2ヶ月の入院生活を終え体調もかなり良くなり、めでたく2014年2月下旬、退院。しかしまだ通院治療は残っており最初の年は三ヶ月に一度、一年後からは半年に一度、最後は一年に一度というスケジュールで病院へ通うことになった。屋外の開けた場所にある病院のベンチに腰掛けて食堂で買ったソフトクリームを食べながら風景と人を見るのが好きだった。この時からずっと吸っていたタバコをやめた。やめると料理が美味しく感じたり身体の調子が良くなるというが違いはあまり分からなかった。

何をしていてもずっと心に引っかかっている事があった。それはTSUMUさんの事だった。新しい年が明けてしばらくしてから、TSUMUさんの私生活が忙しくなり、バンド活動をしていくことが難しくなってしまった。話が前後してしまうがTSUMUさんは数年前、諸事情により家と仕事を無くしてしまい、俺の家で一緒に暮らした事があった。それはある意味とても楽しい日々だったが、当然そんな暮らしは長く続かない。それからしばらくしてTSUMUさんは1から出直す新生活を始め、身の周りの環境をバンドから仕事へシフトチェンジした。それでも何とかバンドを続けてこれたが、それが厳しくなってきてしまったというわけだ。俺はTSUMUさんを心から応援していたし、なによりFIREBIRDGASSを無理してやって、再びTSUMUさんの生活が成り立たなくなるのを見るのは嫌だった。

今までやってきた中で、ここが一番重要なターニングポイントだったように思う。これからどうやっていくか決めなくてはならない。しばらく悶々とした日々を過ごし、想いをカタチにするためには行動しかない事に気付く。早速、大きく分けて2つのビジョンを作った。
1.FIREBIRDGASSはTSUMUさんが無理なく動けるペースで残して、そのかわりにガッツリ動けるバンドを新規結成する。
2.ここにきてFIREBIRDGASSをユルくしていくのはカッコ悪いのでもう割り切って他のベーシストを探す笑。
こう見て、1と2どちらにもベーシストは必要だから、とりあえずベーシストは探そうと動き出した。一人で始めるメンバー探し、抑えきれない初期衝動。まるでFIREBIRDGASS結成前と同じだった(今だから言うけど実はどちらかというと俺の心は1のビジョンに傾いていた)。そこで思いついたのがKENZIだ。またバンドを始めるならKENZIと始めてみたかった。この時の自分はもうひとつの新たなFIREBIRDGASSを組もうとしたんだろう。今考えれば無謀すぎる笑。
ほとんど連絡を取っていなかったので少し照れくさい気持ちもあったが、KENZIの番号にCALLした。そこで諸々の話を軽く伝え、今度は俺からのアポで14年ぶりに待ち合わせの約束をした。

春だというのに汗ばむ陽気だった。新宿歌舞伎町の喫茶店で俺達は再び出会った。かなり久しぶりだったが、お互いほとんど変わっていない。挨拶程度に雑談した後、KENZIの近況を聞いた。KENZIはアコースティックバンドを組みアコーディオンをやっていたがベースは弾いていなかった。俺は単刀直入に、もうベースはやめてしまうのか聞いた。KENZIは「弾ける場所があるのならベースは好きな楽器だしやりたいと思っている」と答えた。その後、今度は俺が自分の気持ちを伝えた。「どんなバンドになるかは分からないがガンガン動けるバンドを作ろうと思っている。そこでベースをもう一度弾いてみないか?」少しの間のあと出た答えは「OK、やるよ」。俺達は何度も失敗した二人。実際、二回別れている。ひどい時は下北沢BASEMENT BARでライブ直前、登場seの鳴る中、楽屋で掴み合いになった事もあった。でもまあ、それも全て二十代の話。お互いに齢を重ねて見える部分も変わった。だから今度は上手くいくと思った。「二回脱退してるから三度目の正直だね」なんて笑い話をしてコーヒーを飲み干した。また動きがあれば連絡すると伝えて二人は席を立った。

FIREBIRDGASSはYOSSY加入の話が着実に進んでいた。方南町のファミレスに集まって一晩中語った。同じ歳で共通認識が多く沢山の話題が噛み合い良い感じにシンクロした。YOSSYはFIREBIRDGASSの強みと弱みをあらかじめ心得ている人だった。そしてドラムだけでなくバンドのプロデュースも出来る人間だ。今現在も、様々な局面で一番多く会話をして気持ちを共有しているメンバーである。

表向きの部分では前メンバーでのFIREBIRDGASSで俺の復帰ライブをやり終えた。
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しかし裏ではTSUMUさんが本当にバンド活動が出来なくなってしまった。正確にいうと、仕事の都合で先の予定を全く立てられない。ライブを一本も入れられないのである。月一本でもライブが出来ればまだ良かったが、それすらもNGだった。しかも、いつまでその状況が続くのかも分からない…それはつまり「FIREBIRDGASSの無期限活動停止」を意味する。
さすがにこれには参った。YOSSYが正式ドラマーに入ってすぐ活動停止はありえない。
俺は自分の気持ちを素直に話した。
「俺は止めたくない。」
TSUMUさんの答えは
「正直もうバンド自体やれない。」
こうして、TSUMUさんの脱退が決まった。やるべき事をやらずしてやりたい事はやれない。バンドをやっていればよくある仕方ない事。仕方ないという言葉は諦めているようであまり好きになれないが。
ちなみにYOSSYの初練習に入った時、ベースはまだTSUMUさんが弾いていて、いつもより少し緊張感のあるスタジオを終えた後、TSUMUさんがYOSSYにこの話をした。「YOSSYをFIREBIRDGASSに誘ったのは俺だけど俺がFIREBIRDGASSをやれなくなっちゃったゴメン〜」って。詐欺か笑。YOSSYは冷静に「え?まじすかーまあ俺はやりますけど」って感じで一瞬で終わった笑。さすがですな。
TSUMUさんはここで長いバンド生活を終えた。ホントはちょっぴり寂しいけれど、たまーにライブを見に来てくれたり、飲みに行ったりしています。今はいい先輩であり友人です。
7月、TSUMUさん&辰嶋さん脱退。このメンバーでのFIREBIRDGASSもマジで楽しかったぜ!お世話になりました!
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ラストライブ後の一枚。

結果的に頭の中で描いた二つの構想が一つになった。一連の話をKENZIに伝えると、「俺がイシとバンドやるなら、やっぱりそこはFIREBIRDGASSになるんだな」との答え。なんだそれ、カッコいい。まさかこんな事になるとは思いもよらなかったが、まあ結果オーライということで笑。FIREBIRDGASSのベーシストにKENZIが再々加入した。

7月1日。下半期の始まり。
長い前置きになったが、こうして今のメンバー四人が揃った。

ここからはただひたすらに練習して新体制に曲を馴染ませた。
そして迎えた10月。二万電圧でデビューライブを飾った。FIREBIRDGASSという冠は変わらないが、まるで新しいバンドを組んだかのような錯覚がした。それほど何かが違った。理由は分からない。だんだん楽しくなってきてライブ本数を自分達の出来る限界まで増やした。その勢いをそのままパッケージングしたものが現メンバーでの初音源となるep"Calling Card"。名刺代わりの一枚。
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これまであまり地方には縁がないバンドだった。しかし、新メンバーYOSSYの人脈の広さも手伝って、わずかな本数だがCalling Cardリリースツアーを組めた。

2015年が明けて半年が経っても相変わらずライブ、ライブ、ライブの日々。
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物販はYOSSYが全て担ってくれた。次々に出る新作。
これ全部D.I.Yで手刷りなのだ。次はどんな新作が仕上がるのか?メンバーだけど実は俺も結構楽しみなのである。
そして6月某日、梅雨の始まりの頃。そんなYOSSYから一通のラインが来た。「NO EXCUSEとスプリットを出そうって話がある。」そのスプリットに対してのYOSSYの熱い想いを聞いた。俺にとってもNO EXCUSEメンバーはそれぞれ前のバンドの頃から知っていたので感慨深い話だった。だいぶ昔、TSUMUさんと加藤さんが同じバンドをやっていて、感電GIGに出演してもらった事もある。だから俺に断る理由なんてない。「光炎万丈」のリリースが決まった。(タイトルの由来等については以前FOLLOW UPでのインタビューで答えているので割愛させていただく。)
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8人で撮った迫力のアー写!

そのスプリットに向けて早速曲を作り始めた矢先、またも俺に不運が…。バンドが勢いづいて行く渦中、前しか見えない時、人間そんな時が一番危ない。普段なら落ちないような落とし穴にハマる。初台でライブ中に右鎖骨を派手に骨折してしまった。本番中、右腕が全く上がらなかった。なんとかやりきったが服を脱ぐと右肩の骨が上に出っ張って盛り上がっていた。こいつはマズイとそのまま近くの救急病院へ。そしてまたもや入院→手術。以前、名古屋で右拳骨折、結核の胸膜炎も右肺、そしてこの右鎖骨遠位端粉砕骨折と、自分の右側ばかりに災いが起こるのでお祓いに行こうかなと思った(行ってないけど)。手術した次の日、モヤモヤした気持ちを払拭すべく左手で歌詞を書いてメンバーに送ると、その日の夜にYOSSYから少し訂正したものが送り返されて来た。そのやりとりを繰り返しているうちに、一つの作品を生んだ。泥まみれの心が呼んだ歌。やがてその歌は「プライド」というタイトルになった。

一週間後、退院した次の日にライブが入っていた。何の因果か、会場は病院から徒歩10分くらいのところ。片手でぐちゃぐちゃに髪の毛を逆立てて会場に向かった。メンバーが心配してくれて、ミーティングの末、一曲だけ四人でやろうということになった。他はなんと俺以外の三人でライブをやった。幻のライブである。それを俺はフロアから見ていた。まさかFIREBIRDGASSのライブをお客さんと同じ目線でフロアから見る事になるとは。歌も演奏もガッタガタだったけど、俺は嬉しくてニヤニヤが止まらなかった。
幻の3pファイヤー。

俺はラストの「SUNDIAL」だけ参加した。
このライブは一生忘れる事はないだろう。

11月。新企画を立ち上げた。企画名は「ACROSS THE BORDER」。よくある「ジャンルの壁を越える」とかそういう想いも無くは無かったけども、個人的にはジャンルに壁があってもいいから笑、とにかくみんなで騒いで正体不明な楽しい事がやりたかった。この企画は「意味わかんないけど面白かったなー」って言えたら自分の中では成功だ。ある意味チャレンジ要素が大きいので不安もいつもの2倍増しだが成功した後の嬉しさも2倍増しだ。今まで作り出した事のない景色を見たかった。
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毎年続けたいと思います。

2015年も暮れに近づいた頃。
NO EXCUSEとのsplit CD「光炎万丈」をBREAK THE RECORDSからリリースした。
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リリース後に決まったツアーは少ない本数ながら今に繋がる色濃いものになる。自分たちにとって「光炎万丈」の存在は大きかった。
FIREBIRDGASSは「イカレタ夢ノImitation World」、「プライド」、「You only live once(early type)」を収録。

こうして激動の2015が暮れていった。

次回最終回
「2016-NOW」

(つ づ く)

ishifire

辰嶋さんはパワフルなドラマーで、バカでかい生音に高速のドラミングが持ち味だった。しかし加入当初はシビアなところでその速さが仇となった。速すぎて曲の雰囲気まで変わってしまうからだ。俺は、辰嶋さんに一度だけ「もう少し遅く叩いてもらえないか」と話した事がある。辰嶋さんは「出来るだけ合わせるようにはするけど、俺は基本的にこの速さでしか叩けない」と答えた。
俺は後々「あの時、カッコ悪いことを言ってしまったな」と後悔した。辰嶋さんは"速きゃいいんだよ、クソッタレ!"というスローガンを背中に背負って速狂のコア・ミュージックを何十年も叩き続けて来た生粋のドラマーである。それを知っていたのに野暮な事を言ってしまった。例えるなら、せっかく極上のフェラーリを手に入れたのに法定速度を真面目に守るようなヤツになってしまった(あくまで例えですよ笑)。どうせフェラーリに乗るならフルスピードで制限速度無しのアウトバーンを走りたい。だから辰嶋さんにサポートしてもらっている間は日本で一番スピードの速いパンクロックをやろう、そう思った。ヒントを得たのは昔よく聴いていた京都のパンクバンド「SS」のサウンドだ。「このメンバーでしか出来ないFIREBIRDGASS」の正解の形が見えた。それ以降、遅く叩いてもらう事は全く考えなかった。
バンドはメンバー次第で良くも悪くも本当に変わる。この時のFIREBIRDGASSにはこの時のメンバーでしか出来ないことがあった。今のFIREBIRDGASSでは今のメンバーでしかやれない活動があると思っている。

歳がかなり離れていたにも関わらず(FUJIWARAと辰嶋さんは20歳くらい離れていた)、メンバー4人とも世代の違いを越えて仲が良かった。皆、音楽に詳しく、音の引き出しが多かった。そしてその引き出しを具現化する技術力も持っていた。その所以もあってか、曲作りで煮詰まったことはあまり記憶にない。しかしこのメンバーは皆多忙で、スタジオで最初から全員揃うことはほぼ無かった。もし週1ペースできちんと4人が集まってスタジオに入れていたら、もっと沢山の曲を生み出せたのだろうと思う。PUNKSであると同時にアンテナの高い音楽家だった。おかげで新曲もサクサク出来て、バンドにもようやく音源リリース出来るだけの力が戻った。

曲が出揃えば早速レコーディングをする事になる。録音場所にはあえてライブハウスを選んだ。新宿にあるWildSide Tokyoである。理由はFUJIWARAがそこで働いていたからだ(この時のメンバーは、俺、FUJIWARA、TSUMUの3人がライブハウススタッフ経験者という偶然の一致があった)。
メンバーチェンジを繰り返しながらも何とか迎えたFIREBIRDGASSの10年目。結成した時は10年なんて考えもしなかったが、素直に10年目を迎えられた事は嬉しかった。その"今"を詰め込む意味も込めてタイトルは"living today"にした。

2012年8月15日(終戦の日)2nd CD"living today"リリース。一ヶ月後の9月15日、レコ発とバンド10周年祝いを兼ねて感電GIGを行なった(その様子は今でもYoutubeで見られます)。
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大勢の人が駆けつけてくれて、一日中良い雰囲気のお祝いパーティーだった。ちなみにこの日は自分の34歳の誕生日でもあり沢山のお祝いを頂いた。「やって来てよかった」と心の底から思えた。

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この頃はまだツンツンのスパイキーヘアに鋲ジャンスタイルだったが、ある先輩に「スパイキーの本数が30本以下だったらパンクじゃねぇからな」と言われて、毎回30本以上になるようにスパイキーの本数を数えて立てていた思い出があります笑。

レコ発後は少ない本数だがライブをやりに都外にも行った。
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仮免で笑。

環境が変わり今でこそツアーの出来るバンドになりつつあるが、当時は各地に太い繋がりもなく、メンバーの仕事や生活の都合もあり、数本組むだけで精一杯だった。
そんな数少ない中でも、印象に残った事がある。まず名古屋でのライブ中、エキサイトしすぎてしまい右拳を骨折した。完全に身から出た錆である。痛かったが打ち上げで呑んでいたら物凄く腫れてしまい、帰京後仕事中に他のスタッフにNGを出され病院へ行き入院→手術。これはまいった。
もう一つは岩手へライブに行った時のこと。リハが終わり、イベントを組んでもらった岩手の友達と「被災地を見に行こう」ということになり、陸前高田市まで車を走らせた。「被災地を見に行く」というと、人によっては不謹慎に感じるかもしれない。ボランティアなどではなく「見に行くだけ」という事に少し後ろめたさもあった。でも結果的に見に行って良かった。ネットやニュースで見た事は知っていたが、本質を分かってはいなかった。やはり、その場所に行き、瓦礫の残る大地を踏みしめ、空を見上げ、海を眺め、空気を吸い込んで、実際に被災した方々から現地での話を聞くと、同じ環境、同じ境遇にいないと分からない事を少しだけ分かる事が出来た気がした。あの場所で見た景色は一生忘れる事はない。

年内で単発遠征も一区切りし2013年が明けた。2013年。思い返すとこの年はハードなハプニングが起こった年だった。まず、2月。とあるライブの日、リハ時間を過ぎてもFUJIWARAが来ない。「寝ているのか?」と電話をするも繋がらない。それまでそんな事は一度もなかったので、どうしたのだろうと心配した。
結論から言うとFUJIWARAはそのままライブに来なかった。ヤツはすでに失踪していた。この事で深く傷ついた人間もいるので理由を書く事はやめておく。でも「超ダサイ理由」とだけ付け加えておこう。大切な友人達を巻き込んで周りに迷惑を掛けた。そしてライブを飛ばしたわけだから、もちろんその日の企画バンドにも、対バンにも、ウチらにも筋の通っていない事をした。俺は許さなかった。後日、無事発見されたFUJIWARAを解雇。バンド人生で初めてメンバーをクビにした。果たしてこの処遇が最善策だったのかどうかは分からない。人により色々な意見があるだろう。だが、少なくとも俺は自分の選択に一片の後悔もしていない。情を裏切る人間は孤独になっていく。今となってはただの寂しい話だ。
肝心のライブに対しては「こんな事でキャンセルしたくない」という気持ちが心に渦巻いていた。企画者も対バンもみんな優しくしてくれたので、最悪俺がギターボーカルになり3人でもライブを決行するつもりだった。

だが、その時

「ギターいないの?私ちょっとファイヤーのギター弾けるからやってみようか?」と名乗りを上げた女性がいた。
彼女の名前はJUNKさん。色気と火花を散らすスーパーギタリストだ。以前から交流はあったが、この日は対バンではなく、リハの時間からライブハウスへ遊びに来ていただけだった。まさしくこの時の俺たちにとっては地獄に仏、いや、地獄にジャンク!さっそくリハの時間に初合わせをした。(うろ覚えだが楽器は対バンのギターを借りたような記憶がある)。そうしたらなんと6曲も弾けたのだ!これには本当にビックリした。もちろん最初から全て完璧ではなかったが、ものの30分足らずのリハ時間中に一気に覚えて弾けるようになってしまった(しかもソロまで)。このような凄まじいギタリストと一緒に音を出せたのは良い経験だった。本番ライブは6曲を全身全霊で演奏し4人とも燃え尽きた。対バンからも箱のスタッフからも「良くやったね、良いライブだった」と言われて本当に嬉しかった。
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初ライブ後の4人。
(L→R)TSUMU/ISHI/JUNK/IRONFIST辰嶋

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JUNKさんは俺らにとっての救世主だった。
その後もJUNKさんにヘルプギターを継続して弾いてもらったおかげでライブ活動を途切れる事なく続ける事が出来た。各地で好評を得たが、JUNKさんには本業バンドがあり長い間手伝ってもらうわけにもいかなかった。俺とTSUMUさんとしてもメンバーの半分がサポートメンバーという形でライブ活動を続けていくのはどうなのか?という話になり、JUNKさんと辰嶋さんでライブ活動を継続しつつも、ギタリストとドラマー探しを急いでいた。

季節は春になり桜が咲く頃だった。二万電圧の受付で、たまたま目の前にKAZUがいた。KAZUがやっていたバンドもメンバーの脱退が重なり活発な活動を出来ずにいたので、ふと「暇してるかな?」と思い「もし暇してるならファイヤーでギターやらない?」と声をかけた。そうすると「あ〜、やりますか、とりあえずスタジオに入ってみますか」という「〜ますか」だらけのユルい答えが返ってきた。そしてそのままFIREBIRDGASSに加入した笑。KAZUの弾くギターが好きだから声をかけたとか、昔からの熱い繋がりがあったとか、ドラマチックな展開は特にない。「たまたまそこにいたから声を掛けた」だけである。誘った理由はそれだけだ。
だが、それがいい。
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初スタジオの時。ルーキーの和也、まだレスポールJr.時代。
 
JUNKさんのサポートが終わり、KAZUを正式ギタリストとして迎え、FIREBIRDGASSは何度目かの新たなスタートを切った。KAZUはギタリストとしてはまだまだ不慣れな部分もあったが、持ち前の人当たりの良さを発揮しTSUMUさん、辰嶋さんともすぐに打ち解けて、良いグルーヴが生まれた。
しかし2013年のFIREBIRDGASSはこれで無事には終わらず、さらなる災いが降りかかった。今度は俺が病に倒れてしまう。病名は肺結核。時期はちょうどクリスマスイヴだった。サンタクロースもひどいプレゼントをくれたものだ。
以前の20000V時代、身の回りで結核が流行った。地下のライブハウスなんて格好の餌食だ。おそらく、その時代に感染していた菌が免疫力の下がったこの時期に暴れ出したらしい。一ヶ月ほど前から胸に変な違和感があり咳が出ていた。とくに寝起きに胸が痛んだ。微熱も三週間以上続いていた。不摂生な生活が続いていたので自分でも何となく「これはいつかガタが来るかも」と感じていた矢先だった。

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ここから少し闘病日記になります。。。
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診断の結果、二ヶ月間の入院となった。通常、肺結核は肺の中で菌が繁殖し空気感染するため隔離病棟に入院となるのだが、自分の場合は肺結核だけでなく肺の周りにある胸膜に感染が認められ、結核性胸膜炎を併発していた。ただし肺の中自体は排菌する(空気感染の恐れがある)ほど冒されていたわけではなかった。胸膜が膿んで右肺に2リットルくらいの水が溜まっていたので入院治療が必要となったわけだ。他の患者の中にも、骨結核や脳結核など、肺だけではない様々な結核患者がいた。
治療方法は、結核菌には服薬が基本で、結構な量の薬を飲んだ。リファンピシンという薬を飲むと尿が綺麗な赤〜ピンク色になって可笑しかった。胸膜炎で溜まった胸水には肋骨と肋骨の間に穴を開けドレーンを入れてそこから排出した。約2週間程ドレーンに繋がれていたが、その2週間は地獄だった。ズレないようにドレーンの入り口を身体に糸で縫い付けていたので寝返りを打てず、術後間もない頃は痛みがキツかった。もう出来ればあれはやりたくない。
結核に冒された部位が治った後は石灰化巣という傷跡のようなものになり、その部分は壊死して機能しなくなると聞いた。右肺は残念ながら前のようには戻らない、という説明を受けた。「では以前のようには歌えなくなるのか?」と担当医に問いかけると、確かに元には戻らないが、そこまで支障は出ないはず、あとはあなたの努力次第でどうにか出来るレベルですよと言われ、やる気が出た。

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隔離病棟。ここに入院していた。

動きたくてもドレーンに繋がれて動けない時は眠ってしまうか、天井を見上げたまま考え事をするしかなかった。これから先、さらに年齢を重ねていつか死ぬ時に、こんな風に知らない土地の知らない人の中で管に繋がれたまま死にたくないな、とか。普段、暗い事はあまり考えない性格だが入院中で動けない状態だと少しは考えてしまうものだ。
「生まれた以上はいつか死ぬ。ではどうせ死ぬのなら、今本気でやりたい事は何か?」
行き着いた結論は
「若い時のように、生活も身体も身軽には動けないけど、できるだけでいいから、退院したらもう一度本気で音楽やってみよう」
ということだった。
人間、病にすら教わる事もあるんだな、と思った。いつまでもあると思うなバンド生活。時間は誰にでも平等に流れ、とどまる事はない。命はその流れに浮かぶ笹舟のようなもの。いつか沈み朽ちる。俺もお前も君もあんたも有限なのだ。

そんなシリアスな入院生活も、ドレーンや管が抜けると俄然余裕が出てきた。病棟は七階だったので景観が良く一日中景色を眺めたりしていた。
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聳える富士

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斜陽

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ドラクエ笑

もう病気はこりごりだけど、前向きに考えれば、この入院生活はある意味自分にとってゆっくり己を見つめ直す良い機会になったかもしれない。

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ではバンドの話に戻ります。
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2014年が明けて少し経った頃。
メンバーであるTSUMUさんがお見舞いに来てくれた。そこで初めて「イシ、俺、一緒にやりたいドラマーがいるんだ」という話を聞いた。その人物は「YOSSY」だった。俺は静かな病室に似合わない驚愕の声を上げた。正直、どうなるのか見当も付かなかった。YOSSYは目張りメイクするのかな?とか笑。しかし、元々知り合いでもあったし同い歳なのも知っていたので「もっと深い付き合いの友達になれたらいいな」というノリで「一度会ってちゃんと話してみたい」と言った。あとは「TSUMUさんが言うのなら」という部分が大きかった。それだけ俺はTSUMUさんに信用を置いていた。

まだ2014年は始まったばかり。
俺は病院のベッドの上。
FIREBIRDGASSはお休み中。
しかし不思議な縁の歯車は、静かに、だが確実に、回り始めようとしていた。

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2013年6月
まだYOSSYと対バンをしていた頃。
まさか一緒に音楽やることになるとはね。これだからバンドはおもしろい。

次回「2014下半期-2015」

(つ づ く)

ishifire


結成時のベーシスト、KENZIが脱退し、次にベースで加入したのはWake Up MOTHER FUCKER Ma-chang。この長い名前の由来は"かまいたち"と"LUNA SEA"の影響からで、ある日Ma-changが考えてきた。分かる人にはすぐ分かると思う。
他のバンドでは「まさJAPAN」名義でボーカルをやっていたが、音楽の話で意気投合し、ウチでは「W.U.M.F Ma-chang」としてベースを弾いてもらう事になった。ベーシストとしてはFIREBIRDGASSが初めてのバンドということもあり不慣れな部分もあったが、ハードコアやパンクロックだけでなく歌謡曲やVISUALまで、音楽の好みがとても近かったのでいつも音楽話に花を咲かせていた。しかし喜ぶのも束の間、今度はYU-KIとTAKESHIが脱退することになった。転職、結婚等、人生の転機が理由だ。YU-KIはラーメン屋に転職し結婚、TAKESHIは花屋&葬儀屋仕事を頑張って主任になりこちらも結婚。新しい仕事と新しい生活に向かうため、ふたりはバンド生活を終えた。
今改めて振り返ると、このバンドの黎明期を支えたのは紛れもなくここまでのメンバーだった。短い間だったが、彼らはそれぞれのバンドライフを走り切ったのだろう。ここで、FIREBIRDGASSの第1期は終わったと思う。

初期メンバーは全員抜けてしまったが自分は辞めるつもりはなかった。別れを惜しむ暇もなく再びギターとドラム探しが始まった。久々にメンバー探しの日々である。しかし以前と違う事は、これまでの活動でバンド仲間が大勢出来た事だ。「今度スタジオ入りたいんだけど手伝ってくれない?」「やるやる!」。毎回スタジオの度にメンバーが入れ替わる流動的な形ではあったが、手伝ってくれた仲間のおかげで月に何回かはスタジオに入れていた。打ち込みドラムでスタジオに入っていた頃を思えば、生ドラムがあるだけまだ気持ち的にも余裕があった。この頃はSYOという若者にドラムを手伝ってもらっていた。SYOでは2〜3回ライブをやったと思う。募集告知関係はビラ貼りだけでなくネットや知り合いづてに広くメンバー募集をかけた。その甲斐あってかHPの募集リンクから連絡があり、ギタリストにB-Tが決まった。面識は無かったが、B-Tは元々ウチのお客だったらしく、良くライブに来ていたらしい。何故B-Tなのかというと苗字が「オバタ」というので、OBATA→oBaTa→B-Tという強引な流れで命名した。

Ma-changとB-Tは大晦日から1月2日まで呑み通した事もあるくらいの酒豪で、俺たち3人は高円寺にあったセピアというBarで普段からよく集まって遊んでいた。練習時間よりも呑んでいる時間の方が確実に長かった。これまで自分はあまり酒が飲めなかったのに、飲んでは吐いてを繰り返していたら、いつの間にかある程度飲めるようになっていた。
そんなタイミングで全く酒の呑めないRYO-HEYがヘルプドラムで加入した(RYO-HEYは後日正式加入する)。下戸の彼は練習後いつも即帰宅していたが、たまに呑みに付き合ってくれた。ある時一緒に呑みに行くと、レバ刺し(当時は規制前)をつまみにパイナップルジュースを飲んでいた。「味覚おかしくない?」と言ったら「酢豚にもパイナップル入れるでしょう、ソレと同じですよ」と返された。「いやソレ違うだろ」と思ったがタイミングを逃して言えなかった。どうでもいい話だがよく覚えている。確かにRYO-HEYのドラムは酢豚にパイナップルのような、あえて王道と邪道を共存させ、互い同士を引き立て合わせる事をやりがいとするようなパターンが多かったように思う。スイカに塩ふるとより甘く感じる的な。ふざけて書いてますが結構これほんと。

次の年になるとベースのMa-changが脱退。バンドメンバーから普通の呑み仲間に戻ることになった。その後ベーシストには再びKENZIが加入。RYO-HEYのレバ刺しパイナップル事件は鮮明に覚えているのに、なぜ再びKENZIが加入に至ったのかは全く覚えていない。たぶん俺から声をかけたんだと思う。メンバーチェンジがあっても大きく止まる事なくライブ活動はやれていた。だがこの時期のFIREBIRDGASSには新しい扉を開く力、すなわち音源をリリースするだけの体力は無かった。

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そんな調子で活動をしていた2009年の冬、ある事件が起こる。
ここから書く話はバンドとはあまり関係のない話になるので手短に書きます。

FIREBIRDGASSがホームグラウンドにしていたライブハウス「高円寺20000V」が火災の被害を受け閉店に追い込まれた。今はもう完全に閉鎖され、地下へ降りるための階段すら塞がれている。B1にあったGEAR共々本当に伝説となってしまった。

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看板には最後のライブが書いてある。これが20000Vのラストライブだった。

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受付からの風景。ここで俺はライブハウススタッフとしてもバンドマンとしても数々の事を学んだ。

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壁一面のフライヤー。何層にも上貼りされています笑

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フライヤー②

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この壁画はコンパネを組み合わせて描かれていたのでバラして持ち運びが可能だった。当時のスタッフが閉鎖前に運び出し保管しておいてくれた。現在は二万電圧のステージバックの壁に設置され、今もなお数々の熱きライブを見つめている。

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PA卓。この頃はアナログだった。近頃はデジ卓が増えましたね。

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事務所の店長机。本当に汚い笑。でも当時はこの汚さが妙に落ち着いたものだった。

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事務所②。ブッキング・サブの机。まだ入りたての頃、この机で仕事を覚えた。ネズミがよく出ていて、左上にある剥き出しの換気扇に引っかかり、気絶したネズミが目の前に落ちてきたこともあった。

2009年11月21日のライブ営業をもって、ライブハウス高円寺20000Vは終わった。

そしてもうひとつ、バンドでも終わりがあった。年が明けて2010年春、KENZIとB-Tが脱退した。

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メンバーはボロボロ抜けて俺はマトモなバンドひとつ成立させることも出来ない。大好きな20000Vももうない。思えば悲惨な時期だった。でも、そんなの関係ねーよって気持ちが強かった。結成前、ひたすら当てのないメンバー探しをしていた2年間を思えば余裕だったからだ。
「やるしかねえと息巻いて、上手くいかずに躓いて、泥に塗れてもいいだろう、そのまま行けばいい」。
音楽が好きで、バンドをやったり、ライブを観ていると、楽しい。今そう思えるだけで儲けもんなんだよ。好きなものに余計な気持ちや言葉はいらないの。そこはシンプルでいいの。やるといったらやるのだ。最初に決めた志を最後まで貫き通すのだ。
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ある日、某ライブハウスでブッキングスタッフをしていたTSUMUさんから電話がかかってきた。TSUMUさんは以前から仲の良い先輩で、当時TSUMUさんがやっていたバンドと対バンをしたり、プライベートで呑みに行ったりと、気心知れた仲間だった。
その電話の要件は「ライブのお誘い」だった。昔から良くしてくれる先輩だし本当は断りたくはなかったのだが、メンバーがいないからライブが出来ない旨を伝え、さらに「TSUMUさんがベースやってくれたらライブやれるよ」と冗談半分、本気半分な会話をした。そうしたら「今、暇してるからやろうかな」というまさかの答え。完全にノリでベーシストにTSUMUが加入した。これはなかなか笑えるエピソードである。ブッキングのお誘いを受ける代わりにメンバーに誘ったらOKだったのだ。その適当っぷりがまた最高なのである。でもかなり良いベースを弾く人で俺はTSUMUさんのベースが大好きだった。ギタリストはTSUMUさんの口利きでMIZUKIが加入した。MIZUKIはもともと期間限定で加入したメンバーで、一年足らずしか一緒にいなかったが初めてふたりの共同作業で曲作りをしたギタリストであった。
_var_mobile_Media_DCIM_110APPLE_IMG_0835.JPGL to R→ISHI/RYO-HEY/TSUMU/MIZUKI

ここからバンドも俺自身の生活も少しずつ浮上の兆しが見えてきた。当時のホームグラウンドであった高円寺20000Vは火事で閉店してしまったが、後継として現在の東高円寺二万電圧がオープンし、再びライブハウスで働く事になり生活とバンドの地盤も固まった。
余談ですが20000Vの最後を載せたので二万電圧の始まりも載せておこうと思います。

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ステージからホールを見た図。この頃はまだスケルトンに毛が生えた程度の着工具合。

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ここは現在のBARスペース。

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床とステージの段差が出来上がると俄然ライブハウスっぽくなってきた。

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まだメインスピーカーを設置する前。

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オープンから一週間後、二万電圧で初めて感電GIGをやった時は胸にグッとくるものがありました。

2011年が明けると契約通りMIZUKIが脱退、後任としてFUJIWARAが加入した。FUJIWARAは以前から交流があり、何度か対バンもしていた。ウチのライブもよく遊びに来ていたので加入に向けての経緯はごく自然な形だった。肝心のギターも上手でほとんど苦労せずすんなりと形になった。「さあこれでようやく進めるぞ」と思った半年後の2011年夏、再び暗雲が立ち込める。3年以上バックを支えてくれたRYO-HEYが他のバンドに専念するため脱退。急な脱退だったので、後に入っていたライブはドラムレスのアコースティック編成で行った。

その後、再びドラマー探しを始めようとした時に、以前言われた"ある言葉"を思い出した。
「良いドラマーがいないんなら、俺がブッ叩くからさ、FIREには元気でいて欲しいんだよね!」
1st CDの帯にコメントを書いてくれたIRON FIST辰嶋氏の言葉である。メンバーチェンジを重ねすぎて疲弊したバンドは以前のような勢いが出せなかった。そんなFIREBIRDGASSに歯痒さを感じていたという。嬉しい言葉である。すぐに辰嶋さんに連絡し、ドラムをやって欲しいと頼んだ。その頃(今も?)辰嶋さんはバンドを7個くらい掛け持ちしていたので「サポートでもOKかな?」との事、俺は「もちろんOK」と返答した。もう何でも良かった。とにかくもう新しい音源を作りたかった。

2011年10月、ISHI、TSUMU、FUJIWARA、IRON FIST辰嶋、というラインナップでのFIREが始まった。この辺りから、燻り続けた小さな炎にガソリンが注がれていく事になる。


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次回「2012-2014」

(つ づ く)

ishifire

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