月別アーカイブ / 2016年05月

こんばんは。

僕です。




怒涛の新連載
「自分らしさについて本気出して考えてみたら意外にわけわかんなくなって火が付いた」



第2回です。


そして、予定では最終回です。笑

書いてみないとなんとも。





始める前に前置き、というか、言い訳をさせていただきたい。


前回のコメントに、今回書きたい内容と似たことを書いてくださった方がいたのだ。



そう、いわゆる「カブる」ってやつである。






しかしそれで書く内容が揺るぐことはない。




なぜなら、これは他人の受け売りではないのだ。


繰り返す。これは、他人の、受け売りでは、ないのだ。





少々取り乱し気味で筆を、もといスワイプ入力を進める。




前回のまとめ

・自分とは「他人以外」のことである。
・他人あっての自分であって、「自分らしさ」も他人との比較から生じるものである



というところでしょうか。


肩肘張って考え始めたけど、実はもっと気楽に携帯してていいものなんだなあ。



自分らしくありたいものだなぁ。












……ちょっと待て、いま俺なんて言った。





自分らしくありたい、と言ったか。







これはまた、乗り上げたぞ。座礁したぞ。









前回書いたとおり、便利な役立たずこと辞書によると、

自分らしいとは「いかにも自分にふさわしい」「自分の特質を表している」ということだと。


ドヤるな。











自分らしくありたい、と願う。

今の自分は自分らしく居られていないので、そんな自分を改めたいと思う。



つまり状況は、


今の自分≠自分らしい

自分らしい=自分

今の自分≠自分


今の自分が自分であることは自明である


自分≠自分


(証明終わり)






ということになってしまうのだ。



これは由々しい。極めて由々しい。







でも何となく、「自分らしくありたい」と願うこの気持ちを、否定することも、してはいけない気がするのだ。







これまでの人生で、自分自身で作り上げ、また他人と共に生きる中で作り上げられて来た「自分らしさ」。






見失うことは、決して稀なことではないと思われるからだ。




しかし、見失っている時の自分も、紛れもなくその時その瞬間には「自分」であるのだ。





うーむ。












ここで僕は、前回のまとめを振り返った。





自分とは、「他人以外」のことである。





では、他人とはなんだろうか。




文字通り「自分の他の人」ということなのだろう。



極めて無限に近い言葉ではある。





しかし、「自分が他人と認識している人」に限定するとどうだろう。




要は「知人」あるいは「知り合いじゃないけど一方的に知ってる人」とかも含まれる。



すると、数はかなり絞られる。




その中で、今この瞬間の「自分らしさ」に関わってくる人は、どれくらいになるだろう。

その瞬間、居る場所、環境、周りを囲む「他人」の数、種類は常に変化する。


会社、家、旧友との時間、その他様々。

場面によって、その時その場に居る「他人」は違う。


そして、その時その場に居る「他人」が、「他人以外」である自分の形成には、大きく関わるのだろう。






そこでまた一つの、仮説を立てた。



「自分らしさ」とは、環境によって大いに変化するものである。







僕の敬愛するラーメンズ小林氏が、テレビのインタビューで言っていたことが頭をよぎった。


「高校までは、クラスでいちばん絵が上手いヤツ、ってキャラだったんですよ。
それが美大に進んだら、周りはみんな絵が上手いですから、キャラがなくなっちゃって。また居場所を探さなくちゃならない。

そしたら、それまではサブ的要素だった『お笑い』の方が、どんどん楽しくなっちゃって、大きくなっちゃって」と。



今や押しも押されぬ、日本を代表するエンターテイナーである彼は、没個性からの脱却の手段という、極めて消極的にも見える選択で、その道に歩を進めたのだ。











新しい環境に飛び込むとき。

今までの「自分」が通用しなくなる。



しかしそれは恐らく、自分が衰退しているのではなく、ひょっとしたら、環境の方のグレードが上がった、ということなのかも知れない。



そうでなくても、身を置き慣れていない環境の中で自分を見失うことも、自分を形成しなおす行為も、衰退や逃げなどではなく、自然な変化であるのだろう。





しかし自分が気に入っているものや、誇りに思っている物を脱ぎ捨てる、というのも、何とも気分の悪いものだ、という人も居るだろうと思う。




きっとそれも、自然な感情なのだろう。




そして「今までの自分」を優先し環境に訴えるのか、環境に適合した「新たな自分」を見出すのか。


その都度、秤にかけて選択する。





その選択も恐らく人によって異なる。



つまり、その傾向も、その人の「らしさ」なのだろう。


この場合の「らしさ」はおそらく、あまり自覚はないものと思われる。




無自覚であっても、他人から見た「らしさ」は、紛れもなく「自分らしさ」なのだ。





なるほど、「自分らしさ」には、

自覚のあるものと、そうでないものがあるんだな。








しかし、特に環境に変化がなくても、
「今の自分は、らしくない」と思うこともあるなあ。


どう解釈しようか。





これはきっと「成長」「向上心」なんだろうと思うことにした。

これはもう、そう思わないと、ちょっと辛いから、そう思えるなら思うことにした。笑



同じ環境にい続けても、人は成長し、変わり続けていくものである。
それは自分も、もちろん他人も。





自分の技量や器量より先に、価値観が先行して成長すると、「本当はもっとこうしたいのに、できない」となるのだと、僕は思う。







その瞬間の自分は、全く「自分らしくなくない」のである。







先述の、「環境が変わった場合」においても、同じことが言えるだろう。



そもそも持ち合わせた「自分らしさ」を、そのまま違う環境に持ち込んだ結果が、自分にとって思わしくない、というだけ。



自分のプロフィール自体に変化はないのだから、その段階で「自分らしさ」に変化もないはず。






つまるところ、


「こういう自分でありたい」という「願い」は、



「自分らしさ」とは、少し違うのだ。



しかし、それを「願うこと」自体は、

間違いなく、「その人らしい行為」なのだ。





ちょっと話が込み入りすぎてきた。

自分でもちょっとパニックだ。

ホントにね、面と向かって居酒屋かなんかで話してたら、もうちょっとスムーズなんだろうと思うよ。


そんなブログ書いてていいのか俺。




前回と同じ流れで自己肯定。







前回のものと合わせて、

今回の僕の考察の要点。




・自分とは、「他人以外」のことである。


・「自分らしさ」とは、環境の変化や時間の経過によって大いに変化することもあり、変わること自体を恥じたり、貶めたりするべきではない。

・「自分らしさ」には、自覚のあるものと、無自覚のものがあり、自分で自分を見ることが出来ない以上、恐らく無自覚のものの方が多い。それを不満に思うのは決して冷静でない。


・「こういう自分でありたい」と思う時点で、それは「自分らしさ」ではなく、「願望」である。
しかしその「願望」や、「願うという行為」は、非常に「自分らしい」ものである。







とすれば、だ。




「自分らしさ」というものは、

そこまで深刻に考えるまでもなく備わってる物で

自分でどれだけ考えたって幾らも分からなくて、不安定で、だからこそ柔軟で、

でもどうにか、これってものが欲しくなったりして、

もがいたりしながら、少しずつ変えながら、知らないうちに変わりながら、

そんなことしてる間も、ずっと側にあり続けるもの


ということになる。





なんとも明確で、なんともフワッとした概念だ。


自分のがそうだから不安になるけど、

自分から見たら「他人」の人たちも、

ひとりひとり、みんな同じように、

明確で不明瞭なそれを、

気付いたり気付かなかったりしながら、携帯してる。



ガッチリ掴んでるもの、服の裾にくっ付いてぶら下がってるもの。



全部ひっくるめて「自分らしさ」なんだろうと思う。





だから何だって話じゃない。
これはただの「自分らしさについての考察」だから。




もちろん、腑に落ちないって人も居るだろうと思う。


それも、その人らしさ。










ただ、ひとつ思ったのは、




自分らしさ、とか、自分らしく居ること、とか。



とても素敵な事のように扱われるけど、



必ずしも、そうじゃないんじゃないか、ということ。





自分の嫌いなとこも、見ないふりしてるとこも、

間違いなく、「自分らしさ」に含まれるわけで。





自分らしいことが素敵、なんじゃなくて。

自分らしさを素敵にしてやろう、っていう行為が、素敵な事なんじゃないかな。と。







ま、自分押し殺して不満だらけ、よりはずっとずっといいんだけどね。


ありのーままのー、ですよ。


そうじゃないよりはずっと楽で、身軽でいられるけど。



それだけじゃないよねえ、って思っちゃう僕は、


ひょっとしたら、いや確実に、

少しひねくれているのでしょう。



その辺は、自分ではちょっと好きで、だいぶ嫌いな、「俺らしさ」のひとつ。かもね。













さて、そんな感じです。



いかがでしたでしょうか。



タメにはなりませんね。






より良い自分らしさを追い求めるのか、

今よりもっと気楽に自分を愛せるのか、



その辺は読んだ方の「らしさ」に任せます。






偏屈さは俺らしいけど、少しずつ矯正はしていかないとなぁ。とか思ってます。







自分らしさの中の、素敵な部分だけを、人は「自分らしさ」と呼びがちです。



それでも便利な言葉だと思いますが……どうなんでしょうね。





今回、ライブテーマに掲げるにあたり、


皆さんにどう感じて欲しいか、を、自分なりに定めました。


僕らは「300人に聞いてもらった!」「1000人集めた!」とか、言っちゃいますし喜んじゃいますけど、


聞く人は、何百分の一として聞いてるわけじゃない。

JARNZΩの歌を聞きたいって言ってくれる「1人」が、たくさん集まってくれてる。

300人いれば300人の「1人」があって、
300の「自分」がある。


それぞれが自分らしい事情を持って、会場にやってくる。
いいことも、嫌なことも、ガッチリ掴んだり、服の裾にぶら下げたりしてやってくる。


胸張って言える「自分らしさ」と、そうじゃないのがある、と思う。きっと誰でも。




だから、無謀かもしれないけど、誰にでもピッタリくる歌を歌いたい。

聞いてくれる全ての人が、今日よりもう1歩、「自分らしさにしたいもの」に近づくエネルギーになりたい。

そして、「JARNZΩの歌を聞く」というその人の選択を、
どうか、胸張って「自分らしい」と言って欲しい。

そんなことを思いながら、あれやこれや、色んなことをしました。




今回は本当に、色んなことをしました。笑







僕はどうやら、「頼れるやつ」「使えるやつ」になりたいみたいです。


これは自分らしさなのか、まだそうじゃないのか、僕にはわかりません。



見た人と、一緒に歌ったメンバーが、どう思ってるのか。











あとは、笑いたいときに笑って、泣きたい時に泣いて、その瞬間は、間違いなく自分らしいと思います。


そういう時間を提供できたらいいな、とも思ってました。


案外難しいからね。




あれ、「自分らしく」のまとめ、


ひょっとして、最後のこれだけでも良かったんじゃね……??













後悔する時間も、きっと今までの、そしてこれからの「自分らしさ」に

大いに関わっていくのでしょう。


そう信じて。信じたいなあ。



じゃなきゃ全部読んだ人が報われない。





まったく、便利な役立たずめ。







おしまい!!!









けい

おはよございます。




僕です。









5/5、JARNZΩ Go ahead!!~自分らしく~
@表参道GROUND

オカゲサマで、満員御礼。
本当にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。







今回テーマとなった「自分らしさ」


実は決まった段階では、そこまで大々的にテーマとして取り上げるつもりじゃなかったりもしたんです。笑




ただ「結局自分らしさってなんだろね?」ってメンバーで話してるうちに、段々熱くなっちゃって燃え上がっちゃって。。。


結果的には、この「自分らしさ」という概念に振り回され救われて、そして僕ら自身が改めて「JARNZΩらしさ」と向き合うライブになりました。












自分らしいとは何だろう。


その疑問に答えを出すべく、まず僕は






「らしい」という言葉を、辞書で引いてみた。




『いかにも…にふさわしい。…の特質をはっきりそなえている。』
とある。





「自分」も引いてみた。


『その人自身。おのれ。』とあった。






たまに例外もあるけど、
大概の場合、辞書は分かり切ったことをドヤ顔で言ってくる。


今回もそうだった。


ちなみに「自分らしい」は辞書にはなかった。


くそっ、便利な役立たずめ。







とにかく、「自分らしい」というのは、

「いかにも自分にふさわしい」「自分の特質をはっきり備えている」という状態なわけだ。



つまり「自分らしさ」とは、「自分への相応しさ」「自分の特質」ということになる。




となれば、自分の姿カタチも中身も知ることが、「自分らしさ」探しへの近道だということだろう。

要は「自分探し」だ。






自分の特徴、得手不得手、趣味嗜好、そういったもの。




特徴とか得手不得手っていうのは、残念なことに自分ではよくわからないものだったりする。




当然と言えば当然だ。

そもそもこれらは「他人と比べてどうであるか」のバロメータだから。

「目が大きい」「足が短い」「手先が器用」とかってのは、

その人よりも目が小さくて足が長くて不器用な人がいる前提の話だ。


特徴や得手不得手は、自分以外があって初めて成り立つものなのだ。












ここでひとつ、疑念が生じた。



「他人と比べて如何、なんてモンは、果たして『自分らしさ』だろうか……?」










なんとなく、ではあるが、


「自分らしさ」ってのは、もっと確固たる物で、
他人の存在に左右されるような、生っちょろいものじゃいけない、ような気がしたのだ。







というわけで、「特徴」「得手不得手」を、一旦「自分らしさ」から除外することにした。










となると近そうなのは「趣味嗜好」だった。

アレが好き、これは嫌い。

そう言い切れることは、この上なく強固な「自分らしさ」ではないだろうか。





ちょっと待て、今「言い切る」っつったか俺。



「言う」って言ったか俺。







少し前に僕の中でふんわり生まれた、

「自分らしさ」とは、他人の存在に関わらず、強固に存在するもの

という仮説は、早速瓦解した。










ちょっとだけ、想像力を逞しくして読んでくださいね。笑





例えば、世界に自分1人しかいないとして。

まあ、物は普通にあって生きてける状態、と仮定しましょう。




まず、「自分」って言葉はないよね。

いや、そもそも言葉の必要性がないね。
誰もいないから。伝える必要が無いから。



ひとり言を言うだろって?

それは「言葉」ありきの、「他人」ありきの発想じゃないかなぁ。
もっと逞しく妄想してください。それじゃ立派な変態になれませんよ。え何言ってんの俺。




とにかく世界に自分しかいないんだよ生き物が。

言葉のない世界。
自分のお腹や心を満たしてくれるものを当然求めます。



食べられるものがあります。


これは好き。
これは苦くて美味しくないや。嫌い。




好きなのを食べるでしょ。

嫌いなのは食べないでしょ。
多分、二度と食べないでしょ。

「好き嫌いしないで食べなさい!」とも、
「えー美味しいのにー食べてみてよー」とも言われません。



そしたら、その嫌いなのを食べる人、は、世界中に1人も存在しないわけだ。




となれば、それは「嫌いな食べ物」じゃなくて、「食べ物ではない」ってことなりますよね。

「タコは食べ物ではない」っていう国の話を聞く感覚に近いかな。
想像して。一生懸命、事情を想像して。





食べ物でなくても、匂いや景色や色、好き嫌いありますよね。




でも、世界に自分ひとりだったら、


それはもう、「好き」と「嫌い」じゃなくて、


「いい」と「悪い」になりますよね。






「好き嫌い」は自分のプロフィールだけど、

「善し悪し」は匂いや色の肩書きであって、こっちのものじゃないわけよ。




……伝わってるかな?

ブログじゃなくて酒でも飲みながら話したいことだなこれは。居酒屋トークだな。

いいのか俺、そんなブログ書いてて。
もう4時半だぞ。

いや、今までだってそんなブログしか書いてこなかったじゃないか。


オーケー、話を戻そう。






「他人」の存在がなければ、

「自分」の肩書き自体、必要がなくなる。


そして、もはや物の名前や言葉すら無くなって、

ひいては、「自分」のプロフィールなど存在しなくなる、ということです。



当然、そうだよなぁ。
当たり前すぎて考えもしないようなことだけど、でも、大事なことだなーと感じました。


「嫌い」は、誰かの「好き」の上に成立している。
逆もまた然り。だな。










「自分」とは、「他人以外」のことである。



何となく七五調でキマリもいい結論だなぁ、とか思いました。笑




「自分らしく」って、そんなに肩肘張るようなことでもないのかも知れないな。





うーん、自分らしくありたいものだなぁ。



















ちょっと待て、今オレ何て言った……?





ってわけで、また別の問題に直面するわけですが、




この続きは次回、書きます。(!)





というわけで、まさかの連載第1回
「自分らしさについて本気出して考えてみたら意外にわけわかんなくって火が付いた」



また次回お会いしましょうごきげんようさようなら!←





まずはとにかく、




「自分」とは、「他人以外」のことである。


ドヤ。


辞書じゃねんだから。







けい

こんばんは。



僕です。




世間はGWで浮かれてます







僕ですか?





そりゃもうね、ガッツリワンマンの準備、略してGWですよ。













いや「ワンマン」なら「O」じゃね…?






って疑えなかった人は、
今すぐ中学校の英語の教科書を引っ張り出すかなんかしましょう。










信用するな、という意味では無いのでしょうけれど、

この「疑う」という視点。

先人達も、大事にせよと教えを残してくれていますね。









僕がそうなんですが、ひとつ自分の中に教科書的なものが出来ると、それ一辺倒になっちゃうんですよ。




森羅万象全てに挨拶したわけでもないのに。

自分の狭い世界で、帰納と演繹を繰り返してるわけです。




そんなことやってると、あるときふと現れるんですよ。


自分の持ってるメソッドを総動員しても、とても敵わない「壁」が。




持てる手段は全部試したのに、どうにも上手く片付かない。



もういやだーって投げ出したくなる。


ってか、一旦投げ出します。僕は。

辛抱弱いことこの上ないので。ザコです。アタシゃ。




で、大概いつも投げ出してから気付くんですよ。



ああ、これは壁なんかじゃない。


ただの「初めて見る景色」だって。





「景色」の定義を勝手に自分で作ってしまって、

それに当てはまらなければ、それは「景色でない」と認識されてしまう。



見たことの無い色の空、

見たことの無い材質の地面、

見たことの無いその他諸々。



例えば、いきなり目の前の景色がマリメッコみたいになってたら、多分そっちに進めると思う人の方が少ないだろう。





でも、それくらいのレベルで「初めて」に出会うことは、僕くらいだとしょっちゅうなのだ。






壁だと思われたそれが、進める空間、進むべき道なのだとわかってしまえば、そこからは話が早い。


という、わけでもない。




見たことの無い色の空、

見たことの無い材質の地面、

見たことの無いその他諸々。



そこに踏み出していくのはとても恐い。



知らないこと覚え、出来ないことを学び、そこに進むに相応しい自分にならなくてはいけない。



そうなれる保証はないし、自信も当然ない。




でも、それが出来れば、間違いなく今より「出来る人」にはなれる。


そうなりたいと思う自分がいる。




恐怖を押し殺して、ゆっくりと歩を進める。




転んだり、行き詰まったりしながら、


見たことの無い色の空の下、

見たことの無い材質の地面の上、

見たことの無いその他諸々の中を、ゆっくり進んでいく。




そしてその景色の中でまたいつか、「壁」にぶつかる。







もし「これは本当に壁か」と疑うことが出来たらきっと、もっと話は早いのだろうと思う。なかなか出来ないけど。


それは即ち、「自分自身の経験と価値観」を疑い、ケチをつけるのと同じことだから。




他人にそんな事されたら、多少イラッとも来るだろう。



自分でだってしたくはない。



でも、そんなに誇れる自分はきっと、まだここには居ない。




今の自分が胸を張って「誇れる」と言いきれる人はきっと、

今の自分の物差しでは、到底測れないような大きくて深い人だろうから。






なんせ慢心は何ももたらさないよ、という、自戒のお話。




そして今、ワンマンに向けて、そんな格闘を繰り広げてる。




多少怖くても、未知でも、保証がなくても。



歩いていこう。




Go walk。



おっ、GW。










ほんじゃ持ち場に戻りやす。


じゃねっ。


やるよ。






けい

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