暇で暇で。どう考えても暇なので、なんかこれまでの自分の人生で覚えてることとか、残しておきたいことを日記代わりに書いていこうと思います。
本当に、覚書程度なので文章むちゃくちゃだと思いますが、温かく見守ってください。笑
あ、連載じゃないです。気が向いたら書きます。笑


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私が生まれたのは、宮城県仙台市にある仙台赤十字病院と言う病院だった。1998年5月13日12時26分。山に囲まれ、緑豊かな杜の都で、私は産声をーーー



上げなかった。いや、確かに産まれたのだが、うんともすんとも泣かなかったのだ。
私の母は元々赤ちゃんが出来にくい体質で、何年も不妊治療を続けていた。やっと私を身篭ったが、それはそれは大変な難産だったらしい。陣痛に苦しむこと48時間。へその緒がグルグルと首に巻き付き、真っ青を通り越して真っ黒になった私が生まれた。すぐに人工呼吸器に入れられ、しばらくして元気に泣き始めたと言う。
48時間の陣痛と闘ってくれた母のおかげで、後に「48」にゆかりのある人生を送ることになる岩田華怜が誕生したのだ。

「もうダメかと思った。」

と母は言う。
難産と関係があるのかは分からないが、当時母は地元仙台でローカルタレントとしての活動をしていた為、ハードな仕事が多かった。
お腹が大きくなった後も、朝の5時から漁船に乗り、魚の食レポをしたりしていたらしい。もっと言うと、番組の収録中に突然出血し、そのまま病院へ搬送された事もあったそうだ。お腹の中の私も、「勘弁してくれ。」と言っていたに違いない。それでも必死に母の子宮にしがみ付き、無事に5月13日を迎えることが出来た訳だが、それくらい母は仕事人間だった。

口から生まれてきたような母とは真逆で、父は昔から無口で放任主義だった。
ただ音楽が好きで、まだお腹の中にいた私に、毎日ビートルズを聴かせてくれていたらしい。
そのせいか、聴き覚えの無い曲でも不思議とビートルズだけは口ずさめたりする。
父は仙台にある数少ないモデル事務所で社長をやっている。私が生まれた当時は私の祖父が社長だったが、2年ほど前、長男である父が会社を受け継いだ。なので私の実家の家業は、モデル事務所と言うことになる。
裏方の父と、タレントの母。私の人生は必然的に、生まれた瞬間から芸能一色だった。だからと言って俳優を志した訳ではない。しかし私が今いる世界に興味を抱くには、十分過ぎる環境だった。
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私のデビューは生後6ヶ月。地元でのみ流れる、短いCMの撮影だった。ただダルマさんを渡され、遊んでいる姿を撮る、と言うだけのものだったが、なんと私はそのカメラの前で、生まれて初めて自分で立った。おまけにダルマさんから両手を離し、バンザイまでして見せたのだ。
まさに奇跡の瞬間を、カメラが抑えてくれていた。その映像は今でもVHSに残っている。

両親は仕事柄、仙台のテレビ各局に知り合いがとても多かった為、その後も何かにつけて子役が足りないと私が駆り出された。CM、ドラマ、雑誌、特番…探せば私の黒歴史(笑)は山ほど出てくる。しかし昔から目立ちたがりだった私は、だんだんとその気になっていき、とうとう母と二人で番組のコーナーまで持ってしまった。
「ミワのmamacoco!」と言う、昼の帯番組の親子向けコーナーである。お察しの通り、ミワとは母の名前だ。
母娘で冠付きのコーナーが持てるなんて有り難すぎるお話だが、当時の私は"仕事"と言う概念がほぼ皆無だった為、本当に好き放題やらせて貰っていた。当時の映像を今見ると、自分でも一発殴りたくなるくらい生意気なクソガキが完成している。

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その時私の遊び相手になってくれていた番組のディレクターさんやカメラマンさんとは、今も仕事で仙台に帰るとお会いすることが多く、

「大きくなったなあ。」

と声をかけて貰う度に、心がジンと温かくなる。
私にとって、実家に帰るよりもテレビ局に帰る方が、「帰ってきたなぁ。」と言う感じがするのだから、故郷は偉大である。
「またこの人たちに会えますように」と思って、日々仕事に励むのだ。