月別アーカイブ / 2020年04月

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写真に写っている男性は、ジャン・レノではなくうちの父である。

登校拒否の原因は、担任が少し怖い人で、毎日小さな事で怒鳴り、授業が止まる事は日常茶飯。トイレに行きたいと手を挙げた子を叱り、教室でお漏らしをさせるような先生だった。お弁当の時間に箸を忘れると、他のクラスは少し注意されるくらいで、先生が割り箸をくれるのだが、うちのクラスは手で食べなければならなかった。
今でこそ大問題だが、当時の私達は怖くて、誰も声を上げられずにいた。しかしそんな子供達の異変にもちろん親は気付く訳で。父兄の度重なる抗議により、その先生は異動となった。
私の母校はとにかく子供達を伸び伸び遊ばせ、学ばせるがモットーだったので、いい先生方ばかりだった。私の知る限りこの様な事態が起こったのは、この一回きりだ。そんな先生に、私は不運にも当たってしまった。

朝起きるとお腹が痛くなる。寝起きが信じられないくらい悪い私は、毎朝出社する父の車に乗せて貰い、学校まで爆睡しながら送って貰っていた。しかしその期間だけは、ずっと窓の外を眺め、学校の景色が近づいて来る度に消えてしまいたいと思っていた。案の定、校門に着くと車を降りたくなくなる。
学校は休まなかったが、毎朝玄関で「行きたくない」とゴネていた。
そんなある日、車を降りる直前、父に呼び止められ、こう言われた事を今でも鮮明に覚えている。 

「華怜を泣かせる奴はパパがぶっ飛ばしてやるから、心配するな。」

「うん。」とだけ言って車を降りた。
「うん。」としか言えなかった。

とても驚いたと同時に、涙が止まらなかった。なんで泣いてるのか自分でもよく分からなかったが、「あの人は私の父親なんだ。」と言う実に当たり前な実感がその時はとても嬉しかった。そして、父がそんな事を思ってくれていたなんて、私は微塵も感じ取れていなかった。
何故なら父は、私が可愛くないものだとばかり思っていたからだ。

父の弟に娘が生まれた時、父はひどくその子を可愛がった(ように見えた)。
「パパはあの子の方がかわいいんだ」と人生で初めて嫉妬と言う感情に出逢った私は、父と距離を置くようになった。

会社から帰ってくるのがだいたい夜の8時。その頃には私はもう布団に入っていることが多かった。けど父と話したくて、こっそり父が晩ご飯を食べるのを、台所の陰から見ていた。
父の夕飯は決まって、冷奴とポテトチップス。健康に気を遣っているのかいないのか、実に謎な献立だ。母も私もいないリビングで一人、CSで放送されている動物のドキュメンタリー番組を見ながら晩酌をしていた。ポテチに時々、臭いビネガーをかけて食べるのが好きなようだった。
そんな父との唯一の二人きりの時間が、朝の車の中だったのに、私は毎日爆睡をかましていた。今思うと、もっとあの時間を大切にしていればと心から思う。
しかしその時の父の言葉で、私の心は一気に溶けていった。

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私が「女優さんになりたい。」と初めて口にした日、母は、「いいじゃない!」と言った。
けど父は珍しく真剣な顔をして私の目をじっと見つめ、こう言った。

「女優さんになるのは、本当に大変だぞ。辛いことも苦しいこともいっぱいあるんだぞ。それでもお前はやりたいんだな?」

正直、まだ7、8歳の娘が軽い気持ちで口にした夢に対して突きつけるには、早い現実のように思うだろう。けれどこの時父は、今の未来を予見していたのかもしれない。私が"軽い気持ち"じゃない事を感じ取ってくれたから、父も幼い娘に対して真剣に向き合ってくれたのだろう。私も幼いながら、それを感じ取った。父の目が、娘を見る目ではなく、タレントに接する時の目に変わったからだ。よちよち歩きの頃から会社で父の仕事を見ていたから、それくらいは分かった。その気持ちに、私も真剣に応えなくてはならないと思い、その日から私の夢は一度も変わっていない。
父はよく私に、

「自分で決めなさい。」

と言った。何から何まで決めたがる母を制し、よく私に自分で物事を選ばせようとしてくれた。
私はあの日女優になると言う夢を、自分で決めた。

私にとってお芝居とは、何よりも好きな事であり、生き甲斐であり、父との約束である。

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「仕事」と「生活」がすっかりくっ付いて離れなくなってしまった私の日常は、小学4年生頃まで続いた。
学校で活動の事を友達に茶化されても、何とも思わなかった。むしろ、"自分は人と違う事をしている"と言う優越感すら覚えていたくらいだ。
学校でも積極的に、クラス委員や放送委員長、運動会の応援団など、とにかく目立てそうな事は何でもやった。
その活発な性格のせいか私は、男の子の友達しかいなかった。
女子と仲が悪かった訳ではない。よく話す子は数人いた。けど、数人だった。それに比べて男子は、学年のほとんどの子と気兼ねなく話せた。休み時間は校庭へダッシュしてドッヂボール、掃除の時間は男子と上履きの取り合いをしてダッシュで職員室へ通っていた。
よくいる、活発な問題児だ。
そんな男の子としか仲良くなれない病が、近い将来、自分を苦しませることになるとは、この時思ってもみなかった。
その話はまた別の機会に………

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とにかく私は、どこか"抜けて"いた。

私の小学校の校庭はとても広く、校庭の他に「どんぐり山」と呼ばれるアスレチック広場みたいなものがあった。大きな滑り台や遊具、土管などがあった。
放課後私は、いつもの男の子グループと毎日そこで遊んでいた。
ある日私は、土管の中で寝てしまった。
ドラえもんかよ、と思うだろうが、本当にそれくらい、うちの地元はのどかだった。
そのまま眠り続けた私は、誰にも気づかれず、校門が閉まるまで寝てしまった。
一方その頃、両親は「華怜が帰ってこない」と大騒ぎ。祖父母を含む岩田家総動員での大捜索が行われ、学校の教頭にまで連絡が入った。
先生方も巻き込み、もう警察に連絡しようか、と言う一歩手前で、土管で寝ている私が見つかった。

母は、

「信じられない!」

ととても怒っていた。
私も信じられなかった。
私は昔から突拍子もない事をする子だったので、自分でも自分が分からなくなる事が多々あった。

ある時は、自分で着て行ったジャンパーを、「落とし物です。」と先生に届けた。
わざとではない。当時教室の廊下に上着を掛けるスペースがあったのだが、冬になるとロッカーがパンパンになり、よく床に何着か落ちていたのだ。
帰ろうとすると、一つだけジャンパーが廊下に落ちている。私は純粋な善意で、先生にそれを届けた。
いい事をした!とルンルン気分で帰宅した私が事の真相に気が付いたのは、「朝着て行ったジャンパーどうしたの?」と母に聞かれてからだった。

その上私は、6歳から11歳頃までの約5年間で、10箇所も骨折をした。
一箇所目は、右足のスネ。
3歳からクラシックバレエを習っていた私は、お姉さん達のトゥシューズでのピルエットに憧れ、幼稚園の教室(フローリング)で、上履きのままつま先で立ち、回ろうとした。
見事に転倒。医務室に運ばれ、母が仕事を抜けて迎えに来てくれるまで、私は痛みのあまり気を失っていた。
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そこから怒涛のような骨折ラッシュ。
ターザンロープのてっぺんで手を離し、砂利の上に顔面着地。鼻を骨折。

バレエの発表会の前夜、天気予報を確認しようと家の廊下をダッシュしたところ、角に小指をぶつけて骨折。
その状態で学校で逆上がりをして、かかとを疲労骨折。

学校のカルタ大会で勢いよく札を弾きすぎて、中指を骨折。
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まだまだあるが、キリがないので割愛する。
私は「おてんば病」だった。別名、天才症と言うらしい。字面で見ると何だかカッコいいが、用はただのバカだ。
笑い話ではない。実際、骨の病気の可能性を心配した両親に連れて行かれた大学病院で、医師にそう診断されたのだ。
私は、目的に集中すると周りが一切見えなくなる。それと、好奇心が強過ぎる。ジャングルジムのてっぺんまで登り、降りれなくなっていつも泣きじゃくっていた。
医師は、

「天才症ですね。体重が40キロを超えたら、骨折は無くなりますよ。」

と言った。
母は半信半疑だったようだが、精密検査の結果も身体に異常はなかった為、安心した様子だった。
そして医師の言った通り、体重が40キロを超えようとした辺りで、骨折は一切無くなった。

話が逸れたが、私はとにかく「山猿」だったのだ。
男子からのあだ名はゴリラだった。
男女で分かれて整列する際も、先生に「岩田はこっち(男子列)だろ。」と言われる程だ。
でも、そんな小学校生活はとても楽しかった。
未だに飲みに行く友人も、当時仲が良かった男子のみだ。


そんな学校大好きだった私が、小学2年生の時、登校拒否気味になった。


暇で暇で。どう考えても暇なので、なんかこれまでの自分の人生で覚えてることとか、残しておきたいことを日記代わりに書いていこうと思います。
本当に、覚書程度なので文章むちゃくちゃだと思いますが、温かく見守ってください。笑
あ、連載じゃないです。気が向いたら書きます。笑


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私が生まれたのは、宮城県仙台市にある仙台赤十字病院と言う病院だった。1998年5月13日12時26分。山に囲まれ、緑豊かな杜の都で、私は産声をーーー



上げなかった。いや、確かに産まれたのだが、うんともすんとも泣かなかったのだ。
私の母は元々赤ちゃんが出来にくい体質で、何年も不妊治療を続けていた。やっと私を身篭ったが、それはそれは大変な難産だったらしい。陣痛に苦しむこと48時間。へその緒がグルグルと首に巻き付き、真っ青を通り越して真っ黒になった私が生まれた。すぐに人工呼吸器に入れられ、しばらくして元気に泣き始めたと言う。
48時間の陣痛と闘ってくれた母のおかげで、後に「48」にゆかりのある人生を送ることになる岩田華怜が誕生したのだ。

「もうダメかと思った。」

と母は言う。
難産と関係があるのかは分からないが、当時母は地元仙台でローカルタレントとしての活動をしていた為、ハードな仕事が多かった。
お腹が大きくなった後も、朝の5時から漁船に乗り、魚の食レポをしたりしていたらしい。もっと言うと、番組の収録中に突然出血し、そのまま病院へ搬送された事もあったそうだ。お腹の中の私も、「勘弁してくれ。」と言っていたに違いない。それでも必死に母の子宮にしがみ付き、無事に5月13日を迎えることが出来た訳だが、それくらい母は仕事人間だった。

口から生まれてきたような母とは真逆で、父は昔から無口で放任主義だった。
ただ音楽が好きで、まだお腹の中にいた私に、毎日ビートルズを聴かせてくれていたらしい。
そのせいか、聴き覚えの無い曲でも不思議とビートルズだけは口ずさめたりする。
父は仙台にある数少ないモデル事務所で社長をやっている。私が生まれた当時は私の祖父が社長だったが、2年ほど前、長男である父が会社を受け継いだ。なので私の実家の家業は、モデル事務所と言うことになる。
裏方の父と、タレントの母。私の人生は必然的に、生まれた瞬間から芸能一色だった。だからと言って俳優を志した訳ではない。しかし私が今いる世界に興味を抱くには、十分過ぎる環境だった。
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私のデビューは生後6ヶ月。地元でのみ流れる、短いCMの撮影だった。ただダルマさんを渡され、遊んでいる姿を撮る、と言うだけのものだったが、なんと私はそのカメラの前で、生まれて初めて自分で立った。おまけにダルマさんから両手を離し、バンザイまでして見せたのだ。
まさに奇跡の瞬間を、カメラが抑えてくれていた。その映像は今でもVHSに残っている。

両親は仕事柄、仙台のテレビ各局に知り合いがとても多かった為、その後も何かにつけて子役が足りないと私が駆り出された。CM、ドラマ、雑誌、特番…探せば私の黒歴史(笑)は山ほど出てくる。しかし昔から目立ちたがりだった私は、だんだんとその気になっていき、とうとう母と二人で番組のコーナーまで持ってしまった。
「ミワのmamacoco!」と言う、昼の帯番組の親子向けコーナーである。お察しの通り、ミワとは母の名前だ。
母娘で冠付きのコーナーが持てるなんて有り難すぎるお話だが、当時の私は"仕事"と言う概念がほぼ皆無だった為、本当に好き放題やらせて貰っていた。当時の映像を今見ると、自分でも一発殴りたくなるくらい生意気なクソガキが完成している。

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その時私の遊び相手になってくれていた番組のディレクターさんやカメラマンさんとは、今も仕事で仙台に帰るとお会いすることが多く、

「大きくなったなあ。」

と声をかけて貰う度に、心がジンと温かくなる。
私にとって、実家に帰るよりもテレビ局に帰る方が、「帰ってきたなぁ。」と言う感じがするのだから、故郷は偉大である。
「またこの人たちに会えますように」と思って、日々仕事に励むのだ。









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