こんばんは僕です。
タイトルが一瞬下ネタに感じた人は合格です。廊下で待ってなさい。
下ネタじゃないよ。
暴飲暴食、みたいなことね。
つまり落書きに近いカタチになる。
そんなもの何のために公開するんだねって話ではあるんだけど、
まさに話題は、「つまるところコレは、誰のための人生なのか」っていうところだ。
僕は今まで「結局自分のため」と思ってきた。
他人に尽くしたり捧げたり施したりも、そうすることで結果的に自分に「幸福感」がもたらされるのだから。
もちろん、わざわざこの話をしてるからには、僕はこのごろ「この持論は間違っているかもしれない」と思っとるわけです。
旅行の行先にしろ、コンパの会場にしろ、
選択肢が複数あれば当然、希望者が多い方が優先される。
当然、幸福度は、希望者のは高く、「それ以外の少数派」のは低い。
しかし「全体の幸福度の合計」で言えば、コレが最善だ、っていうのは、明らかなわけです。
こういった「幸福の多数決」に直面した場合。の、少数派の立ち回りについて。
何かしらの、ガマンか不満か、それらに類するものに曝されます。
それは決して本意ではありません。そりゃそうですとも。
しかしそれが集団の最善だと、マイノリティ自身も「分かって」います。
集団の最善であることは「本意」なんです。
これ文章にすると「そりゃそうだ」ってことしか書いてないんですよね。
しかし、これ読んで
「は?そういうもんでしょ」っていう人と、
「うわぁわかる……苦しい……」ってなる人
に、分かれると思うんです。
そして後者の人こそ、今回の研究対象であるわけです。
もちろん、幸福の多数決から「下りること」も出来ます。
いつもいつも自分が少数派になる必要はないんです。
同じような感覚の人で集まれば、自分は憧れの多数派になることも可能なわけですから。
しかし問題は、「少数派」の人も「んなこたァわかってる」ということです。
では何故、と思うでしょ。多数派歴の長い人ほど。
それが自分でも、わかったり、わかんなかったりするんですよ。
サボって見えんのかな。
頭に来るよな。
ちょっと「共依存」みたいな構図なのかな、とも思ってきた。
DVの加害者と被害者の関係。
被害者側も「私が居てあげなきゃ」と思う。
逃げれば逃げられる。
人道的にも、ルール的にも、逃げる方法はいっぱいある。
けど選ばない。自分から率先して、そうしない。
そうなっちゃったら損なのは、文字にしたらこんなにハッキリ分かるのになぁ。
他人の幸せを水無しで飲み込む人達へ。
まずあなたは、当然悪じゃない。不必要でもない。
しかし、必要でもない。それは誰しもがそう。
今は多数派をやってるあの人もそう。
人道的にもルール的にも、道はいくつもある。
そっちを選べとは誰も言わない。選ぶなとも言わない。
自分が損するのはオススメはしない。
だけどわかります、自分が貧乏くじに回れば、っていうその気持ちは分かります。
俺は、そういう人のために歌いたいと思います。
けい