ねえ例えば、永遠って幸せかな。
とわに誰かと共にあるとか、とわに何かを好きでいるとか。
死ぬまで嫌いなひとがいるとか、死ぬまで嫌なものを守るとか。

そんな呪詛みたいな永遠なんて、なくてもいいんじゃないかなあ。

ひとは永遠に焦がれる。
ひとまたたきでも存在している、そんなものを忌避する。
それはまるで、さよならを拒むみたいに。

さよならだけが人生だ。
おおいに楽しめ。別れがなくては始まらない。

愛情というのは受け取ったことのあるものの反芻だ。と思う。受けた愛情のように、我々はひとを愛する。
誰かを好きだという気持ちを私が持たないのは、私が受けた愛情が歪んでいたから。歪んだ愛情を向けられることは辛いから。
自分がされて嫌なことはしないのが、基本でしょう?

まあそれはそれ、私はそもそも、まともな愛情をもらったことがない。
好きだと思ったことはあるけれど、それは私の脳味噌の誤作動、自虐行為の一種だった。
私を本当に好きな人を私は信用しない。
私を本当に好きだという人はろくでなしだからだ。
そしてろくでなしと、付き合ってきた。自業自得とはいえ傷は負った。

これが愛なら、愛なんていらない。

とは思わなかった。
だってそもそも、愛に優劣などつけられる立場ではないと考えているからだ。
それでも。それでも、私は、私だけはひとをあいさない、とは思った。
正しい愛。優秀な愛。愛に意味や在り方の決まりなどないように、私は、私の受けた愛情が良い愛情ではない、と判断したから。

愛情は反芻だ。嫌なことをひとにしないのは、人間として忘れてはならない心だ。

私は忘れない、私の傷を。
私は忘れない。私が傷つけたひとを。

ねえでも。
この世に本当に好きだと思える人は、ほんの少しだけなんだって。

そのほんの少しだけのひとなら、私も、私が受け取って嬉しい愛情で、愛せるかな。
なんて、夢見物語。

悲しいって、悲しいと思えば悲しいんだよ。
なんて当たり前のことを言ってみる。
悲しい、切ない、そう言葉にしなければ、涙にしなければ、人に伝えなければ、悲しくないなんてそんなわけ無いこと、みんな結構忘れてる。そんな気がしてる。
発信できる世の中に、発信しない、できない、という選択が、あることを、みんな忘れてる。
SNSで「落ち込む」と投稿すること、友達に「悲しい思いをした」と打ち明けること、家族に「もうしんどくて嫌だ」と涙すること。
それができないひとだっていること。
ねえ、悲しみは、感情だから。心のうちだから。
心にしまっておくことだってできるのだから。
しまっておいたその気持ちを、無いように思わないでほしい。
伝えなきゃ伝わらない。そんなことはわかるけれども、伝わらなかった気持ちを想像することすら、やめないでほしい。
されて嫌なことをしない、の基本だと思う。
相手の気持ちを、想像する。
ねえ。悲しみは涙ではないから。
涙することだけが悲しみだと、思わないでね。

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