六月が終わると同時に梅雨が明け、八月になった途端に猛暑となり、そして十二月を迎えたこの頃、急に寒さが深刻化している。

今年は不思議な年である。

そういえば去年の今頃、雑誌の占い特集に「来年は山羊座にとって大きな転機となる、山羊座の年です!」などと書いてあって浮かれていたが、「俺の年だ!!」と思えるような出来事はまだ起きていない。

というか、今年は良くも悪くもすべての人にとって転機の年だったのではないか。

占いなんて全くあてにならない、ならないのだけれど、気持ちの落ち込む長い夜にはつい、しいたけ占いのページを開き「俺のことわかってくれるのはしいたけだけだ…」などとボヤいてしまう。

何も褒められるようなことをしていなくても、星の巡りやオーラにこじつけて、励まされたい時が人生にはあるのだ。


それにしても、普段からあまり人に会わない生活を送っているとはいえ、今年の人に会わなさ度合いは自分さえ慄くものがある。

滅多に自分から連絡を取らない上、他のSNSもほぼ無言なため、どうやらこのブログで生存確認をしてくれてる友人や知人がままいるようなので、この頃の近況を書いていく。

実は猫が2匹増えた。

2匹に増えたのではなく、いきなり2匹増えて、今我が家では3匹の猫がうろうろしている。

十月の半ば頃、母の知り合いからの紹介で、保護猫のマンチカン姉妹を引き取ることになったのだ。

離れ離れになると寂しがって鳴き続けるため、いっぺんに2匹飼える人を探していたそうで、たしかに家の中でもお互いの姿が見えなくなると普段とは違う声を出し、どちらかが駆けつけている姿をときおり見かける。

名前は姉妹だからアネとイモで(なんとなく呼んでるうちに定着してしまった)、キジトラとかベンガルのような野性味溢れる柄を纏い、マンチカンといえども脚は短くない。

マンチカンとはどの猫種でも脚が短ければマンチカンであるらしく、つまり脚の短くない彼女たちはマンチカンではないのでは、と私は思うのだが、血統書付きのマンチカンであるそうなので、マンチカンなのだそうだ。

脚が短くない代わりに胴が長くてよく伸びるので、なるほど比率的にはマンチカンと言えなくもない(かもしれない)。

トンはブチ切れながらも初日から彼女たちのケージの周りをうろついたり、じーっと見上げたり、近くで寝たり、かと思えばまたブチ切れたりと、ビビリながらも友好的な態度を見せていた。

今やトンがキレることはなくなったものの、トンがしつこく追いかけ回して噛みついたり乗っかったりするあまり、姉妹たちの方がよく怒っている。

猫は幼い時に親や兄弟と噛み合うことで手加減を覚えるというので、トンはそのプロセスを経ていないのでは、と思い、私が教えてやると噛んでみたが、人間の歯など痛くも痒くもないらしく、まるで効き目がない。

兎にも角にも、3匹はそれなりに穏やかな日々を送っている。

1匹のときでも眺めているだけで一日が終わると思っていたのに、3匹ともなると順番に可愛がっているだけで平気で一週間が過ぎていく。

新しく猫を迎えたことで同じ猫でも全く違うのだとわかったり、もしやトンって変わっているのでは、と気付いたり、まだまだ書きたいことはあるのだが、晩ごはんアラームが鳴り猫たちが騒ぎ始めたため今回はここまでとする。

猫も冬毛になりもこもことしてきて、私も日々厚着になっております。

皆様も風邪やコロナに気をつけて、よい十二月をお過ごしください。

これまで流した涙をかき集めたら、一体どれほどの量になるだろう、とよく考える。

たぶん、今寝転んでるシングルベッドくらいは、余裕で満たされるのではないか。

もしかしたら、この部屋の天井にまで届くかもしれない。

私はとても泣き虫なのだ。

良くも悪くも心が揺れる瞬間には、一番早い体の反応として涙が出てきてしまう。

映画や読み物に泣かされることはしょっちゅうだし、たとえ何を見なくたって、悲観に暮れては泣きはらした夜がいくつもある。

しかし、思いつくかぎりの悲しい場面を想像して、沈むところまで沈んでいくと、今度はかえって、それが起きていないことが奇跡のように思えてくるのだ。

そうして私は今、数えきれないほどの不幸を免れてここに存在している、と実感して、安堵のあまりまたもや涙腺が緩む。

そんな夜を繰り返しているからか、猫が悠々と部屋を横切っていったり、隣を歩く人の耳が透けて赤くなっているのを目撃するときでさえ、その光景がなぜか懐かしくて、涙が滲んでしまうこともある。

ただ当たり前の光景が、当たり前にそこにあるというだけで、悪い夢を夢だと知ったときのように心が救われるのだ。

なにか、前世でとんでもなくひどい目にあったのだろうか。

というのは冗談だけれど、しかし私は泣き虫なだけでなく、感動したがりでもあるのだろう。

犬が死ぬ映画で得るような感動を、猫が歩く姿で得られるのだから(はたしてそれはお得なのか?)、ネガティブで考えすぎる性格も案外悪くないのかもしれない。

喜びも悲しみも怒りも拒絶も信頼も奇跡も絶望も、最後はすべて涙になって私の体から流れ出ていく。

あらゆる感情は水に回帰する、とでも言えば、私のうざったい性質を誤魔化せるだろうか。


こんな恥ずかしい話をしたわけは、先日漢方薬局に行った際、不調の原因は「体内に水が溜まってること」だと診断されて、あまりにも私らしい原因だと思ったからである。

腹診の最中、たしかにお腹の中から、まるで池を飼っているのかと思うほど涼しげな水の音が聞こえてきたのだ。

これまで止めどなく流れる涙に顔を濡らされながら、よくこんなに水が出てくるなと不思議だったのだけれど、ついに尽きせぬ水源が姿を現したかのようだった。

処方された粉は甘いシナモンの香りがして、飲むたびにまるで魔法のお薬みたいだと思いながら、ひょっとして泣き虫も治ったりしないかな、と淡い期待を抱いている。

しかし、さっきから泣き虫泣き虫と書くたびに、頭の中を蝉が飛んでいくのだが、あの耳をつんざくような鳴き声は一体いつから聞こえなくなったのだろう。

ちっとも夏を過ごした気がしないのに、もう終わって行くなんて、と去年の夏に思いを馳せれば、性懲りもなく、その輝かしさに目の奥がじんと熱くなってくるのだった。


高校生のとき、クラスメイトの男子と兄弟の話になり、私の姉に興味を持つ彼に「顔は全然似てないよ、父親が違うから」と言うと、彼はあからさまに気まずそうな顔をした。

驚いた私は弁明のつもりで「いやいやいや、兄も違うから!両親とも一緒なの私と弟だけだから!」と言ったのだが、場の空気はさらに凍りつき、彼は困ったように「もうやめて。悲しくなる」と言った。

このとき私が感じたのは、家庭の多様性に理解を示さない彼への怒りというよりも、目の前にいて、お互いに向き合って話をしているのに、彼にはまるで私のことが見えていない、という途方もない虚しさだった。


私はこの出来事をよく思い返す。

あの瞬間、彼と私はマジョリティとマイノリティで、普通と異端で、幸福と不幸で、強者と弱者で、男と女で、差別者と被差別者だったと言えよう。

けれども同時に思うのは、私が話をしていた相手は果たして、マジョリティや普通や幸福や強者や男や差別者だったのか、ということである。

これは考えれば考えるほど、どちらとも言い切れないように思えてくる。

なぜなら、悲しみという言葉が締め付けるような胸の痛みを代弁してはくれないように、言葉とは仮初のものであり、真実とイコールにはなり得ない性質を持っているからだ。

しかしその一方で、私たちは胸の痛みを誰かにわかってほしいとき、言葉を使うしか方法がない。

このようなジレンマの中で、私たちはどうやって相手のことを真に理解できるだろう。

むしろ、そんなことは不可能だと思った方が、よっぽど建設的なのではないだろうか。


私の家の猫は白く、その猫が上に乗って安らいでいる私の枕は薄茶色、シーツはすみれ色で、ふとんは群青色をしている。

部屋の中を見渡せばあらゆる色が目に止まるが、これは光の刺激を受けた私の脳が着色したものであり、猫も枕もシーツもふとんも本当の色など知りようがない。

このこととまったく同じように、私の目に映る彼彼女は、彼彼女から受け取った情報をもとに作り上げた脳内における幻なのだと私は考える。

すべてが私の想像力に委ねられているということなので、彼彼女はもれなく私の偏見や願望に晒されるだろう。

その上で私がやるべきは、想像力を養うための知識や教養を身につけ、そうして自分自身の偏見や願望に注意深くあることだ。

それは、自分の中に他人の居場所をつくることである。

クラスメイトの彼はそれを怠っていたから、私は彼との会話で孤独な思いをしたのではないか。

彼がマジョリティで普通で幸福で強者で男で差別者だったからではなく、ただ私という個人を受け入れるつもりが、彼にはなかっただけなのだ。

と、自分で結論付けておきながら、あまりにも悲しい真実にショックを受けている。

もはや、彼のことを最低最悪の差別野郎と思っていた方がよかったかもしれない。


さて、私がこんなことを書くのは、先月末にアメリカで起きた残忍な事件を受けて、多くの人が人種差別反対の声を上げているのを目にしたことが大きい。

被害者の彼のことを思うと心が痛み、彼らの苦しみをこの身をもって知ることはできなくても、黒い肌を持っているだけで殺されると考えればぞっとする。

しかしその恐怖は、黒い肌を持つということそれ自体よりも、警官による犯罪が許容されているというところに向けるべきなのではないだろうか、と思う。

この事件を人種差別という枠組みに押し込むことが、かえって問題解決への道筋を阻んでいるような気もするのだ。

ただし、この事件を含む今日の至るところで、未だ黒人差別が根強く残っていることはたしかである。

不条理な暴力とそれを許容する社会に抗議するために、そして目の前にいる彼彼女を不用意な言葉で傷つけないためには、より多くのことを知って、現代を生きる私たち全員に絡みついている過去のしがらみを解きほぐす必要がある。

別々の皮膚で覆われた私たちには痛みを分かつ術はなく、この頭の中でしか色を見ることができないのと同じように、この思考の中でしか、目の前の物事を捉えることはできないのだから。

↑このページのトップへ