人間の心や、感情の原点は過去にしかないのかもしれない。

だから僕らは、向かっていく未来のために過去を捨てるのは難しい。

僕の友達のHは泣きながら言った。
「人より過去が鮮明に映るだけで、どうしてこんなに辛い思いをしないといけないんだ」
けど僕は思う。
Hの目が本当に、過去の真実や事実を見つめているんだろうか。

未来の選択によって、過去は少しずつ変化していく。
Hは楽しかった思い出も、暇をつぶしていた授業中の教室も、友達と過ごした沢山の時間も、悲しみで塗りつぶしてしまった。
Hは自分が過ごしていた学生時代のほとんどを自分の思い通りに生きていた。自由な男だった。僕はよく、彼の家の前で彼が自宅を出る準備を終えるのを待っていたものだった。そんな彼がある日、いじめの標的になった。学生時代の何年かの中で、彼が実際にいじめを受けたのは数ヶ月。それでも彼は、その時代から10年経った今でも
「俺はまたいじめられるのが怖いんだ」と言って泣いた。
幸福な思い出も何もかも、彼は悲しみで塗りつぶしてしまった。

幸福な思い出は忘れたくない。記憶の引き出しを何度も自分から開けては、忘れてたまるかと努める。
不幸な思い出は忘れられない。引き出しは勝手に開いていて、何度閉じてもまた開いている。
だから、悲しい思い出は時間を経るごとに力を増し、幸福な思い出を塗りつぶしていく。

幸福な思い出が白で、
不幸な思い出が黒だとしたら、
人の心は混ざり合って灰色なんだろう。
黒が強めの灰色。

そんなHは、この世界で生きていくためにあることをした。生き抜くためにある解決策を取った。

Hは、恋をした。
それもかつての同級生に。

かつての同級生のNさんは彼にこう言った。
「あの頃、実は君のことが気になっていたの」
彼はそのことを嬉しがった。過去の記憶の中にいたNの存在や表情は、その瞬間に彼の中で形を変えた。息苦しかった教室、悲しみで塗り固めた屈辱の過去たちは、その瞬間に素敵な場所へと姿を変えた。そして彼はNに伝えた。
「俺も君が好きだったんだよ」

彼らは過去を飛行した。
過去を飛行することによって過去の自分たちを訂正し合った。それはひと時、彼らに幸福と尊厳の回復をもたらした。


だけど結論から言えば、
彼らの恋は上手くはいかなかった。

彼らは互いに相手の中に過去の自分を見つけ、過去の自分たちを訂正し合った。
でも目の前にいる相手の頬に触れ、その肉感を確かめ、匂いを嗅ぐと、その瞬間に現実を認識せずにはいられなかった。過去ではなく現在を。
今、目の前にいる相手、そして自分自身はもうあの頃とは違う人なんだ。いくら過去の自分や思い出を訂正したところで、僕らが生きているのはやっぱり現在で。相手の頬の肉感も香りも、それは過去のためにあるのではない。懐かしんだり思い出したりするためにあるのではない。今この瞬間を認識するんだ。相手に触れた、その瞬間に。

だから彼らの恋が上手くいくために必要だったのは、過去の思い出を飛行する時間ではなく、今この瞬間に目の前で生きている相手、そして今この瞬間を生きている自分自身を愛してあげる、そんな時間だったんだ。

灰色の心を持った人間にとって、
今を生きるのは一番難しいことだと思う。

今この瞬間を大事に生きるのは、本当に難しい。
失われた愛は二度と元には戻らないし、亡くなった祖母のご飯は二度と食べられない。
僕らは精一杯働かなくてはならないし、精一杯恋をして、沢山美味しいご飯を食べて生きていかなければならない。
もし過去の記憶に囚われて生きていくならば、この世界で生きていくのは難しい。

じゃあそういう人はどうやって生きていけば良いんだ?

僕は俳優をやっている。

過去を飛行しながら、今を生きている。

そんな具合だ。

もうすぐ開演する「密やかな結晶」の稽古場で、そんなことを考えていた。

今この瞬間の手のぬくもりではなく、あの頃の手のぬくもりを思い出していた。


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