恋をした。それはあまりにも速すぎて、いつからなのか覚えていないほどだ。

あるひとりの女性を激しく愛し、そして別れた。

彼女とは、別れた以降も色々あった。相手はとてもモテる女だった。恋人も複数いただろう。

その時の私にはそれが本当だとは思っていなかったのだと思うが、彼女は、彼女のありのまま全部を、私に話してくれた。

嘘をつくのが得意で、だけどすぐに見抜ける嘘で。見抜くと彼女はいつも「うまく嘘つけてたでしょ」と、悪びれながら私に告げた。

例えようのないほどに、熱烈に恋に落ちていた。恋をするのは初めてではない。激しく愛しあった女性もいた。だけど、そんな過去の全てが、プロローグだと思うほど、彼女に激しく溺れていた。

一緒には暮らしていなかったが、別れた後も、彼女は私の部屋の合鍵を持っていた。

泊まりに来るのは頻繁では無かったが、その合鍵は、私にとっては2人をつなぐ細い糸のような存在だった。合鍵を御守り代わりにしてるという彼女の言葉に、どこか安心をしていたんだと思う。

しかし、何度となく彼女との関係を修復しようとしていた私は、それが上手くいかないことに心がモヤモヤしていたのだろう。ある日、彼女に「もう、鍵は必要ないよね」と告げた。

その時の気持ちは、正直あまりよく覚えてはいない。なぜなら、その後の彼女の表情のことのほうが鮮烈に記憶に残っているからだ。

あっさりと鍵は返すものだと思っていた。しかし、実際はそうではなかった。

目に涙を浮かべる彼女。

小さな言い合いをしたと思う。その後、彼女が部屋を後にするときには、私の手には、彼女が御守り代わりにしていたそれが握られていた。

あの時、私はなぜあんなことを言ったのだろう。

自信がなかったんだと思う。駆け引きなんて苦手なのに、どこか駆け引きを仕掛けていたのかもしれない。

私は、彼女のことを精一杯考えて、自分にできることは何かと自問自答していた。だけど、それは彼女のことを考えていたんじゃない。きっと、彼女を自分のものにしたかっただけなんだ。

思いやりという名の偽善は、時として自愛をぼやかす。あの時の私は、きっとそんなまやかしも通用しなくなっていたのだろう。

結局は自分が可愛かったのだ。

その後、彼女は突然現れた新しい男と結婚した。彼女のことを一番知っていると思ってた私が、まったく知らない男とだ。一番知ってると思ってたのは、単なる自惚れだったのだ。

あれ以来、女性とベッドを共にするたび、自分がいま自分のためだけに、その温もりを求めていないかと不安になる。

今夜はひとりぼっちのベッドに眠る。ひとりの時は、そんな不安もいらない。それでも、美味しいご飯を作り、それを美味しいと笑顔で答え、寂しそうにハグをしてくる温もりは必要なのだろう。

慣れっこになったつもりでいても、ひとりの夜には、ふと記憶が胸を締め付ける。

今、パソコンにつないだHDDが、バックアップを終えた。回転が止まり、ふたたび小さな静寂がこの部屋に訪れる。

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昨晩、ふとつけたテレビの中で明石家さんま氏が、インタビューを受けていた。これまでもよく語っていたことだが、氏は落ち込むことがないらしい。

理由は自分を過信しないから。人はもっとできたはずと自分を過信するからこそ、後悔をするのだと氏は語る。

そう思えたら、楽なのだろう。しかし、それでも人は落ち込む。かくいう私も毎日、落ち込んでばかりだ。

さんま氏は、たびたび人の人生に影響を与えるような発言をする。自らの娘に、座右の銘である生きてるだけで丸儲けをつけたのは、有名なところだ。

人生の最高潮はいつなのかとの質問に「今日」と答えていた。毎日が昨日までの積み重ね。それまでの自分があるから今の自分がある。だから、今が最高潮の自分なのだと。

憧れる言葉だ。



私は明日が最高潮でありたいと願い生きている、いや生かされている。

後悔をしない人生を歩みたいとの言葉をよく聞く。死ぬ瞬間に、後悔をしないために、毎日の選択を最善のものにし、毎日ベストを尽くしたいと。

私は死ぬときに後悔する人生を送りたいと思っている。これはこれまでも何度も言ってきたことだ。向井秀徳氏で言うなら「繰り返される諸行無常 よみがえる性的衝動」並みに繰り返し言ってきた。

もし明日、欲しかった椅子が手に入るなら?
もし明日、ずっと会いたかった人に会えるなら?
もし明日、大好きなあの子とデートできるなら?

もっと小さいことでもいい。

もし明日、雨がやんで晴れるなら?
もし明日、雪が降りつもり真っ白な街が見れるなら?
もし明日、長く苦しんだ原稿を書き終えるなら?
もし明日、笑えるなら?

どんなことでもいいのだ。明日も生きていたい。そう思える人生を過ごしていたいのだ。

告白をして成功したら明日も生きたいだろう。
告白をして失敗したら明日は違う恋に生きたいだろう。
仕事で成功したら明日はハッピーな気持ちだろう。
仕事で失敗したら明日は挽回したいだろう。

後悔のない人生なんてまっぴらだ。死ぬときはあれもしたい、これもしたい、もっとしたいと叫びながら死にたい。死にたくないよと、煙草をくゆらせながら涙を流したい。それでいい。いや、それがいい。

そう考えると、さんま氏の言う「毎日が最高潮」は理想だ。

しかし、今日が人生の最高潮だと他人に言われてしまったらどうだろう?きっと絶望の淵に立たされると思う。あとは転がる石のように、ただ下っていくだけだからだ。

しかし、もし最高潮が明日なら、太陽が昇るのが待ち遠しい。

誰かに言われては絶望だが、自分で思うならハッピーだ。だから、あくまでも自分の胸で自分に打ちつければよいのだ。トントントンと。

私は今日が最高潮だとは思っていないが、少なくともさんま氏のように明日が今日より良い日だと、そう思える毎日でありたいと思っている。

毎日、最善の選択もしたいし、ベストを尽くしていたい。出来ない時ばかりだが、そうしていたい。そうして今日を終えなければ、明日を待ちわびることが出来ないからだ。



街は少しずつクリスマスムードに包まれている。幼き頃、良い子にしていればサンタクロースがプレゼントを届けてくれると言われた。毎日、良い子にしていれば、クリスマスがとても待ち遠しいのだ。

そして、クリスマスがやってくれば、翌年も良い子にし続けていることでプレゼントがやってくるのだ。成功体験とは、幼き頃に熟成されるのだろう。

しかし、いつからサンタクロースは私のところにやってこなくなったのだろうか。

あの時の気持ちは今も胸にある。もしかしたら、今年は来るかもしれない。もし、そうならばなんと最高なことか。良い子にしていよう、そう思える。

街角にはクリスマスツリー。雨は夜更け過ぎに雪へと変わる。

今夜も明日を待ちわびるように眠りたい。

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今日は土曜日。ここ最近は、土曜日になるとプツリと電池が切れたように身体が動かない。それでも僅かばかり溜め込んだ仕事をするのだが、休日というのがいかに大切なのか、フリーランスになってから切に思う。

LINE BLOGをはじめてから、数日が経った。珍しく途切れずに書いていたかと思えば、ここ2日ほど書かずにいた。

徐々に最初の頃にがんばって続けていた人たちも、三日坊主よろしくとばかり、書く手が止まってる。紙の日記と比較すると、ブログというものは書かずとも空白のページができることはない。

中学生の頃だろうか、日記を書こうと思い立ち、新聞配達のバイトで貯めたお金で日記を買った。確か最初に買ったのは2種類の日記だと思う。1年間書くタイプと、10年間書くタイプ。今も複数のブログを立ち上げていることを考えると、人間とは本当に変わらないものだ。

紙の日記を買い、正月から少しずつがんばって日記を買いていた私。記憶が定かではないが、10年タイプは未来の自分への手紙のようなもの。もう片方は、単なる日記とはちょっと違って物語のような物を書いていた気がする。

コンセプトを決めて、何かをするのが好きなこと。そして、書くことが好きなこと。本当に今のままだ。

そして、紙の日記は徐々に空白のページが続き、やがてほぼ真っ白が続く日記に嫌気がさし、書かないままにダンボールの片隅に追いやった。

ブログが良いのは、空白のページが続かないことだ。再び書けば、そこが前回からの続きになる。


毎日書くのが得意な人は、続かない人を揶揄する。

何でもいいのに、何で書かないのか?
自分で敷居を高くしているのではないか?
書かないと書けなくなるぞ!

正直、余計なお世話ではある。太宰の友人なら「いばるな」と言うだろう。

自分ができることが、他人にできないと、なぜ出来ないのかと人は言う。言われた側からすれば、何を上から物を申しているのかと思う。

これが仕事における上司であれば、同じ戦場にいて、かつやらなければならないことであるため、まだ理解はできる。しかし、そうであっても、人はそれぞれ違うのだ。

ましてや、誰でもない存在するかどうかも分からない他人を指して「なぜ続かないのか?」と言うのは、冷静に見ると、随分と自己顕示が強いと思ってしまう。

人は威張りたいのだ。

かくいう私もそうだ。自分が当たり前にできることを他人ができないと不思議に思い、なぜ出来ないのかと宣い、そして苛立ちもする。

出来ないのものは出来ない。出来ないままでも人は生きていける。

そして、出来るようになりたいと願い教えを請う人に、ほとんどの人が適切なアドバイスは出来ない。

アドバイスしているつもりでも、それはあくまでも自分ならば出来るというノウハウ。それが出来ないから、教えを請うているのだ。そして教えたにも関わらず、出来ない人に、また言うのだ「なぜ出来ないのか」と。

ブログなど続かないなら続かなくてもよい。出来ることを1つでも探し、毎日それを続けるほうがよほど人生では大切だ。

妻に愛してると手紙を毎日書くのは大変だろう。しかし、静かに抱きしめ、愛してると言うことは出来る。

友人に毎日どれほど大切な存在なのかを書き連ねていくのはこっぱずかしいだろう。でも、名前を呼びおはようと言うのは出来る。

毎日自分の大きな野望を手帳いっぱいに書くことは骨が折れる。今週末に何をしようと小さな野望を抱くことは出来る。

出来ないことを出来るようにするのではない。出来ることを出来るように続けていけばいいのだ。

なぜ出来ないのか?は愚問だ。何が出来るのかだ。

もし、出来ないことを叱責されたら心で「いばるな」と叫べばよい。いま、ふと遠いところから私宛に誰かの声が聞こえた気がする。

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