書き込む前に色々と思い出しながら整理をしようと思っていたけどどう考えても母編だけでもかなり長くなってしまう( ・᷄ὢ・᷅ )
ま、仕方ないこの母の事を語らないと自分語りの意味も分からなくなると思うので。
下手な小説を読む様な寛大な御心でお読みになって下さいましm(_ _)m
前回書き忘れたけど母は昭和11年生まれの83才です。私は物心ついた頃から母の事を自慢してたと思う、私を34才で産み私が物心ついた時は大体40前後だったと思うのだけど、かなり綺麗な人で両親の知り合いの男性は皆母と話す時は目を伏せ顔を赤らめて話してたのを覚えてる。
そして私は思うのだ(やっぱりママは綺麗でとても魅力的でモテる人なんだ、いいでしょ〜羨ましい?)とどこに行ってもそんな事考えていた。
実際父の昔ながらの仲間達も毎年毎年母を見ては父に絡んでいたし、実際母を父と取り合った人も何人かいていつもその昔話は恒例になっていた。そんな母は16の時に父と出会い付き合いを始めて24か5才で結婚しているのでちょっと病院のお手伝い程度しか働いた事もなく結婚しているので全くの世間知らずだったのだ。
それに寄ってくる男性は引く手数多だったので自分一人で苦労などした事のない人だった。
前回に出てきた男性はまだ娘の私達と仲良くしようとしてくれたのでまだ良かったのだがその後も私は何人か会って美味しいものやおもちゃや服などプレゼントされていた、私を味方にすればどうにかなると思っていたようだがそれは全くの逆効果でしかない、前回の初めにも述べたが私はママ大好きっ子で一人占め出来ないとは癇癪起こしたり泣きわめいて手がつけられなくなる子供だったので男性達がそういう事をすればするほど敵対心しかもたなかった。要するに誰でも何でも嫌だし母を取ろうとするものは一切認めなかったしね。でも私は母が楽しそうにしているのを見るのが嬉しかったので我慢できていた。
私は小学校は越境して通っていて中学校はどうするか決めなきゃならなくなった時に母にとても悲しく困った顔で「色々とお金がかかる時なんだけどハッキリ言ってママはお金ないの」と6年生になった頃からちょくちょく言われ始めた。
その時母は同じ職場の人と付き合っていた、私が5年生になった頃からだと思う。
5年生のある日待てど暮らせど母が帰ってこない時があり今みたいに携帯などない時代だったので母の職場以外かける所は知らなかった。母のお友達の連絡先も知らなかったし所沢の祖母の所にもかけたが足腰弱った祖母と聴覚障害者の叔母しかいなく夜も遅くて電車で向かっても途中で終電が無くなるから行けないと言われた。
その日は食事もなく体が弱く過保護に育てられ母から離れたことの無い私にとって生涯忘れられない日になった。横浜の彼氏の家にいる姉の所にも電話をしたが来られないと言われ人生初1人で夜を過ごす事になった。私は臆病で母がいないと何も出来ない子だったから号泣しながら布団を敷いた、しかし眠れる訳もなく怖いからとテレビは見ないがつけたままにしておき電気もつけたまま布団を被って泣いていた。その内テレビも終わり(今と違い2時位には全て放送終了してた)砂嵐になってしまい更に私は恐怖でパニックになり夜中に大号泣、周りを見るとラジカセがあったのでラジオをつけた、まだ放送していたのでとりあえず泣きながら聞いていたらそのまま眠ってしまって次に目が覚めた時にはラジオからどこの国の言葉だか全く分からない放送が聞こえてきて寝起きプラスで更にまたパニック起こしラジオのチューナーを回してみたがラジオも終わってしまい本当の恐怖がやってきた。余計を見たら午前4時だった、次の日は学校だったが怖くて眠れず朝を迎えた。その日は学校をズル休みして1日グッタリして放心状態だった。
その日の夜に母は帰ってきたが私が泣きながら前日の事を説明しても軽く「ゴメンね」だけで後は文句を言う私に対して逆ギレしていた。
幼いながらも「何ででんわしてくれなかったの?」と問い詰めたりもした。母は黙ったままだった。
今にして思えばバツが悪かったのだろう、まさか小学生の娘に本当の事など言える訳もなく、かと言ってこれ以上責められるのも嫌だったみたいでしかめっ面をして私の話は無視をしていた。
しかしこういった事はその後、何度もありその度電話連絡もなかった。夕飯はいつも母が仕事後終わってから帰りに買い物して来るので冷蔵庫には牛乳と使いかけの野菜位しかなかった。なので母が夜遊びをする時私は次に母が帰ってくるまで何にも食べられなかった。
初回の時の事で私は小学生で不眠症になっていた。何度も同じ事を経験しても初めての時の恐怖は薄れず帰ってこない日が来る度動悸や過呼吸を起こすようになっていた。
そして姉が久しぶりに帰ってきた日があった。
姉は母のタンスやら引き出し、押し入れを何やらゴソゴソと探しまくっていた。私が何を聞いても「アンタはいいの!」と言い教えてくれなかった。
その姉が母の洋服タンスの引き出しの奥から何やら紙切れの様な物を数枚見つけその内容を確かめると「もうヤダー、何やってんの?あの人は?」と1人で怒りながら泣いていた。
暫くすると姉は何かを決めたかの様に私に説明を始めた。
「この紙は領収書って言ってママが言った先でお金を払った証拠みたいな物なのね、ここにママの名前が書いてあるでしょ?それとこっちは同じ場所の同じ領収書だけど知らない人の名前が書いてあるでしょ?だからママが帰ってこない時はこの人とここにいるの、わかった?」と私は分かったようなわからない様などっちつかずでとにかく帰ってこない日に何処にいるのかが分かるなら良かったと呑気な事を考えていた。
そしてその後母が帰宅しすぐ姉がその紙を見せながらブチ切れていた。やはり母は黙ったままだった。そんな事があっても母の無断外泊がなくなる事もなく続いてた。
私は両親の離婚前から母を幸せにする事だけを考えていた。
私はその時(私がママの所にいるとお金がかかってしまってママが大変なんだから我慢しないと)と思って頑張った。そして中学校の事も凄く悩み考えた結果凄く嫌だけど父の元で暮らそうと決意した。
それを母にも言った。悲しむかと思っていたのであのホッとした様な嬉しそうな顔を私は一生忘れないだろう。
その頃私は学校でイジメにあうようになってた。たまにしか来ないくせに勉強は出来て先生に褒められてるのが気に食わなかったのだろう。それになんと私のファンクラブまで出来ていたのだ。違うクラスの知らない男子ばかりで手紙とかよこしてきたり廊下ですれ違う時に握手を求めてきたりと私はからかわれてるとしか思わなかったのだが同じクラスの1人の女子にはそれも重ね気に入らなかったらしくイジメが始まった。
この事は私の語りの方に詳しく書くつもり。
やはり母の紹介編はまだまだあるので相当長くなりそうだゲッ(⌍་д་⌌)ソリ・・・
いい歳になってもツラい出来事って思い出すだけでかなり疲弊するものなんだなー。
心が削れると言うか.........。
なのでPart3に続きます。
ここまで読んでくださった方ありがとうございましたm(_ _)m
出来たらまたお付き合いくださいな(*^^*)
ではでは
TO BE CONTINUE