空は戦場だったんだよ。
5歳の子だって緊張を強いられてきた。
それがストスト プッツンと消えたのだ。

心に小さな火の玉が生まれた。

(兄ちゃんが帰ってくる)

希望の火の玉だった。

結露した窓のガラスを黒板に
僕にカタカナのすべてと
ひらがなの1部を教えて
15歳上の兄は兵隊に行った。

終戦の日から 多分
5日6日経った日の夜
僕は烈しく悶え叫んで苦しんだ。
母に体を揺すられて起こされた。
夢だったのか
それともリアルの苦しみだったのか。

(兄ちゃんに何か起きた)

後に母が教えてくれたところによると
僕はしばらく微熱が続いて元気をなくしていたという。

兄は帰還しなかった。
兄はソ満国境近くに配属された師団にいた。
終戦に先立つ8月7日
ソ満国境を超えて満州へなだれ込んできた
ソ連軍に蹴散らされ
満州の荒野を小部隊に分かれて敗走を続けた。
父からそんな情報を聞かされたが
兄の安否は不明だった。
当然 戦死公報はもたらされなかった。

小学生になっていた僕は
兄がシベリアに抑留されたとして
その住所が解れば手紙を書くつもりだった。
書き出しの1行は
(兄ちゃん、ひらがなの続きは学校で覚えたよ)
と 決めていた。

昭和27年 中学1年の春
兄の戦死公報が役場から届けられた。
その少し前
兄と敗走を続けた部隊の生き残り2名が
シベリアから引揚船で帰還し
その人達の証言で
兄の戦死の状況が明らかになったためだった。
8月22日から23日の夜半にかけて
兄は戦車砲の直撃を受けて戦死したという。

あの夜のことだ。
兄は自分の死を知らせにきたに違いない。

戦後74年か
でも
本棚の写真立ての兄ちゃんは
20歳のままで今もいる。


兄ちゃん
あの夜のことはしっかり理解しているよ

無念…いや よすね

兄ちゃんの無念の気持ち
ずっと抱えてきたけれど
兄ちゃんの心を知ってる
明るく自由なんだ
ずっと無念の気持ちと共存させてきたけれど
無念の気持ちのほうはもう出ていってもらうよ

兄ちゃん
僕 79歳になったけど
お陰で明るく自由だよ

兄ちゃん