あんまり言ってこなかったかもしれないけど、僕ら世代の一部にとってそうであるように、僕にとって「とんねるず」は特別な存在だ。

『そろばんずく』は映画館に観にいったし、CDももちろん買っていた。夕ニャンも、生ダラも、みなさんはレギュラーになる前のスペシャル番組だった頃から観ていた。

あの都会的で、オシャレなのに爆笑してしまう笑いは、地方の僕にとって、東京の象徴のような存在。新たな時代を感じる、まさに憧れだった。

やっぱり最後も、安心なんてどこにもない、ヒヤヒヤする笑いがそこにあった。数百万するカメラをぶっ壊した、あの頃のまんま。ほんとに何も変わらない。とんねるずはとんねるずでしかない。

最低で、最高だ。

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文章を書くことを生業にして、どれほど時間が経っただろうか。
これまで30職種以上の仕事を経験してきた私にとって、一番長く続いてる職業になった。
 
これまでやってきた仕事の多くは、ある程度自分の中で達成感が得られるようになると、すぐに次の仕事への興味が湧き、気づけば転職の繰り返しだった。

多くは、会社なり集団なりに属している形であったのも一つの原因かもしれない。しかし、それを踏まえてみたとしても、これまでとは比べ物にならないくらい、今の仕事は全くもって飽きる様子がない。

どんだけ仕事が多忙を極めようか、どんだけ今日はもう書きたくないと、自分の中のガキんちょが駄々をこねようが、結局は何かしら文字を紡ぎ文章を書き続けている。

どうして、これほどまでに続くのか?

収入面においてしがみつきたいとか、そういった理由ではない。

まず言えるのは、今に至るまで、自分が書いた文章が本当によく出来たと思えたことが一度たりともないということだ。

正確にはそんな時期もあったかもしれない。あったとすれば、書き始めたばかりの頃だろう。今読み返すと、恥ずかしいくらいに、稚拙な文章のオンパレードだが、当時の自分には、それが個性であるとか、他にはない書き口だとか、そういった謎の自信があった。

個性は大事だ。しかし、それを踏まえても、あの頃の自分の文章は、読むに耐えない恥ずかしさがある。

文章を生業にして、これまでに様々な先輩や、編集者、そして仲間に出会ってきた。今となっては、自分も指導する側に回ることもあれば、編集を担うこともある。
一方で、今も様々な方に、自分の文章を見てもらう機会がある。そのおかげで、自分の文章がいかにまだまだであるかを感じることができていると思う。

そして仕事柄、多くの他人の書いた文章に触れる機会もある。昔とは違った視点でも読めるようになった。いや、むしろ読むようになったというほうが正しいだろう。
かつては、本を読むのが速い自信があったが、最近は読むのにかなり時間がかかるようになってしまった。

原因として考えられるのは、推敲や校正・校閲をする機会も増え、「てにはを」ひとつとっても、丁寧に読むようになってしまったことがあるのだろう。以前なら気づかなかったような、わずかな文章の深みにも目がいくようになった。

そうするとどうだろう。以前に増して、さらに自分の文章に納得がいかなくなっていく。時を重ねるたびに、自分の文が日々下手くそになっていってる感すらある。

スランプなのだろうか。

文に迷いが出るようになると、むしろ始めたばかりの頃の稚拙な文章の方がよっぽど勢いがあって読み応えがある。
文に迷いがないとしても、まるでどこかで借りてきたような文章が並んでいるようで、自分の文が駄文にしか見えなくなる。

こんな闘いを毎日繰り返しているが、それでも文章稼業を飽きることがない。

それは、自分自身が欲深い人間であるからだろう。

これまでの仕事は、ある程度慣れてくると違うところに欲が向く。言うならば転職プレイボーイだ。

ところが、文章稼業はどれだけ続けていても、いっこうに自分が上手くなっている実感がないため、毎日が「上手くなりたい」の繰り返しなのだ。私はただ、その「上手くなりたい」という欲求にすがり続けている。

自分にとって、師匠のような存在が数人いるが、どれだけ時間が経っても彼らを超えることができない。超えるどころか、むしろ引き離されている感すらある。

上手くなりたい。上手くなりたい。

私はただ、欲深き人間なのだ。

だから、この欲が満たされるまで、書くことはやめないだろう。もし満たされる時が来るとしたら、その時は最高にうまい、あのカツカレーを食べに行きたい。
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現在はライター業をメインにしてる自分だが、ふとこれまでの人生を振り返ると、いわゆる受注生産の現場に居たことが多い。

例えば印刷の営業の仕事。これも顧客の受注があって初めて仕事になる。ライター業も、半分くらいの人は、この手の仕事に属していると思われる。

受注生産の現場では「学ぶ」ということに対して、大きく分けて2タイプの人間がいる。

一方は自ら学ぶタイプで、もう一方は必要が無ければ学ばないタイプだ。

どちらのタイプであっても、顧客の発注が無ければ仕事にはならない。また、顧客の意向に出来るだけ沿った形で納品することも変わりはない。

この手の仕事に就いたことが無い人にはイメージが湧きづらい話かもしれないが、例えばスーパーの現場において、レジ打ちの仕事も同じ仕組みだ。

レジ打ちは、顧客がカゴに商品を詰めてレジに来ることで、自分の仕事が成立する。正確な商品の打ち込み(とは言っても、今はバーコードで読み込むだけだが……)、正しい値引きの処理、カゴに移し替える際の適切な配置、正確な会計など。そのどの業務も、顧客が来て初めて成立する。

店内にいる顧客に突然「レジ打ちいかがですか?今ならすぐ会計できますよ!」と言って回るのは、中々想像できないだろう。

スーパーのレジ打ちにおいても、先ほど説明した「学ぶ」において、2種類のタイプがいる。

レジ打ちなんて、来た顧客を淡々とこなすだけでは?と考える人は、おそらく必要が無ければ学ばないタイプだ。他の仕事であっても、同様の考えになるだろう。

しかし、スーパーのレジ打ちも、自ら学びにいくべきことは山ほどある。

その日の特売品が何であるかにはじまり、カゴに入れる際はどの順番で入れるのが良いのか、商品が店内のどこに置かれているか、新商品と廃盤商品の把握、より効率の良いレジ打ちの仕方、他店のレジシステムなど……挙げるとキリがない。そのどれもが、わずかなことのようで、業務を円滑にする。

しかしそうは言っても、スーパーのレジ打ちは、自ら学びに行かなくても、仕事としては成立する。そう、成立するのだ。

ここが問題なのだ。

自ら学ばないタイプの人間は、仕事が来てしまえば、それを請けて最低限をこなして納品する。一見、とても効率の良いように思えるが、そのタイプは来た仕事以上のことを学べない。やがて、学べることが頭打ちになる。

一方、自ら学ぶタイプの人間は、来た仕事の中で新たな学びを得ようとするだけでなく、それに関連する新たな情報や知識も事前に学ぶため、今来ている仕事以外にも新たな仕事が得られやすい。

人間の能力は、平行線をキープするのは難しい。

特にテクノロジーが発達した現代では、自分が持つ情報や技術は、明日には使い物にならないこともある。そのため、学ばない人間は、なだらかな下降線を描いていく。平行線をキープしているつもりでも、そうではないのだ。

パソコンに拒否反応を示し、自ら学ばなかった、一部のステレオタイプを例に挙げれば、わかりやすいだろうか。

話があっちにいったり、こっちにいったりでわかりづらくなってしまったが、もう少し脱線しよう。

営業の仕事では、遥か昔から、これからの時代は丁稚タイプではなく、提案型の攻めの営業が必要だと言われてきた。

来た仕事を淡々とこなすのではなく、自ら新しい商材を顧客に提案し、新たな需要を喚起することが、大事といった意味合いだ。

ライター業も似たようなものだ。

例えばラーメンの専門ライターだとして、新店舗に足を運ぶだけでなく、例えば製麺の仕組みや、小麦をはじめとした材料について、ラーメン以外の食はもちろん、ラーメン屋の経営について、飲食業界全体について、ちょっと飛び出すとラーメン店でよく見かける券売機など、自ら学びに行くべきものは多くある。

これをやらないタイプのライターは、食べログのレビュワーよりもある意味価値が低い。

そして、これらをやっていれば、その他の食の仕事以外にも、経営・一次産業・機械工業など、新たなジャンルでの執筆の機会も得られる可能性がある。

さて、話を戻そう。

いや、その必要は無いか。もし自ら学ぶタイプの人なら、言われなくても分かっていることばかりだし、必要無ければ学ばないタイプの人は、最後まで読まず離脱しているだろうから。

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