2016年が明けてすぐ、NO EXCUSEとの「光炎万丈TOUR」が始まった。初日は渋谷DISK UNION店舗内でのライブだった。ソノシート付きセット購入者特典の無料ライブだ。ソノシートを作るにあたり、ご存知の通りTHE STALINのSTOPJAPをカバーさせて頂いたのだが、そこに至る経緯にて、ミチロウさんにカバーの許可を得る事が出来たのは本当に嬉しかった。自分がこのバンドを始めるキッカケとなったのは紛れもなくTHE STALINだ。初めて見たのは2001年の渋谷オンエアーイースト。21世紀に入って初めて見たライブが俺のスターリン初体験だった。あれから約15年が経ち、持ち曲を本家公認で、しかも自分やっているバンドでカバー録音出来るなんてファン心理としては最高にハッピーな事だ。光炎万丈のおかげで現実にする事が出来た。この機会をくれたNO EXCUSE、BREAK THE RECORDSに大感謝なのである。
4gOAz366uK.jpg特典ソノシートは、NO EXCUSEがStoogesの"Search and Destroy"、ウチらはTHE  STALINの"STOPJAP"のカバーとなった。両バンドとも物凄く「らしさ」が出ていて、バランスの良いパンク・ソノシートだと思う。手に取ってくれた若い世代の人も、これをきっかけにお好きなようにディグってもらって、昔のパンクもたくさん聞いてもらえたら嬉しいです。ただのいちパンクファンより。

ライブの話に戻ります。
渋谷DISK UNIONは店舗にレンタル機材を持ち込み、ライブを敢行するスタイルだった。
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レンタル機材を借してくれたスタジオ。広い。
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休憩室もゲストルーム並みに豪華で広い。コーヒーが飲み放題。

この日はステージ組み立てからバラしまでを限られた時間の中で回し終えなければならず、張り詰めた空気の中での進行だったが、その雰囲気がより一層緊張感に拍車を掛けた。気温がとても低く凍えるほどだったのを覚えている。そんな寒さの中、想像以上の人が集まってくれて、色濃い時間を作る事が出来た。渋谷DISK UNIONが一気に灼熱地獄のライブハウスへ!
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NO EXCUSE
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FIREBIRDGASS
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最初から最後までエネルギーが途切れることなくテンションは常にMAX。しかし店舗破損はゼロ。お見事!

片付けが終わる頃から雪がちらつき始め、この日は皆早めに解散した。降り積もる雪の中、残った人間で高円寺に移動し打ち上げ。朝方になるともうかなり雪が積もっていて、誰が発端かは分からないが、メンバーと本気の雪合戦をした。AM5:00の高円寺の街。酒と思い出が"残る夜"となった。

その後もツアーは続いた。アンコールツアーを入れても全部で9本というショートプログラムツアーだったが、ツアー経験の少ないFIREBIRDGASSにとっては充分すぎる収穫となった。NO EXCUSE、そしてツアー各所で出会ったバンドは俺達に大きな刺激と効果をもたらした。詳しくは光炎万丈TOUR FINALで特典として配ったツアーダイジェストのDVDを見ていただければこのツアーがどんなものだったのかが分かるだろう。
(ちなみに今年もやります、光炎万丈。詳細はまた後程。)
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非売品。見応えのあるdvdなので、機会あればどうにか手に入れてください笑。

ツアーが終わると、次の目標は新しい単独音源の制作だった。新旧の曲を合わせると10曲以上は出来ていた。満を持しての1st Albumである。時期的に、フルアルバムリリースに向けて動き出すには申し分なかった。早速、6月下旬よりstudio ZOTにてレコーディングを開始した。当初の発売予定は12月中旬、レコーディングは10月までに終わらせる計画で進めていた。しかし計画通りすんなりいかないのがFIREBIRDGASS、見事にハマってしまい、時間を使い過ぎてしまった。結局、予定がズレ込んで当初決めた発売日を変える事になった。ここでレーベル側から「どれだけ時間掛かってもいいから、納得いくものを作って欲しい」と通達があった。安藤シャチョーの漢っぷり最高である。おかげで1st Albumは「今までのFIREBIRDGASSを総括したベストアルバム」的なイメージに仕上がった。リメイク曲が多いのも理由のひとつだ。

そんなこんなでバタバタのレコーディングをしながらでも、ライブ活動は緩めなかった。おかげで4人で居る時間も増えて、より深い話が出来るようになった。このあたりのライブになるともう記憶に新しい方々も多いと思うが、BUSHBASHでのツーマン、オールナイトの木更津、ONA FES、滋賀ツアー、Memory Lane、多摩センター三角広場、新庄仙台2daysツアー、ACROSS THE BORDER、FEEL THE PUNK BLAST、NO EXCUSEとの共同企画"光炎万丈"などがあった。他にも数え始めたらキリがない、どれも楽しい記憶として残っているライブがいっぱいである。

年が明けて2017年1月
1st full Album「THIS IS FIREBIRDGASS」をBREAK THE RECORDSよりRelease。
ツアーは全部で22本。
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スケジュールなどは画像の通り。
このツアーについては今ここであれこれ書くのは控えようと思います。なぜなら…!!ここからはシークレットで。あとのお楽しみです!

さあ、いよいよ現在に追いつきました。
今も、相変わらず楽しく、時に苦しくもがきながらやってます。またいつか今の活動をこうして書く事が出来るように、気合入れてやっていくだけですね。
もう脱退とかないように願ってます笑。
バンドは楽しい。何年やっても飽きない。もちろん難しい部分もあるけど、だからおもしろい。
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ここまで読んでくれてありがとう。
じゃ、また「ライブハウス」で乾杯しましょう!



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THIS IS FIREBIRDGASS


01.FIRE STARTER
02.SUNDIAL
03.パンクスは豚小屋で産まれた
04.ドッペルゲンガー
05.人間牧場
06.Little Boy
07.ENOLA GAY
08.ANTI
09.愛鈍脳
10.限界突破2017
11.YOU ONLY LIVE ONCE
12.ONE FOR THE ROAD


Thanks.

ishifire



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編集後記


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いや〜どうもどうも。
ここまで読んでくれた皆さんありがとうございました。長々と書き記して参りましたが、このバンドの15年が少しでも伝わったのなら本望です。

ブログは結構楽しんで書いてました。記憶を掘りおこすという作業は、こんなことでもない限り普段やらないからです。色々ありましたが、やめずに続けてきて良かったです。おかげで少しだけメンタルの強いバンドに成れた気がします。自分はバンドマンとして自身を置く環境に恵まれました。たかが15年選手のバンドマンの戯言ですが、間違いなく今の自分を形成するにあたって核となったものは音楽であり、パンクロックであり、FIREBIRDGASSであり、高円寺20000Vと東高円寺二万電圧であり、そこで出会った全ての人達でした。

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十代の頃に初めて聴いたパンクロック。親や家族ならまだしも、話したこともない、会ったこともない人の歌を聴いて、こんな風に生き方が変わってしまうのだから音と言葉の持つパワーって本当に凄いと思います。だからある意味危険でもありますが、本物の芸事が持つパワーって自分自身や誰かの人生をハッピーにするか、または跡形もなくぶち壊すか、それに尽きると思います。

ここまで書いてきたものは今の俺の捉え方であって、ひょっとしたら将来的に変わるかもしれません。無責任ですが、それは進化or退化or変化ってことで勘弁してください。退化はしないように頑張ります笑。

最後に

好きな言葉があります。
上手くいかない時、俺は何度も背中を押してもらいました。
じゃがたらというバンドのアケミさんの言葉です。知り合いでもないし会ったこともありません。じゃがたらを知った時にはすでに他界されていました。

でもこの言葉は生きていると信じています。




「俺は俺のロックを演る、お前はお前のロックを演れ」

「やっぱ自分の踊り方で踊ればいいんだよ」




2017年11月9日
ishifire

STAY PUNK!!!!!

STAY FREE!!!!!

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END.

2ヶ月の入院生活を終え体調もかなり良くなり、めでたく2014年2月下旬、退院。しかしまだ通院治療は残っており最初の年は三ヶ月に一度、一年後からは半年に一度、最後は一年に一度というスケジュールで病院へ通うことになった。屋外の開けた場所にある病院のベンチに腰掛けて食堂で買ったソフトクリームを食べながら風景と人を見るのが好きだった。この時からずっと吸っていたタバコをやめた。やめると料理が美味しく感じたり身体の調子が良くなるというが違いはあまり分からなかった。

何をしていてもずっと心に引っかかっている事があった。それはTSUMUさんの事だった。新しい年が明けてしばらくしてから、TSUMUさんの私生活が忙しくなり、バンド活動をしていくことが難しくなってしまった。話が前後してしまうがTSUMUさんは数年前、諸事情により家と仕事を無くしてしまい、俺の家で一緒に暮らした事があった。それはある意味とても楽しい日々だったが、当然そんな暮らしは長く続かない。それからしばらくしてTSUMUさんは1から出直す新生活を始め、身の周りの環境をバンドから仕事へシフトチェンジした。それでも何とかバンドを続けてこれたが、それが厳しくなってきてしまったというわけだ。俺はTSUMUさんを心から応援していたし、なによりFIREBIRDGASSを無理してやって、再びTSUMUさんの生活が成り立たなくなるのを見るのは嫌だった。

今までやってきた中で、ここが一番重要なターニングポイントだったように思う。これからどうやっていくか決めなくてはならない。しばらく悶々とした日々を過ごし、想いをカタチにするためには行動しかない事に気付く。早速、大きく分けて2つのビジョンを作った。
1.FIREBIRDGASSはTSUMUさんが無理なく動けるペースで残して、そのかわりにガッツリ動けるバンドを新規結成する。
2.ここにきてFIREBIRDGASSをユルくしていくのはカッコ悪いのでもう割り切って他のベーシストを探す笑。
こう見て、1と2どちらにもベーシストは必要だから、とりあえずベーシストは探そうと動き出した。一人で始めるメンバー探し、抑えきれない初期衝動。まるでFIREBIRDGASS結成前と同じだった(今だから言うけど実はどちらかというと俺の心は1のビジョンに傾いていた)。そこで思いついたのがKENZIだ。またバンドを始めるならKENZIと始めてみたかった。この時の自分はもうひとつの新たなFIREBIRDGASSを組もうとしたんだろう。今考えれば無謀すぎる笑。
ほとんど連絡を取っていなかったので少し照れくさい気持ちもあったが、KENZIの番号にCALLした。そこで諸々の話を軽く伝え、今度は俺からのアポで14年ぶりに待ち合わせの約束をした。

春だというのに汗ばむ陽気だった。新宿歌舞伎町の喫茶店で俺達は再び出会った。かなり久しぶりだったが、お互いほとんど変わっていない。挨拶程度に雑談した後、KENZIの近況を聞いた。KENZIはアコースティックバンドを組みアコーディオンをやっていたがベースは弾いていなかった。俺は単刀直入に、もうベースはやめてしまうのか聞いた。KENZIは「弾ける場所があるのならベースは好きな楽器だしやりたいと思っている」と答えた。その後、今度は俺が自分の気持ちを伝えた。「どんなバンドになるかは分からないがガンガン動けるバンドを作ろうと思っている。そこでベースをもう一度弾いてみないか?」少しの間のあと出た答えは「OK、やるよ」。俺達は何度も失敗した二人。実際、二回別れている。ひどい時は下北沢BASEMENT BARでライブ直前、登場seの鳴る中、楽屋で掴み合いになった事もあった。でもまあ、それも全て二十代の話。お互いに齢を重ねて見える部分も変わった。だから今度は上手くいくと思った。「二回脱退してるから三度目の正直だね」なんて笑い話をしてコーヒーを飲み干した。また動きがあれば連絡すると伝えて二人は席を立った。

FIREBIRDGASSはYOSSY加入の話が着実に進んでいた。方南町のファミレスに集まって一晩中語った。同じ歳で共通認識が多く沢山の話題が噛み合い良い感じにシンクロした。YOSSYはFIREBIRDGASSの強みと弱みをあらかじめ心得ている人だった。そしてドラムだけでなくバンドのプロデュースも出来る人間だ。今現在も、様々な局面で一番多く会話をして気持ちを共有しているメンバーである。

表向きの部分では前メンバーでのFIREBIRDGASSで俺の復帰ライブをやり終えた。
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しかし裏ではTSUMUさんが本当にバンド活動が出来なくなってしまった。正確にいうと、仕事の都合で先の予定を全く立てられない。ライブを一本も入れられないのである。月一本でもライブが出来ればまだ良かったが、それすらもNGだった。しかも、いつまでその状況が続くのかも分からない…それはつまり「FIREBIRDGASSの無期限活動停止」を意味する。
さすがにこれには参った。YOSSYが正式ドラマーに入ってすぐ活動停止はありえない。
俺は自分の気持ちを素直に話した。
「俺は止めたくない。」
TSUMUさんの答えは
「正直もうバンド自体やれない。」
こうして、TSUMUさんの脱退が決まった。やるべき事をやらずしてやりたい事はやれない。バンドをやっていればよくある仕方ない事。仕方ないという言葉は諦めているようであまり好きになれないが。
ちなみにYOSSYの初練習に入った時、ベースはまだTSUMUさんが弾いていて、いつもより少し緊張感のあるスタジオを終えた後、TSUMUさんがYOSSYにこの話をした。「YOSSYをFIREBIRDGASSに誘ったのは俺だけど俺がFIREBIRDGASSをやれなくなっちゃったゴメン〜」って。詐欺か笑。YOSSYは冷静に「え?まじすかーまあ俺はやりますけど」って感じで一瞬で終わった笑。さすがですな。
TSUMUさんはここで長いバンド生活を終えた。ホントはちょっぴり寂しいけれど、たまーにライブを見に来てくれたり、飲みに行ったりしています。今はいい先輩であり友人です。
7月、TSUMUさん&辰嶋さん脱退。このメンバーでのFIREBIRDGASSもマジで楽しかったぜ!お世話になりました!
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ラストライブ後の一枚。

結果的に頭の中で描いた二つの構想が一つになった。一連の話をKENZIに伝えると、「俺がイシとバンドやるなら、やっぱりそこはFIREBIRDGASSになるんだな」との答え。なんだそれ、カッコいい。まさかこんな事になるとは思いもよらなかったが、まあ結果オーライということで笑。FIREBIRDGASSのベーシストにKENZIが再々加入した。

7月1日。下半期の始まり。
長い前置きになったが、こうして今のメンバー四人が揃った。

ここからはただひたすらに練習して新体制に曲を馴染ませた。
そして迎えた10月。二万電圧でデビューライブを飾った。FIREBIRDGASSという冠は変わらないが、まるで新しいバンドを組んだかのような錯覚がした。それほど何かが違った。理由は分からない。だんだん楽しくなってきてライブ本数を自分達の出来る限界まで増やした。その勢いをそのままパッケージングしたものが現メンバーでの初音源となるep"Calling Card"。名刺代わりの一枚。
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これまであまり地方には縁がないバンドだった。しかし、新メンバーYOSSYの人脈の広さも手伝って、わずかな本数だがCalling Cardリリースツアーを組めた。

2015年が明けて半年が経っても相変わらずライブ、ライブ、ライブの日々。
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物販はYOSSYが全て担ってくれた。次々に出る新作。
これ全部D.I.Yで手刷りなのだ。次はどんな新作が仕上がるのか?メンバーだけど実は俺も結構楽しみなのである。
そして6月某日、梅雨の始まりの頃。そんなYOSSYから一通のラインが来た。「NO EXCUSEとスプリットを出そうって話がある。」そのスプリットに対してのYOSSYの熱い想いを聞いた。俺にとってもNO EXCUSEメンバーはそれぞれ前のバンドの頃から知っていたので感慨深い話だった。だいぶ昔、TSUMUさんと加藤さんが同じバンドをやっていて、感電GIGに出演してもらった事もある。だから俺に断る理由なんてない。「光炎万丈」のリリースが決まった。(タイトルの由来等については以前FOLLOW UPでのインタビューで答えているので割愛させていただく。)
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8人で撮った迫力のアー写!

そのスプリットに向けて早速曲を作り始めた矢先、またも俺に不運が…。バンドが勢いづいて行く渦中、前しか見えない時、人間そんな時が一番危ない。普段なら落ちないような落とし穴にハマる。初台でライブ中に右鎖骨を派手に骨折してしまった。本番中、右腕が全く上がらなかった。なんとかやりきったが服を脱ぐと右肩の骨が上に出っ張って盛り上がっていた。こいつはマズイとそのまま近くの救急病院へ。そしてまたもや入院→手術。以前、名古屋で右拳骨折、結核の胸膜炎も右肺、そしてこの右鎖骨遠位端粉砕骨折と、自分の右側ばかりに災いが起こるのでお祓いに行こうかなと思った(行ってないけど)。手術した次の日、モヤモヤした気持ちを払拭すべく左手で歌詞を書いてメンバーに送ると、その日の夜にYOSSYから少し訂正したものが送り返されて来た。そのやりとりを繰り返しているうちに、一つの作品を生んだ。泥まみれの心が呼んだ歌。やがてその歌は「プライド」というタイトルになった。

一週間後、退院した次の日にライブが入っていた。何の因果か、会場は病院から徒歩10分くらいのところ。片手でぐちゃぐちゃに髪の毛を逆立てて会場に向かった。メンバーが心配してくれて、ミーティングの末、一曲だけ四人でやろうということになった。他はなんと俺以外の三人でライブをやった。幻のライブである。それを俺はフロアから見ていた。まさかFIREBIRDGASSのライブをお客さんと同じ目線でフロアから見る事になるとは。歌も演奏もガッタガタだったけど、俺は嬉しくてニヤニヤが止まらなかった。
幻の3pファイヤー。

俺はラストの「SUNDIAL」だけ参加した。
このライブは一生忘れる事はないだろう。

11月。新企画を立ち上げた。企画名は「ACROSS THE BORDER」。よくある「ジャンルの壁を越える」とかそういう想いも無くは無かったけども、個人的にはジャンルに壁があってもいいから笑、とにかくみんなで騒いで正体不明な楽しい事がやりたかった。この企画は「意味わかんないけど面白かったなー」って言えたら自分の中では成功だ。ある意味チャレンジ要素が大きいので不安もいつもの2倍増しだが成功した後の嬉しさも2倍増しだ。今まで作り出した事のない景色を見たかった。
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毎年続けたいと思います。

2015年も暮れに近づいた頃。
NO EXCUSEとのsplit CD「光炎万丈」をBREAK THE RECORDSからリリースした。
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リリース後に決まったツアーは少ない本数ながら今に繋がる色濃いものになる。自分たちにとって「光炎万丈」の存在は大きかった。
FIREBIRDGASSは「イカレタ夢ノImitation World」、「プライド」、「You only live once(early type)」を収録。

こうして激動の2015が暮れていった。

次回最終回
「2016-NOW」

(つ づ く)

ishifire

辰嶋さんはパワフルなドラマーで、バカでかい生音に高速のドラミングが持ち味だった。しかし加入当初はシビアなところでその速さが仇となった。速すぎて曲の雰囲気まで変わってしまうからだ。俺は、辰嶋さんに一度だけ「もう少し遅く叩いてもらえないか」と話した事がある。辰嶋さんは「出来るだけ合わせるようにはするけど、俺は基本的にこの速さでしか叩けない」と答えた。
俺は後々「あの時、カッコ悪いことを言ってしまったな」と後悔した。辰嶋さんは"速きゃいいんだよ、クソッタレ!"というスローガンを背中に背負って速狂のコア・ミュージックを何十年も叩き続けて来た生粋のドラマーである。それを知っていたのに野暮な事を言ってしまった。例えるなら、せっかく極上のフェラーリを手に入れたのに法定速度を真面目に守るようなヤツになってしまった(あくまで例えですよ笑)。どうせフェラーリに乗るならフルスピードで制限速度無しのアウトバーンを走りたい。だから辰嶋さんにサポートしてもらっている間は日本で一番スピードの速いパンクロックをやろう、そう思った。ヒントを得たのは昔よく聴いていた京都のパンクバンド「SS」のサウンドだ。「このメンバーでしか出来ないFIREBIRDGASS」の正解の形が見えた。それ以降、遅く叩いてもらう事は全く考えなかった。
バンドはメンバー次第で良くも悪くも本当に変わる。この時のFIREBIRDGASSにはこの時のメンバーでしか出来ないことがあった。今のFIREBIRDGASSでは今のメンバーでしかやれない活動があると思っている。

歳がかなり離れていたにも関わらず(FUJIWARAと辰嶋さんは20歳くらい離れていた)、メンバー4人とも世代の違いを越えて仲が良かった。皆、音楽に詳しく、音の引き出しが多かった。そしてその引き出しを具現化する技術力も持っていた。その所以もあってか、曲作りで煮詰まったことはあまり記憶にない。しかしこのメンバーは皆多忙で、スタジオで最初から全員揃うことはほぼ無かった。もし週1ペースできちんと4人が集まってスタジオに入れていたら、もっと沢山の曲を生み出せたのだろうと思う。PUNKSであると同時にアンテナの高い音楽家だった。おかげで新曲もサクサク出来て、バンドにもようやく音源リリース出来るだけの力が戻った。

曲が出揃えば早速レコーディングをする事になる。録音場所にはあえてライブハウスを選んだ。新宿にあるWildSide Tokyoである。理由はFUJIWARAがそこで働いていたからだ(この時のメンバーは、俺、FUJIWARA、TSUMUの3人がライブハウススタッフ経験者という偶然の一致があった)。
メンバーチェンジを繰り返しながらも何とか迎えたFIREBIRDGASSの10年目。結成した時は10年なんて考えもしなかったが、素直に10年目を迎えられた事は嬉しかった。その"今"を詰め込む意味も込めてタイトルは"living today"にした。

2012年8月15日(終戦の日)2nd CD"living today"リリース。一ヶ月後の9月15日、レコ発とバンド10周年祝いを兼ねて感電GIGを行なった(その様子は今でもYoutubeで見られます)。
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大勢の人が駆けつけてくれて、一日中良い雰囲気のお祝いパーティーだった。ちなみにこの日は自分の34歳の誕生日でもあり沢山のお祝いを頂いた。「やって来てよかった」と心の底から思えた。

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この頃はまだツンツンのスパイキーヘアに鋲ジャンスタイルだったが、ある先輩に「スパイキーの本数が30本以下だったらパンクじゃねぇからな」と言われて、毎回30本以上になるようにスパイキーの本数を数えて立てていた思い出があります笑。

レコ発後は少ない本数だがライブをやりに都外にも行った。
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仮免で笑。

環境が変わり今でこそツアーの出来るバンドになりつつあるが、当時は各地に太い繋がりもなく、メンバーの仕事や生活の都合もあり、数本組むだけで精一杯だった。
そんな数少ない中でも、印象に残った事がある。まず名古屋でのライブ中、エキサイトしすぎてしまい右拳を骨折した。完全に身から出た錆である。痛かったが打ち上げで呑んでいたら物凄く腫れてしまい、帰京後仕事中に他のスタッフにNGを出され病院へ行き入院→手術。これはまいった。
もう一つは岩手へライブに行った時のこと。リハが終わり、イベントを組んでもらった岩手の友達と「被災地を見に行こう」ということになり、陸前高田市まで車を走らせた。「被災地を見に行く」というと、人によっては不謹慎に感じるかもしれない。ボランティアなどではなく「見に行くだけ」という事に少し後ろめたさもあった。でも結果的に見に行って良かった。ネットやニュースで見た事は知っていたが、本質を分かってはいなかった。やはり、その場所に行き、瓦礫の残る大地を踏みしめ、空を見上げ、海を眺め、空気を吸い込んで、実際に被災した方々から現地での話を聞くと、同じ環境、同じ境遇にいないと分からない事を少しだけ分かる事が出来た気がした。あの場所で見た景色は一生忘れる事はない。

年内で単発遠征も一区切りし2013年が明けた。2013年。思い返すとこの年はハードなハプニングが起こった年だった。まず、2月。とあるライブの日、リハ時間を過ぎてもFUJIWARAが来ない。「寝ているのか?」と電話をするも繋がらない。それまでそんな事は一度もなかったので、どうしたのだろうと心配した。
結論から言うとFUJIWARAはそのままライブに来なかった。ヤツはすでに失踪していた。この事で深く傷ついた人間もいるので理由を書く事はやめておく。でも「超ダサイ理由」とだけ付け加えておこう。大切な友人達を巻き込んで周りに迷惑を掛けた。そしてライブを飛ばしたわけだから、もちろんその日の企画バンドにも、対バンにも、ウチらにも筋の通っていない事をした。俺は許さなかった。後日、無事発見されたFUJIWARAを解雇。バンド人生で初めてメンバーをクビにした。果たしてこの処遇が最善策だったのかどうかは分からない。人により色々な意見があるだろう。だが、少なくとも俺は自分の選択に一片の後悔もしていない。情を裏切る人間は孤独になっていく。今となってはただの寂しい話だ。
肝心のライブに対しては「こんな事でキャンセルしたくない」という気持ちが心に渦巻いていた。企画者も対バンもみんな優しくしてくれたので、最悪俺がギターボーカルになり3人でもライブを決行するつもりだった。

だが、その時

「ギターいないの?私ちょっとファイヤーのギター弾けるからやってみようか?」と名乗りを上げた女性がいた。
彼女の名前はJUNKさん。色気と火花を散らすスーパーギタリストだ。以前から交流はあったが、この日は対バンではなく、リハの時間からライブハウスへ遊びに来ていただけだった。まさしくこの時の俺たちにとっては地獄に仏、いや、地獄にジャンク!さっそくリハの時間に初合わせをした。(うろ覚えだが楽器は対バンのギターを借りたような記憶がある)。そうしたらなんと6曲も弾けたのだ!これには本当にビックリした。もちろん最初から全て完璧ではなかったが、ものの30分足らずのリハ時間中に一気に覚えて弾けるようになってしまった(しかもソロまで)。このような凄まじいギタリストと一緒に音を出せたのは良い経験だった。本番ライブは6曲を全身全霊で演奏し4人とも燃え尽きた。対バンからも箱のスタッフからも「良くやったね、良いライブだった」と言われて本当に嬉しかった。
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初ライブ後の4人。
(L→R)TSUMU/ISHI/JUNK/IRONFIST辰嶋

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JUNKさんは俺らにとっての救世主だった。
その後もJUNKさんにヘルプギターを継続して弾いてもらったおかげでライブ活動を途切れる事なく続ける事が出来た。各地で好評を得たが、JUNKさんには本業バンドがあり長い間手伝ってもらうわけにもいかなかった。俺とTSUMUさんとしてもメンバーの半分がサポートメンバーという形でライブ活動を続けていくのはどうなのか?という話になり、JUNKさんと辰嶋さんでライブ活動を継続しつつも、ギタリストとドラマー探しを急いでいた。

季節は春になり桜が咲く頃だった。二万電圧の受付で、たまたま目の前にKAZUがいた。KAZUがやっていたバンドもメンバーの脱退が重なり活発な活動を出来ずにいたので、ふと「暇してるかな?」と思い「もし暇してるならファイヤーでギターやらない?」と声をかけた。そうすると「あ〜、やりますか、とりあえずスタジオに入ってみますか」という「〜ますか」だらけのユルい答えが返ってきた。そしてそのままFIREBIRDGASSに加入した笑。KAZUの弾くギターが好きだから声をかけたとか、昔からの熱い繋がりがあったとか、ドラマチックな展開は特にない。「たまたまそこにいたから声を掛けた」だけである。誘った理由はそれだけだ。
だが、それがいい。
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初スタジオの時。ルーキーの和也、まだレスポールJr.時代。
 
JUNKさんのサポートが終わり、KAZUを正式ギタリストとして迎え、FIREBIRDGASSは何度目かの新たなスタートを切った。KAZUはギタリストとしてはまだまだ不慣れな部分もあったが、持ち前の人当たりの良さを発揮しTSUMUさん、辰嶋さんともすぐに打ち解けて、良いグルーヴが生まれた。
しかし2013年のFIREBIRDGASSはこれで無事には終わらず、さらなる災いが降りかかった。今度は俺が病に倒れてしまう。病名は肺結核。時期はちょうどクリスマスイヴだった。サンタクロースもひどいプレゼントをくれたものだ。
以前の20000V時代、身の回りで結核が流行った。地下のライブハウスなんて格好の餌食だ。おそらく、その時代に感染していた菌が免疫力の下がったこの時期に暴れ出したらしい。一ヶ月ほど前から胸に変な違和感があり咳が出ていた。とくに寝起きに胸が痛んだ。微熱も三週間以上続いていた。不摂生な生活が続いていたので自分でも何となく「これはいつかガタが来るかも」と感じていた矢先だった。

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ここから少し闘病日記になります。。。
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診断の結果、二ヶ月間の入院となった。通常、肺結核は肺の中で菌が繁殖し空気感染するため隔離病棟に入院となるのだが、自分の場合は肺結核だけでなく肺の周りにある胸膜に感染が認められ、結核性胸膜炎を併発していた。ただし肺の中自体は排菌する(空気感染の恐れがある)ほど冒されていたわけではなかった。胸膜が膿んで右肺に2リットルくらいの水が溜まっていたので入院治療が必要となったわけだ。他の患者の中にも、骨結核や脳結核など、肺だけではない様々な結核患者がいた。
治療方法は、結核菌には服薬が基本で、結構な量の薬を飲んだ。リファンピシンという薬を飲むと尿が綺麗な赤〜ピンク色になって可笑しかった。胸膜炎で溜まった胸水には肋骨と肋骨の間に穴を開けドレーンを入れてそこから排出した。約2週間程ドレーンに繋がれていたが、その2週間は地獄だった。ズレないようにドレーンの入り口を身体に糸で縫い付けていたので寝返りを打てず、術後間もない頃は痛みがキツかった。もう出来ればあれはやりたくない。
結核に冒された部位が治った後は石灰化巣という傷跡のようなものになり、その部分は壊死して機能しなくなると聞いた。右肺は残念ながら前のようには戻らない、という説明を受けた。「では以前のようには歌えなくなるのか?」と担当医に問いかけると、確かに元には戻らないが、そこまで支障は出ないはず、あとはあなたの努力次第でどうにか出来るレベルですよと言われ、やる気が出た。

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隔離病棟。ここに入院していた。

動きたくてもドレーンに繋がれて動けない時は眠ってしまうか、天井を見上げたまま考え事をするしかなかった。これから先、さらに年齢を重ねていつか死ぬ時に、こんな風に知らない土地の知らない人の中で管に繋がれたまま死にたくないな、とか。普段、暗い事はあまり考えない性格だが入院中で動けない状態だと少しは考えてしまうものだ。
「生まれた以上はいつか死ぬ。ではどうせ死ぬのなら、今本気でやりたい事は何か?」
行き着いた結論は
「若い時のように、生活も身体も身軽には動けないけど、できるだけでいいから、退院したらもう一度本気で音楽やってみよう」
ということだった。
人間、病にすら教わる事もあるんだな、と思った。いつまでもあると思うなバンド生活。時間は誰にでも平等に流れ、とどまる事はない。命はその流れに浮かぶ笹舟のようなもの。いつか沈み朽ちる。俺もお前も君もあんたも有限なのだ。

そんなシリアスな入院生活も、ドレーンや管が抜けると俄然余裕が出てきた。病棟は七階だったので景観が良く一日中景色を眺めたりしていた。
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聳える富士

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斜陽

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ドラクエ笑

もう病気はこりごりだけど、前向きに考えれば、この入院生活はある意味自分にとってゆっくり己を見つめ直す良い機会になったかもしれない。

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ではバンドの話に戻ります。
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2014年が明けて少し経った頃。
メンバーであるTSUMUさんがお見舞いに来てくれた。そこで初めて「イシ、俺、一緒にやりたいドラマーがいるんだ」という話を聞いた。その人物は「YOSSY」だった。俺は静かな病室に似合わない驚愕の声を上げた。正直、どうなるのか見当も付かなかった。YOSSYは目張りメイクするのかな?とか笑。しかし、元々知り合いでもあったし同い歳なのも知っていたので「もっと深い付き合いの友達になれたらいいな」というノリで「一度会ってちゃんと話してみたい」と言った。あとは「TSUMUさんが言うのなら」という部分が大きかった。それだけ俺はTSUMUさんに信用を置いていた。

まだ2014年は始まったばかり。
俺は病院のベッドの上。
FIREBIRDGASSはお休み中。
しかし不思議な縁の歯車は、静かに、だが確実に、回り始めようとしていた。

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2013年6月
まだYOSSYと対バンをしていた頃。
まさか一緒に音楽やることになるとはね。これだからバンドはおもしろい。

次回「2014下半期-2015」

(つ づ く)

ishifire

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