本はけっこう好き。でもたくさんの量を読むわけじゃないからあまり「本が好きです」とは言わない。でも同じ本を何度も読む。中学生の頃、夏目漱石の『こころ』に出会った。授業で教えてもらったのだ。学校の授業のことはほとんど忘れてしまったけど、『こころ』の授業のことはよく覚えているし、教えてくれた女の先生のことも覚えている。当時の僕は反抗期の真っ最中で、親や大人や、とにかく大人という存在に対して反抗ばかりしていた。
「あれをしてはいけません」
「なんでですか」
「これをしてはいけません」
「なんでですか」
聞き返すだけならまだしも、やるなと言われたことを実際にやってしまうからタチが悪い。『こころ』を教えてくれた先生にも毎日のように反抗していた。ある日の放課後、僕は担任の先生に呼び出された。呼ばれた場所に行くと、そこには僕の母親と、その女の先生がいた。授業中に僕が放った心ない一言に大変傷ついたというのだ。僕はその時になって初めてその先生がそこまで傷ついていたのだということを知って後悔した。しかし、なんで担任の先生や母親をいちいち連れて来るんだ、言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃないかとも思って、謝りはしたのだがその後この先生との関係はギクシャクしたままになってしまった。
あれから10年以上が経ったけれど、その先生が今どこで何をしているのかも知らない。ただ、あなたに教えてもらった『こころ』のことをずっと覚えてます。このブログを読んでるはずもないけれど、そう伝えることが出来たらなあ。

19歳の時に上京して役者を始めた僕は、その膨大な時間を持て余していた。とにかく時間だけが無限に存在していた。時間というやつは予定が入ってる人だけが感じられるもので、予定が無い人に時間という概念はない。
そして小学校や中学校の教科書に載っていた文学を再び手に取るようになった。古本は安く手に入る。宮沢賢治の『よだかの星』や梶井基次郎の『檸檬』に出会ったのもこの時期である。いつか宮沢賢治が書いた台詞を大声で叫びたい、そんな漠然とした想いはこの頃からあった。

「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れて行ってください。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくい身体でも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れて行ってください」

26歳になって、最近の僕には予定がある。だから時間もどんどん進んでいく。たくさんの作品や人と深く関わる中で、自分は何がしたいんだろうとか、自分には何が出来るんだろうとかそんなことをよく考えるようになった。
東京ランドマーク、中村屋酒店の兄弟、のさりの島、すじぼり、his、鼓動。
上半期は本当に燃え尽きるまで演技させていただいた。そして本当に人と深く関わって、再会を約束して別れた。そしてまた一人になった。出会った作品や皆を振り返ってみたら、皆が信じてくれる藤原季節がちょっとだけ立派に思えた。こんなに全力で人と関わったの初めてだった。でも、俺が信じる藤原季節はなんだろう。そんな訳もわからないことも考えた。自分は自分とどう関わることが出来るんだろう。スクリーンの中の自分ではなく、自分自身。
監察医朝顔で出会ったスターの人たちは本当にカッコよかった。皆が自分自身の力を信じて表舞台に立っているように見えた。だって信じてないとあのステージに立つことは出来ないから。朝顔の放送期間中、本当にたくさんの災害や事件が日本を襲った。朝顔はまるでリアルタイムでその内容を日本中に届ける決断をして放送されたテレビドラマだった。僕はそのことにけっこう衝撃を受けて、テレビの力を改めて知ったし、そのプレッシャーの中で真ん中に立つキャストやスタッフを尊敬した。この人たちのレベルにいくには自分はまだまだだと痛感した。それでも自分にしか出来ないことを見つけたかった。誰かに届けたいという気持ちと、それから自分自身ともっと関わりたいという気持ち

ある夜、僕は三鷹の駅前でサックスを吹く青年を見つけた。会社帰りの人たちなどが行き交う夜の駅前、そのサックスの音色は綺麗で、僕は近くに腰掛けてその風景をしばらく眺めていた。すると少し離れたところに、買い物を終えた1人のおばあちゃんが座っていた。そのおばあちゃんは静かに無表情でそのサックスを聴いていたのだが、その表情に僕の心を打つものがあった。少し寂しそうにも見えるそのおばあちゃんにはどんな人生があったのだろう。サックスの音色を聴きながら何を想っているのだろう。あるいは何も考えていないかもしれない。僕は青年の音楽が羨ましかった。自分と関わることで、知らず知らず誰かの人生に関わっていることに深い感動を覚えた。もし自分に楽器を演奏することが出来たら、すぐにでも街に立つだろう。でも僕は楽器を演奏することが出来ないし、それに音楽をやりたいともあんまり思わない。

夏休みに一週間、札幌の実家に帰った。僕の母親はちょうど働いていた職場を辞め、次の職場に行くまで長めのお休みの最中だった。僕の母親はほんとうに働き者だ。家にいる時も、夜の晩酌の時間まで殆ど座ろうとしない。ご飯の支度やら洗濯やら掃除やらずっと何かをしている。「母さんも座りなよ」とか「母さんも食べなよ」っていつも言ってる。そんな母親も、妹が就職してひとり立ちして、それから長いお休みを突然もらったものだから、ついに暇になった。僕は母さんが昼寝している姿を初めて見た気がする。これまでにも見たことはあるのかもしれないが、あんまり記憶にない。記憶にあるのは「ただいま」って学校から帰ってくると、正座して洗濯物を畳みながら「おかえり」という姿。「母さんも昼寝するんだね」と僕が嬉しそうに言うと、笑って「頑張って昼寝してるのさ」と言った。僕は頑張って昼寝をする母親の姿を見て、もっとたくさんの楽しみを与えられるように東京で頑張ろうと思った。
それから札幌に帰った時に、もう一つ印象的なことがあった。友人の子どもに会いにいったのだ。友人のこどもはすでに小学生で、僕は子どもと遊ぶのが好きだからたくさん遊んだ。でもその中で、子どもとの間に共通言語が少なくなってきてるのを感じた。僕はiPhoneを持ってないから、携帯ゲームとかをやったことがない。初体験の携帯ゲームはめっちゃ面白くて、親指のタップだけで記録を競えるシンプルなものだった。そのゲームでひたすら勝負をしながら試しに「ねえ漫画とか読まないの?」と聞いてみたら「持ってないから読まない」と言っていた。そのかわり「ねえスタンプ70個以上持ってるの!見る?」とスタンプをたくさん見せてくれた。僕はそのたくさんのスタンプを眺めながら、このスタンプや親指一つで出来るゲームの記憶はこの子の中にどれだけ残るんだろうと思った。これらはこの子の原体験になり得るだろうか。いやそれともこのスタンプは僕らがシールやカードを必死に集めていたのと同じなのかもしれない。この子が大人になったとき、将来の道を選ばなきゃいけなくなったとき、僕はきちんとアドバイスしてあげることが出来るだろうか。「好きなことを探せ」「夢を見つけろ」今の子たちが大人になった時にそんなアドバイスをするのはなんだか酷なように思えた。

東京に戻った僕は、文学の朗読を始めようと思った。それが僕が唯一出来る会話だと思った。僕と関わってくれる皆との会話、そして自分自身との会話。吹けないサックスのかわりに本を読むのだ。それらの物語はきっと何かしらの力になってくれる。僕の力になってくれたように。昔を振り返って切なくなったり未来を夢見て胸が高鳴ったり。そしてその客席の中に、三鷹の駅前でサックスを聴いていたおばあちゃんの姿や友人の子どもの姿を重ねるのだ。それは僕にとって素晴らしいことのように思えた。だから今回は道端や公園でもたくさんの人に声をかけてチラシを配った。たくさんの老夫婦や子どもたちや若者とも知り合いになって、とても楽しかった。路上で僕らの歌や話を聞いている人たちのあの表情に出会うことが出来ただけでも幸せだった。

いつかは地方にも行って日本中でたくさんの人たちと関われたらと思っている。もしかしたらいつかはその客席の中に、僕に『こころ』を教えてくれた先生の姿があるかもしれない。そんな奇跡、あるはずもないけど、今は少しだけ希望を感じてしまう自分がいるのだ。

そしてこの公演が終わったら僕はまた映画の撮影に入り、絶望に立ち返る。そういうやり方ならこの長い人生を生きてゆけるかもしれないと思った。


藤原季節
『秋の朗読』初開催

◎日時
9月23日(月)秋分の日
14:00~
17:00~

◎場所
プーク人形劇場(新宿)

◎作品
宮沢賢治「よだかの星」
梶井基次郎「檸檬」

◎出演
藤原季節
義山真司
丸山北斗(音楽)

◎自由席
一般1500円
高校生以下500円
シニア(60歳以上)500円
https://www.quartet-online.net/ticket/akinorodoku

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