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「仕事」と「生活」がすっかりくっ付いて離れなくなってしまった私の日常は、小学4年生頃まで続いた。
学校で活動の事を友達に茶化されても、何とも思わなかった。むしろ、"自分は人と違う事をしている"と言う優越感すら覚えていたくらいだ。
学校でも積極的に、クラス委員や放送委員長、運動会の応援団など、とにかく目立てそうな事は何でもやった。
その活発な性格のせいか私は、男の子の友達しかいなかった。
女子と仲が悪かった訳ではない。よく話す子は数人いた。けど、数人だった。それに比べて男子は、学年のほとんどの子と気兼ねなく話せた。休み時間は校庭へダッシュしてドッヂボール、掃除の時間は男子と上履きの取り合いをしてダッシュで職員室へ通っていた。
よくいる、活発な問題児だ。
そんな男の子としか仲良くなれない病が、近い将来、自分を苦しませることになるとは、この時思ってもみなかった。
その話はまた別の機会に………

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とにかく私は、どこか"抜けて"いた。

私の小学校の校庭はとても広く、校庭の他に「どんぐり山」と呼ばれるアスレチック広場みたいなものがあった。大きな滑り台や遊具、土管などがあった。
放課後私は、いつもの男の子グループと毎日そこで遊んでいた。
ある日私は、土管の中で寝てしまった。
ドラえもんかよ、と思うだろうが、本当にそれくらい、うちの地元はのどかだった。
そのまま眠り続けた私は、誰にも気づかれず、校門が閉まるまで寝てしまった。
一方その頃、両親は「華怜が帰ってこない」と大騒ぎ。祖父母を含む岩田家総動員での大捜索が行われ、学校の教頭にまで連絡が入った。
先生方も巻き込み、もう警察に連絡しようか、と言う一歩手前で、土管で寝ている私が見つかった。

母は、

「信じられない!」

ととても怒っていた。
私も信じられなかった。
私は昔から突拍子もない事をする子だったので、自分でも自分が分からなくなる事が多々あった。

ある時は、自分で着て行ったジャンパーを、「落とし物です。」と先生に届けた。
わざとではない。当時教室の廊下に上着を掛けるスペースがあったのだが、冬になるとロッカーがパンパンになり、よく床に何着か落ちていたのだ。
帰ろうとすると、一つだけジャンパーが廊下に落ちている。私は純粋な善意で、先生にそれを届けた。
いい事をした!とルンルン気分で帰宅した私が事の真相に気が付いたのは、「朝着て行ったジャンパーどうしたの?」と母に聞かれてからだった。

その上私は、6歳から11歳頃までの約5年間で、10箇所も骨折をした。
一箇所目は、右足のスネ。
3歳からクラシックバレエを習っていた私は、お姉さん達のトゥシューズでのピルエットに憧れ、幼稚園の教室(フローリング)で、上履きのままつま先で立ち、回ろうとした。
見事に転倒。医務室に運ばれ、母が仕事を抜けて迎えに来てくれるまで、私は痛みのあまり気を失っていた。
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そこから怒涛のような骨折ラッシュ。
ターザンロープのてっぺんで手を離し、砂利の上に顔面着地。鼻を骨折。

バレエの発表会の前夜、天気予報を確認しようと家の廊下をダッシュしたところ、角に小指をぶつけて骨折。
その状態で学校で逆上がりをして、かかとを疲労骨折。

学校のカルタ大会で勢いよく札を弾きすぎて、中指を骨折。
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まだまだあるが、キリがないので割愛する。
私は「おてんば病」だった。別名、天才症と言うらしい。字面で見ると何だかカッコいいが、用はただのバカだ。
笑い話ではない。実際、骨の病気の可能性を心配した両親に連れて行かれた大学病院で、医師にそう診断されたのだ。
私は、目的に集中すると周りが一切見えなくなる。それと、好奇心が強過ぎる。ジャングルジムのてっぺんまで登り、降りれなくなっていつも泣きじゃくっていた。
医師は、

「天才症ですね。体重が40キロを超えたら、骨折は無くなりますよ。」

と言った。
母は半信半疑だったようだが、精密検査の結果も身体に異常はなかった為、安心した様子だった。
そして医師の言った通り、体重が40キロを超えようとした辺りで、骨折は一切無くなった。

話が逸れたが、私はとにかく「山猿」だったのだ。
男子からのあだ名はゴリラだった。
男女で分かれて整列する際も、先生に「岩田はこっち(男子列)だろ。」と言われる程だ。
でも、そんな小学校生活はとても楽しかった。
未だに飲みに行く友人も、当時仲が良かった男子のみだ。


そんな学校大好きだった私が、小学2年生の時、登校拒否気味になった。