月別アーカイブ / 2020年05月


皆さんは、挫折をしたことがあるだろうか。
誰しも、きっとあるだろう。

私も短い22年間の中で、数えきれない数の挫折をしてきた。しかしその中でも、特に記憶に残っているお話をしようと思う。
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私の最初の挫折は、「おてんば病」の時に少しお話した、母と2人の冠番組の取材での事だ。

あまりに古い記憶なのであまり正確ではないが、私はある取材で、たった7、8歳の癖に自分に落胆した。
それまでは、ただ楽しくてその仕事をやらせて貰っていたが、何となく自分の中で、「この世界で生きていきたい」と言う気持ちが芽生え始めた頃だった。

あの大人気アイドルグループ、Berryz工房さんが、仙台に来てくれたのだ。
仙台駅にある、Zepp仙台。今はもう無いが、当時は有名なアーティストさんが沢山ライブをしていた。私が初めてTHE YELLOW MONKEYさんのライブを観たのも、確かZepp仙台だったと思う。
そこでBerryz工房さんがライブをすると言うことで、私と母は取材へ向かった。

楽屋へ行かせてもらい、メンバーの皆さんにお話を聞かせて貰うことも出来た。
その時私は、衝撃を受けた。
よくよく考えれば、東京で活躍するアイドルの方に生で会うのはこの時が初めてだったと思う。 
とにかく皆さん顔が小さい。細い。かわいい。
私とは元々作られている細胞から違う気がした。

インタビューが終わり、リハーサルも見させて貰った。さっきまで楽屋で話していた時に垣間見えた幼さは一気に消え、アイドルの顔に変わる。彼女たちの全身から、物凄いパワーと輝きを感じた。
その姿を舞台袖から見ていた私は、初めて自分に自信が無くなったのだ。

東京へ出たい、東京は凄いところだ、と言う漠然とした憧れしか抱いていなかった私は、レベルの違いを思い知った。彼女たちと何かのオーディションで肩を並べたら、勝てるわけがない。いや、まず肩を並べる所までもいかないだろう。
元々アイドルになりたい訳ではなかった私だが、「自分は、彼女たちと同じステージには立てない。」と、幼いながらに感じてしまったのだ。

その数年後、AKB48へ入る事になるとは、世界中で誰一人想像していなかっただろう。
そのまた数年後、当時私がインタビューさせて頂いたBerryz工房さんのメンバー、清水佐紀さんと主演舞台で共演する事が出来るなんて、当時の私が聴いたらきっと気絶する。

人生何が起こるか分からないものだ。

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その次の挫折は、小学校中学年の頃。
私は、オーディションに落ち続けた。
毎月のように母と東京に行き、あらゆるプロダクションや舞台のオーディションを受けた。
尽く、ダメだった。いや、いい所までは行くのだ。
最終審査で、いつも私の名前は呼ばれなかった。

その中に、ホリプロスカウトキャラバンのオーディションがあった。実は私は、AKBのオーディションを受ける前に、今お世話になっているホリプロのオーディションを受けていたのだ。
私が「舞台をやりたい!」と思ったきっかけをくれたのが、ホリプロが何十年も上演し続けているブロードウェイミュージカル、「ピーターパン」だった。
私が観に行った時は、高畑充希さんがピーターを演じていた。
圧倒された。会場全体が夢と希望に満ち溢れ、お客さんと出演者が一体となり、とても幸せな空間が出来上がっていた。
この事務所に入りたい。と思い、その次のスカウトキャラバンへ応募した。

しかし私は、募集年齢に達していなかった。
それじゃダメじゃないかと笑われるかと思ったが、当たって砕けろ、書類を出してみた。
すると、二次審査の案内の通知が届いた。
私が応募したのは、東北ブロック。ここには東北地方からの応募者が集まり、1人に絞られる。本戦へ駒を進められるのは、東北で1人しかいない。とても狭き門だ。
私は何と、最後の2人まで絞られた。隣には、秋田県出身の安田聖愛さんがいた。その後、このスカウトキャラバンのグランプリに輝く方だ。当時から飛び抜けて綺麗な方だった。

案の定私は、「年齢制限を設けている以上、募集年齢に達していないあなたを本戦へ行かせるわけにはいかない」と、不合格だった。
当然だと思う。しかし私はその時、悔しさよりも喜びの方が大きかった。

当時審査員をやられていたホリプロのマネージャーの方が、わざわざ私を別室に呼び出し、不合格の理由をきちんと教えてくれたからだ。
普通、こんなことはまず無い。
しかも、そもそも応募条件を満たさず応募した私が悪いのに、門前払いせずに、きちんと私の自己PRを聴いてくれた。
そして、「募集年齢をクリア出来たら、また必ず挑戦してみて。」と言ってくれた。

この時、その言葉を私に掛けてくれたマネージャーさんは、今もホリプロにいらっしゃって、所属部署は違うが、イベントや現場でお会いすると、必ず笑顔で声をかけてくれる。

そのすぐ後、AKBへの加入が決まった私は、2回目のスカウトキャラバンを受ける事は無かったが、今こうして、昔から入りたかった事務所でお仕事をさせて貰っている。
私が初めて舞台の魅力の虜になった「ピーターパン」でピーターを演じていた高畑充希さんとも、「忘却のサチコ」で共演を果たす事が出来た。
あの時、「年齢達してないからなぁ…」と諦めていたら、この結果にはなっていなかったかもしれない。

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私が思うに、挫折とは、"種"である。

自分で撒いた種が、数年後、いや、数十年後、大きな花を咲かせる事もある。

今、「失敗した。」と思っても、未来の成功へ繋がる事もある。

人生何が起こるか分からない。

自分の花は、自分の種でしか咲かない。

そしてその種は、誰もが生まれた時から、片手に握り締めているんだと思う。

挫折は人生において、間違いなく必要な経験のひとつである。

でもそこで諦めずに、自分を責めずに、

「この経験は未来への種だ。」

と思うこと。


そうすればきっと、花は咲く。



…かもしれない。





そんな父と、性格が正反対の母。
私が仙台に住んでいた12年間、父と母が喧嘩をしない夜は無かった。

二人からしたら、ただの痴話喧嘩だったのかもしれないが、私は毎日毎日、「今日はママが泣きませんように」「今日はパパが傷つきませんように」と祈っていた。
しかしそんな私の願いも虚しく、母は毎週、父と喧嘩をしては家出を繰り返した。
その度に私は、マンションのエントランスまで降りて、スーツケースを引く母の背中を追いかけた。
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私は母が大好きだった。母が喜ぶことは何でもしようと思った。母の笑う顔が見たかった。
私が何かのオーディションに受かると、母は喜んでくれた。私がテレビのロケで笑いを取ると、母は自慢げだった。物心が付き、ちゃんと自分で「お芝居がしたい」と思うようになるまでは、私は母の為に活動を続けていたのかもしれない。
「定禅寺家の人々」と言うローカルドラマのレギュラーを7歳で頂いた時、毎週母と台詞を覚えていた。私が早く台詞を覚えれば覚える程母が褒めてくれるので、頑張って早く覚えようと努力した。結局早いうちからその反復練習を繰り返したお陰か、今も台詞覚えで苦労したことはない。
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しかし当時の母は、とても不安定だった。

タレントとしての華々しい職業の反面、色々な人間関係のしがらみ、自分が所属するプロダクションの副社長が旦那という息苦しさ。
仕事でも家でもマネージャーと顔を合わせると考えると、上手くいかない方が自然なのかもしれない。
そんな重圧の中で子育てや家事までこなしていた母は、精神的にかなり参っていた。

毎日、母が父に何を怒っているのか分からなかったが、母がヒステリーを起こすと決まって父は口を噤んだ。そのモードに入った母に何を言っても逆効果だと、分かっていたからだ。父が言い返すことはほとんど無かった。
喧嘩の後、母は家を出て行くか、トイレに籠もるかの二択だった。

当時の私は、ママを泣かせるパパがきっと悪いんだ、と思い込んでいた。母が家を出ても、父が追いかけることは無かった。それが私はどうしても嫌だった。

ある時、いつもの如く母が荷物をまとめ始めた。
今度こそ帰ってこない、ごめんね、と母は言った。
その台詞も毎度の決まり文句なのだが、まだ幼かった私は、次は本当に帰ってこないかもしれないと毎回怖くて仕方がなかった。
泣きながら母にしがみ付き、玄関の外まで出て、小さくなって行く母の背中を見つめていた。
家に帰ると、父がテレビを見ながらビールを飲んでいた。
私の中の何かがプツンと切れた。

「どうして追いかけないの?」

父は少し考えてから、

「どうせすぐ帰ってくるから。」

と言った。
私は、その言葉に我慢がならなかった。 
ママがどれだけ大変か。ママがどれだけ頑張ってるか。ママがどれだけ苦しんでるか。
この人は夫なのにどうして助けようとしないんだろう。

「パパは、ママが心配じゃないんだね。」

私は、その時の精一杯の反抗心と憎しみを込めた声でそう言った。

すると、怒らない父が、私を殴った。

殴ったと言っても、「ぺちっ。」と言う格好悪い音が少し鳴ったくらいの弱い平手打ちだ。
正直ちっとも痛く無かったが、父が私に手をあげたのは、これが最初で、恐らく最後だ。
私は驚きのあまり固まってしまった。
その時の父は、とても悲しそうな表情をしていた。
私は、言ってはいけないことを言ってしまったんだと自覚した。
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分かっていない訳がないのだ。母のことを、横にいる父が知らない訳がないのだ。それでも仕事上の関係性や立場上、いつでも手を差し伸べられる訳でもなければ、それが優しさとは限らない。
父も苦しみ、悩んでいたんだと思う。

そして父は、母を心から愛していると確信した。

今まで、幼い私には、二人は愛し合っているのか、なんで顔を合わせれば喧嘩するような相手と結婚したのか、それだけが謎であり、不安の種だった。
でも違ったのだ。
今思えば父は、この上なく寛大な父親であり、亭主であった。
母に何を言われようがぐっと堪え、母の仕事はもちろん、私の学校から習い事、何から何まで送り迎えをしてくれていた。
朝ご飯を作るのも、父の担当だったりした。
ちょっと焼き過ぎなんじゃないかくらいの父のカリカリベーコンが、私は大好きだった。

父は、あまりにも弱く、脆く、幼い母と、常に上手くやろうとしていた。
そんな母もまた、何だかんだ言って父が大好きなのだ。

何かあると父を頼るし、父がいなければあの人は何もできないと思う。
夫婦とはそう言うものなんだなと思った。
だから夫婦なのだ。

私が上京して、高校を卒業すると同時に、5年間東京で一緒に暮らしていた母は宮城に帰った。
正直、父と上手くやれるか心配だった。
しかし、5年別居し、いい距離感を築いた二人は、驚く程仲良くなっていた。
たまに、二人で旅行に行ったり、ディナーを食べに行ったラブラブショットが送りつけられてくる程である。

三年ほど前、父が胃腸炎で倒れた事があった。
前日の夜から体調を崩し、トイレに籠りっぱなしだった父は、会社を休んだのだが、連絡がつかないと言う。母も私もその時東京に居たので、家の鍵を持っているのは父しかいない。
結局、ビリーの散歩から帰ってきたまま玄関で力尽きて倒れていたらしいが、その時の母の焦りようは異常だった。

「パパが電話に出ない。どうしよう。パパが死んじゃったらママどうしよう〜。」

と、子供のように泣きじゃくっていた。
母には申し訳ないが、
私の性格は圧倒的父似で、楽観的なところがある。その時も私は、
「大丈夫だよ、どっかで休んでるだけだって。」
と言ったが、母は泣き止まなかった。
重ねて申し訳ないと思うが、あまりに母が泣くもんだから私は笑ってしまった。
その後父は病院で治療を受け、何事も無かったかのように元気になったのだが、その一件でも私は、母の父への愛を再確認したのだった。

ちょうどこの前の3月25日、二人は結婚25周年を迎えた。私は仕事で仙台へ帰る事が出来なかったので、ペアのお食事券をプレゼントした。
当日、中華のコース料理を堪能する母の写真が、父から送られてきた。

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夫婦には、いろいろな形がある。
私はまだ結婚もした事がないし、親になった事もないから分からないが、
二人が過ごしてきた時間や共にしてきた苦楽は、計り知れないものだと言うことは分かる。
幼い頃は、こんな結婚生活は送りたくないと正直ずっと思っていた。
けど今は、こんな夫婦になりたいと胸を張って言える。

出逢ってくれてありがとうと、私はいつか、お芝居で二人に伝えたい。





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