「もう秋か–。それにしても何故、永遠の太陽を惜しむのか。おれたちはきよらかな光の発見に心ざす身ではなかったか。–季節の上で死滅する人々から遠く離れて。」

アルチュールランボーの『地獄の季節』という詩集にある一節の、小林秀雄の翻訳です。

全然よくわからないけど、なんかかっこいいなぁと読んだときに思いつつも、意味については考えていませんでした。

季節の上で死滅 なんて言葉、よく出てくるなぁすごいなぁと思うくらいで。

でもこの間、眠れずに悶々とした折に、その悶々に拍車をかけてみようと思いたち、この詩の意味について少し考えてみました(暇ですね) 


あんな大人になんかなりたかねぇと、誰もがあの頃噛み締めていたくせに–。と歌ったのは長渕剛ですが、ランボーのこの詩も、わりに心情としては近いものがある気がします。
「季節の上で死滅する」という象徴的な言葉は、自分が通り過ぎた出来事の中に、記憶の中に、自分の身を委ねてしまうことなんじゃないかと勝手に想像します。
自分の輝かしい過去の栄光を、会うたびに自慢するようなおじさんのことはなかなか好きになれない。でも多くの人は、対外的にそんな振る舞いはせずとも、自分の過去の中にある光にすがりながら生きている部分は少なからずあるんじゃないでしょうか。

ランボーはそんな態度すら、糾弾する厳しさを持っているような気がします。

いま目の前にある太陽は、新品の太陽なのに、なんでそれを記憶の中の太陽とすげ替えて「懐かしい」なんて思うんだ、おれたちは、毎日、なにかしら新しい発見をしていきながら生きていこうと決めたのに…

みたいなことを、これを書いた19歳のランボーは考えていたのかもしれません。

秋は確かに、色んな記憶が風の中に混じっているような季節だから、ついつい楽しいこと辛かったことを思い出して感傷的にふらふらしてみたくもなるものです。
でもそこに浸りつづけることに本当の面白さはないよ、と言われているような気がして、勝手に意味を解釈しておきながら背筋がしゃんとしたのでした。