そんな父と、性格が正反対の母。
私が仙台に住んでいた12年間、父と母が喧嘩をしない夜は無かった。

二人からしたら、ただの痴話喧嘩だったのかもしれないが、私は毎日毎日、「今日はママが泣きませんように」「今日はパパが傷つきませんように」と祈っていた。
しかしそんな私の願いも虚しく、母は毎週、父と喧嘩をしては家出を繰り返した。
その度に私は、マンションのエントランスまで降りて、スーツケースを引く母の背中を追いかけた。
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私は母が大好きだった。母が喜ぶことは何でもしようと思った。母の笑う顔が見たかった。
私が何かのオーディションに受かると、母は喜んでくれた。私がテレビのロケで笑いを取ると、母は自慢げだった。物心が付き、ちゃんと自分で「お芝居がしたい」と思うようになるまでは、私は母の為に活動を続けていたのかもしれない。
「定禅寺家の人々」と言うローカルドラマのレギュラーを7歳で頂いた時、毎週母と台詞を覚えていた。私が早く台詞を覚えれば覚える程母が褒めてくれるので、頑張って早く覚えようと努力した。結局早いうちからその反復練習を繰り返したお陰か、今も台詞覚えで苦労したことはない。
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しかし当時の母は、とても不安定だった。

タレントとしての華々しい職業の反面、色々な人間関係のしがらみ、自分が所属するプロダクションの副社長が旦那という息苦しさ。
仕事でも家でもマネージャーと顔を合わせると考えると、上手くいかない方が自然なのかもしれない。
そんな重圧の中で子育てや家事までこなしていた母は、精神的にかなり参っていた。

毎日、母が父に何を怒っているのか分からなかったが、母がヒステリーを起こすと決まって父は口を噤んだ。そのモードに入った母に何を言っても逆効果だと、分かっていたからだ。父が言い返すことはほとんど無かった。
喧嘩の後、母は家を出て行くか、トイレに籠もるかの二択だった。

当時の私は、ママを泣かせるパパがきっと悪いんだ、と思い込んでいた。母が家を出ても、父が追いかけることは無かった。それが私はどうしても嫌だった。

ある時、いつもの如く母が荷物をまとめ始めた。
今度こそ帰ってこない、ごめんね、と母は言った。
その台詞も毎度の決まり文句なのだが、まだ幼かった私は、次は本当に帰ってこないかもしれないと毎回怖くて仕方がなかった。
泣きながら母にしがみ付き、玄関の外まで出て、小さくなって行く母の背中を見つめていた。
家に帰ると、父がテレビを見ながらビールを飲んでいた。
私の中の何かがプツンと切れた。

「どうして追いかけないの?」

父は少し考えてから、

「どうせすぐ帰ってくるから。」

と言った。
私は、その言葉に我慢がならなかった。 
ママがどれだけ大変か。ママがどれだけ頑張ってるか。ママがどれだけ苦しんでるか。
この人は夫なのにどうして助けようとしないんだろう。

「パパは、ママが心配じゃないんだね。」

私は、その時の精一杯の反抗心と憎しみを込めた声でそう言った。

すると、怒らない父が、私を殴った。

殴ったと言っても、「ぺちっ。」と言う格好悪い音が少し鳴ったくらいの弱い平手打ちだ。
正直ちっとも痛く無かったが、父が私に手をあげたのは、これが最初で、恐らく最後だ。
私は驚きのあまり固まってしまった。
その時の父は、とても悲しそうな表情をしていた。
私は、言ってはいけないことを言ってしまったんだと自覚した。
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分かっていない訳がないのだ。母のことを、横にいる父が知らない訳がないのだ。それでも仕事上の関係性や立場上、いつでも手を差し伸べられる訳でもなければ、それが優しさとは限らない。
父も苦しみ、悩んでいたんだと思う。

そして父は、母を心から愛していると確信した。

今まで、幼い私には、二人は愛し合っているのか、なんで顔を合わせれば喧嘩するような相手と結婚したのか、それだけが謎であり、不安の種だった。
でも違ったのだ。
今思えば父は、この上なく寛大な父親であり、亭主であった。
母に何を言われようがぐっと堪え、母の仕事はもちろん、私の学校から習い事、何から何まで送り迎えをしてくれていた。
朝ご飯を作るのも、父の担当だったりした。
ちょっと焼き過ぎなんじゃないかくらいの父のカリカリベーコンが、私は大好きだった。

父は、あまりにも弱く、脆く、幼い母と、常に上手くやろうとしていた。
そんな母もまた、何だかんだ言って父が大好きなのだ。

何かあると父を頼るし、父がいなければあの人は何もできないと思う。
夫婦とはそう言うものなんだなと思った。
だから夫婦なのだ。

私が上京して、高校を卒業すると同時に、5年間東京で一緒に暮らしていた母は宮城に帰った。
正直、父と上手くやれるか心配だった。
しかし、5年別居し、いい距離感を築いた二人は、驚く程仲良くなっていた。
たまに、二人で旅行に行ったり、ディナーを食べに行ったラブラブショットが送りつけられてくる程である。

三年ほど前、父が胃腸炎で倒れた事があった。
前日の夜から体調を崩し、トイレに籠りっぱなしだった父は、会社を休んだのだが、連絡がつかないと言う。母も私もその時東京に居たので、家の鍵を持っているのは父しかいない。
結局、ビリーの散歩から帰ってきたまま玄関で力尽きて倒れていたらしいが、その時の母の焦りようは異常だった。

「パパが電話に出ない。どうしよう。パパが死んじゃったらママどうしよう〜。」

と、子供のように泣きじゃくっていた。
母には申し訳ないが、
私の性格は圧倒的父似で、楽観的なところがある。その時も私は、
「大丈夫だよ、どっかで休んでるだけだって。」
と言ったが、母は泣き止まなかった。
重ねて申し訳ないと思うが、あまりに母が泣くもんだから私は笑ってしまった。
その後父は病院で治療を受け、何事も無かったかのように元気になったのだが、その一件でも私は、母の父への愛を再確認したのだった。

ちょうどこの前の3月25日、二人は結婚25周年を迎えた。私は仕事で仙台へ帰る事が出来なかったので、ペアのお食事券をプレゼントした。
当日、中華のコース料理を堪能する母の写真が、父から送られてきた。

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夫婦には、いろいろな形がある。
私はまだ結婚もした事がないし、親になった事もないから分からないが、
二人が過ごしてきた時間や共にしてきた苦楽は、計り知れないものだと言うことは分かる。
幼い頃は、こんな結婚生活は送りたくないと正直ずっと思っていた。
けど今は、こんな夫婦になりたいと胸を張って言える。

出逢ってくれてありがとうと、私はいつか、お芝居で二人に伝えたい。