お知らせ


私の人生の覚え書き、続きである。

ここから私の人生は大きく変わる。

あろうことか、AKB48 12期研究生オーディションを全て通過した私は、本当に最後の最後、セレクション審査まで生き残っていた。この時確か残っていたのは12人程度。後に、私の人生で唯一同期と呼べる仲間も揃っていた。12期はこの時から、なかなかに個性的な面々だったと思う。

あと一歩でAKBになれる。
そんな状況になって私はようやく自分の胸に手を当てた。

"私、アイドルになりたかったんだっけ?"

数々のオーディションに落ちまくってきた私は、AKSから合格通知が届く度に、自分の価値がようやく証明されたような気がして、嬉しくて、気がつけばAKBに夢中になっていた。
だけど私は今まで、女優になる為に努力してきた。
舞台に立ちたくて、映画に出たくて、沢山準備してきた。
アイドルになったら、その夢は叶うだろうか?
何より、大きな問題は、上京することだった。
私が通っていた小学校は、小中一貫校で、この時既に仙台の中学校へ進学が決まっていた。
そして私と母は、AKBのオーディションを受けていることを、家族の誰にも言っていなかった。ここまで受かるなんて思ってなかったからだ。

最終セレクションの日が近づいてくる。
早く決断しないと、手遅れになる。
セレクションの2日前、私は東京に行く準備を整えた。セレクションで落ちるかもしれない。最後までやってみて、考えよう。ここまで来たんだから、最後まで頑張らないと他の子たちに失礼だと、そう思った。

2011年3月11日。

仙台はとても寒かった。私は少し喉の痛みを覚え、学校を欠席した。私は昔から、疲れが溜まったり、プレッシャーを感じるとすぐに喉が腫れた。この日も栗原に住む母方のおじいちゃんに面倒を見てもらい、お昼頃おじいちゃんは栗原へと帰っていった。

両親は仕事で家におらず、愛犬のビリーも父と一緒に会社に出社していた。家に一人だ。
私は昔から鍵っ子だったので、一人は慣れっこで、優雅に寝室で漫画を読んでいた。


午後2時46分。

突然ベッドが、「ミシっ」と言う音を立てて揺れ始めた。私は一瞬、自分が揺れているのかと思った。私の当時の実家はマンションの11階。窓から外を見ると、隣のマンションのベランダから、洗濯物やら植木鉢やらが落下しているのが見えた。私が揺れてるんじゃない。地震だ。
脳で理解するよりも早く、私は家の外に飛び出した。とは言えそこは11階だ。逃げるなら階段で降りるしかない。歩こうにも、どこかに捕まっていないと立ってすらいられない。何とか家のドアにしがみ付いていると、フロアの壁に埋め込まれていた消火器がガラスを突き破って飛び出してきた。
喉が勝手に悲鳴を上げていた。頭は追いつかず、どこか映画を見ている感覚すらあった。

少し経つと揺れは多少収まり、呼吸も落ち着いてきた。まずは冷静にならないと。
玄関のドアを開けてみると、そこにはもう人が立っていられるスペースは無かった。物が散乱し、部屋の本棚が廊下にまで侵食し、奥の部屋はもはや見えなかった。ひとまず玄関にあった父のつっかけを履いて、パジャマのまま階段を降り始めた。

マンションのエントランスに着くと、そこはパニックだった。電柱が傾き、道路はひび割れ、いつも優しく挨拶をしてくれるご近所さんは私に目もくれず、どこかへ走っていった。
私の学校は避難訓練を念入りに行う学校だったので、こう言う時どうすればいいのかは分かっていた。
でも私は、ここにいようと思った。本当は家族と共有している避難場所へ向かうべきなのだが、家にいた方が早く両親に会える気がした。

雪が降っていた。
サンダルと、パジャマのまま、私はエントランスに座り込んでいた。1時間ほどして、正面玄関に見覚えのある車が入ってきた。父の車だ。
その時の父との会話は覚えていない。
ただ覚えていることは、車のカーナビの画面に一瞬だけ映った上空からの映像。ニュースだったんだと思う。水のような物が、ゆっくり下から上に上がって行って、茶色い地面を濡らしていた。「どこの国の映像だろう?」私は思った。その映像が、今自分がいる場所から数十キロしか離れていない場所の、10mを超える津波の映像だと知ったのは、その後のことだった。

町内の指定避難場所へ向かった私と父だったが、そこは人で溢れかえり、とても入れそうになかった。
そして何より、まだ母の安否が分かっていない。その日は僅かな車のガソリンで暖をとり、父と車の中で一夜を明かした。
次の日、ようやく母と合流できた時、母は号泣していた。私も泣きそうだったが、我慢した。泣くにはまだ早い気がしたのだ。自分でも何故そう思ったのかは分からない。

無事家族3人揃った私たちは、山の上にある、父方の祖父母の家に向かった。そこは一軒家で、庭もあった為、七輪や石炭と言ったキャンプ用品が充実していたので、何日かしのげるかも、と思ったのだ。
ガスは使えないし、電気も付かない。もちろん水も流れないので、トイレをするのも一苦労だ。
みんなで新聞紙にくるまり、冷凍食品を自然解凍させて分け合って食べた。私の頭からは、AKBのオーディションのことなど抜け落ちてしまっていた。今日生きることで必死だった。

そんな日々が続いて、そろそろ東京に連絡しなくては、と言うことになり、外の公衆電話から電話をかけることにした。最寄りの公衆電話は長蛇の列で、2時間は並んだと思う。
AKSの連絡先にダイヤルを回すと、西山さんが出た。「すみません、辞退します。」と言うつもりだった。が、西山さんはまず最初に、「無事で本当によかったです。」と、泣いてくれた。私は驚いてしまった。
後で聞いた話では、東京もかなりの揺れがあり、ニュースで毎日、東北地方の津波や地震の様子が報道されていたので、とても心配していた、とのことだった。現地で実際に被災した私たちはと言うと、テレビも付かないのでニュースも見れず、津波の被害も、原発の事も、東京の人たちより理解していなかった。

「とにかくオーディションは延期ですので、落ち着いたらでいいからどうにかして来てほしい。」

西山さんにそう言われて、私は即答出来なかった。
父と祖父母を置いて、私だけ東京に行く?
そんなことが許されるだろうか。
故郷がこんな状況なのに、夢を追いかけていいのか?

父に話すと、父はいつもよりも真剣に、ゆっくりと、
「自分で決めなさい。」と言った。

私はバチが当たったんだと思っていた。
生半可な気持ちでオーディションなんか受けたから。神様がやめろって言ってるんだと。
でも母が私に言った言葉はその逆だった。

「今諦めたら、あなたはまたただの岩田華怜に戻る。でもここで踏ん張ってアイドルになれば、もっと大きな力となって故郷に恩返しできるんじゃない?」

私一人じゃ何もできないけど、もし私がAKBに入れば、みんなが大好きなあっちゃんとか、たかみなとか、まゆゆを仙台に連れて来られるかもしれない。

そう考えたら、迷う理由は無くなった。
この日から私は、故郷の為にアイドルになることを心に決めた。
誰にもお別れを言えず、着の身着のまま避難してきたその足で、私と母は上京した。

これが私が、「被災地の子」と呼ばれることになる始まりの日である。



(東日本大震災後の私の部屋)

今日は3月11日。
気がつけば、東日本大震災から10年の月日が流れていました。
本日出演させて頂いた、J:COMさんの特番、「震災をこえて〜みんなでつくる地域の未来〜」と言う番組の議題にもあがっていましたが、今では被災地の子供の6割が、東日本大震災を知らないとされています。
その事実に衝撃を受けましたが、10年経っているんだから、そりゃそうだ、とも思いました。

それでもなんだか、実感が湧かないんです。
それくらい、大きな災害だったからなのかな、きっと。
被災して上京して、そのままアイドル活動を始めました。
母親と夜行バスを乗り継いで東京に着いたとき、お腹が鳴りました。
母に、「なにが食べたい?」と聞かれて、私はすぐに答えることが出来ませんでした。
だって、今も仙台に残してきた父と祖父母は、一つの握り飯を3人で分け合って食べてるから。
一杯の豚汁を、一枚の新聞紙を、ご近所さんと分け合って生きているから。
それを知っていても、お腹は鳴りました。
「マック。」と私は答えました。
後にも先にも、あんなに美味しくて、あんなに味のしないマクドナルドを食べたのはこの時が最後でした。

私だけ贅沢できない。

私は一人で逃げてきた。
だから何か掴まないと絶対に帰れない。

こんなの全然辛くない。私の地元には今、もっともっと辛い思いをしてる人たちが沢山いる。

泣くな。泣くな。がんばれ。立ち止まるな。



そんな感覚が、ずっと、ずっとありました。

今思えば、48グループを卒業するまでの私は、そんな"自分へのプレッシャー"と言う鎧に身を包んで、ずっと何かと闘っていたのかも知れない。
と、最近ふと思います。

10年間、色んなことを経験しました。
嬉しいことも、悲しいことも
悔しいことも、幸せなことも。
幼少期からの夢であった、女優になると言う夢を叶える為、AKBを卒業してからも、私の心には常に故郷があって、
その時気付きました。

私が頑張る理由が、故郷なんだ、と。
どんなに嫌われても、私がこの10年間一人でも立っていられた理由が、故郷にあったんです。

東北の存在が無ければ、とっくに辞めて泣きながら仙台に引っ込んでたかもしれない。
東北のみんなの声援がなければ、マイクなんか投げ出して、逃げ出してたかもしれない。

100人に嫌われても、あなたの「頑張れ」に、私は何度も救われてきたんだよ。

ありがとう。
10年頑張ったって私はまだまだまだまだちっぽけで、微力な存在だけれど、どうかこの声がみんなに届きますように。

この10年間、私を支えてくれて本当に
ありがとう。

今日まで一緒に生きてくれてありがとう。

明日から、また新しい10年が始まります。

「また明日。」って言える幸せなんて、もう二度噛み締めたくないから
だから毎日、明日が来ることに感謝して、大切な人には毎日、「また明日ね」って言うんです。
愛してる人には「愛してる」って言うんです。


東北を背負う、なんてかっこいい言い方は出来ないけれど、
これからも私は、故郷を大切に大切に抱き締めて歩いて行くから

また10年後、今日のことを思い出してくれたら嬉しいな。

そして、その日まで頑張った自分を、全力で褒めてあげてください。


私も今日だけは、自分のことを褒めてあげようと思います。


それじゃあ、

また明日。


だいぶ間が空いてしまったが、引き続き私の人生日記を書いていこうと思う。

_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0455.JPEG

そろそろAKB編に突入するとしよう。
男友達しかおらず、クラスでもゴリラと崇められていた私がAKB48の存在を知ったのは、小学5年生頃だった。未だに会う宮城の小学校の同級生は本当に数少ないが、その中の1人で、当時から特に仲の良かった友達が、「まゆゆ可愛くない?」と言ってきたのが始まりだった。
掃除の時間、ホウキをスタンドマイクに見立ててヘビーローテーションを熱唱し、全力で先生に怒られるそいつを、当時鼻で笑っていた。

正直私は、アイドルに"全く"興味がなかった。
申し訳ないが、これは本当の事だ。
そもそも私がなりたかったのは女優、役者であり、アイドルでは無かった。と言うより、自分がアイドルになんてなれるわけない、と思っていた。
前回のブログで書いた通り、Berryz工房さんのステージを見たとき、私は確信した。正確に言うと、興味がなかった訳ではないのかもしれない。本物のアイドルに格の違いを見せつけられ、「私はアイドルにはなれない」と言う答えを導き出した私は、自分にそう言い聞かせていただけなのかも。本当は、ほんのちょっとだけ、憧れていたのかもしれない。

そんな私がAKB4812期研究生オーディションを受けたのは、2011年の年始。舞台やプロダクションのオーディションに落ち続けて戦意喪失していた私に、「気分転換に、どんな子たちが来るのか見に行ってみたら?」と勧めたのは、母だった。
いつも東京にオーディションに来る時は、母と2人だった。夜行バスで東京に着く時は、毎回わくわくしていた。たまに、いや、割と頻繁に、父が往復8時間近くかけて仙台から車で送り迎えしてくれたりもしていた。
何度も何度もオーディションに落ち続け、それでも私の夢のために時間とお金を沢山使ってくれた両親には、本当に感謝している。
オーディションが終わった後は、毎回母と原宿でショッピングをして帰った。未だに私が東京で一番好きな街は原宿だ。当時の私は、原宿が世界で一番お洒落な街だと思っていた。今でも原宿には、そんな田舎娘だった私の思い出と憧れと、初心が至るところに転がっている。

少し話が逸れたが、完全にノリで(申し訳ない)12期研究生オーディションに書類を出したら合格通知が届いたので、いつものように母と2人でオーディションに向かった。(ちなみに私がAKBの一つ前に受けたオーディション、つまりデビューするまでに受けた最後のオーディションは、E-girlsだ。笑)

_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0446.JPG
【↑実際に書類に添付した写真】

まずは一次審査。12期研究生のオーディションには秋元康先生は不在だった為、当時の劇場支配人を始めとしたスタッフさん達がズラリと肩を並べていた。目の前の審査員席に座っていた戸賀崎さんと西山さん(サルおば)が、めちゃくちゃ怖かったのを今でも覚えている。笑
後にこのお二人から私は、生涯かけても返しきれるか分からない程の恩恵を受ける事となる。

一次審査は簡単な自己PRと質疑応答。
まず聞かれたのは、「推しメンはいますか?」だった。何度も言うが、アイドルの知識が本当に無かった私は、メンバーの名前なんて分からなかったし、まず「推しメン」と言う言葉をそこで初めて聞いた。

おしめんってなんだ?

私の頭にハテナが浮かぶ。
周りの子たちは、「まりこ様です」「ともちんです」と、どんどん答えていく。私の番がきた。
おしめん?オシメン……お知メン、、?
そうか!お知り合いのことだ!

「いません。」




ほんの一瞬、会場の空気が止まった気がした。

次の質問が、「デビューした後の目標を教えてください。」だった。

周りの子たちは、「選抜メンバーになる事です。」「神7に入りたいです!」「センターに立つことです。」などと答えていて、その子たちの目はとても輝いていた。

私はと言うと。

アイドルとしての目標が特に思いつかなかった。
もうこの際すべて暴露すると、もし万が一受かったときは、AKBとしてデビューをして、プロダクション移籍で事務所に入り、女優デビューすることが私の真の目的だったからだ。だとしたら、アイドルとしての目標よりも、自分の人生の目標を言おう。
 

「ブロードウェイに行く事です。」


また会場の空気が止まる。刹那、戸賀崎さんが少し笑った気がした。

_var_mobile_Media_DCIM_100APPLE_IMG_0456.JPEG

そんな感じで一次審査は終了。周りの子たちから、「変な子だ。」と言う視線を存分に浴びて、私は悔いなく母の元へ帰った。
受かる訳は無いが、夢を語る少女たちの目の輝きを見て、アイドルってちょっと凄いのかも。なんて思いを胸に東京を後にした。
それから少し経ち、私はオーディションを受けた事自体忘れていたが、なんと、2回目の合格通知が仙台市太白区(前実家)に届く。

果たして宮城の田舎娘は、国民的アイドルの仲間入りを果たせるのだろうか……!?運命は如何に…!

次回!「華怜、アイドルになる」

お楽しみに!!!




↑このページのトップへ