街を歩くのに勇気はいらないが、立ち止まるのには勇気がいる。立ち止まると言うのはその街を知ろうとすることだし、また街に私のことを知られるということでもある。私は少しの勇気を持って立ち止まってみた。突然立ち止まった私に驚いた人が私を見たために目が合った。街が私を知ろうとしてきたのだ。私はわずかに怯えを感じたが、それでも街を知るために周囲をゆっくり見渡した。すると目の前に、花屋が現れた。その花屋の出現は、モヤモヤした視界が晴れるような、また急に呼吸がしやすくなるような、つまり私が今までいた世界は靄がかかって息苦しかったんだと教えてくれるような、明瞭なものであった。
 新芽が出るこの季節に並ぶ花たちは、色とりどりで美しく私の心を明るくさせた。どれか一つ買って帰ろう、そう思って店先で花を眺めてみた。しかし、どうしても花を選ぶことが出来ない。その花を実際に手に取ろうとすると、私の手はとたんに重くなり動いてくれないのだ。どうしたことだろう、少し前までは沢山の花を買ってあんなに色彩を愛していたはずなのに。その色彩は急に胡散臭い誠実さを私に与え、嘘のような情熱を売りつけてくる気がした。好きや愛情はすぐ憎しみに裏返る。かつて私を愛してくれた人々もそうして私から離れていったのだから仕方ない。
 そして私はその色とりどりの花の中に、押しつぶされるようにひっそりと小さく咲く、白いかすみ草を見つけた。心がコトリと音を立てて鳴った。私はその健気な花を300円で買って、街を歩き始めた。
 私の手元でかすみ草が揺れている。歩いたことのない道を歩いてみたかった。右に曲がったのか左に曲がったのか、とにかく私は好きな道を見つけると吸い込まれるように歩き続けた。この街の路地裏は風が強く吹く。その度に私はこのかすみ草の小さな花が風に吹かれて飛んでいってしまうのではないかと不安になり、まるで赤ん坊を抱くようにかすみ草をかかえて歩いていた。
 私は自分のことを、生まれ育った故郷のような広い道路や大きな空が好きな人間だと思っていた。しかし今私の心を惹きつけるのはこの狭い路地裏なのだ。そしてその路地裏から見上げる電線の交差の奥にある青い空の慎ましさ。私はかすみ草をそれらの景観と重ねたりしながら路地を歩き続けた。
 そしてその公園を見つけたのだ。その公園の入り口には木々が立っており、その奥に野原が広がっていた。その野原には多くの人がいて、それぞれが思い思いの過ごし方をしているのが木々の隙間から見えた。私はなぜか胸がつかれるような思いで、その木々の間をゆっくりと進んでいった。野原が近づいてくるたび、私は木々の間から見えるこの景色がまるで自分の回想であるかのような錯覚に襲われた。そして私は野原の真ん中を通る一本の長い道に出た。その道を一歩ずつ進んでいく私の周りを、街の人々が生きていた。私はかつてあの子どものように走り回り、あの恋人たちのように腕を組み、あの家族のように笑い合った。歳を取った私がこの世を去るときに、神様が最後の若かりし時間をくれたのかもしれない。その姿が今の私で、街の人々は私の走馬灯。そして私の手元にはかすみ草が揺れている。
 私は今日、この街と知り合いになった。
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2019.12.26
hisの中で好きな台詞がある。
このシーンはhisを試写で観た人からも最も感想が多い。迅が自分がゲイであることを白川町の人たちに話すシーンだ。その台詞は書いちゃいけないのかもしれないけど、世界を敵のように決めつけて自分が心を閉ざすのではなく、自分から心を開いてみるべきだったと迅は話す。
誰かに好きになって欲しかったら、まず自分がその人を好きにならないと。
これは僕自身、演出家の加藤拓也にも言われて大切にしてること。『貴方なら生き残れるわ』という高校バスケの舞台をやった時、キャストは男性だけが30人以上がいた。高校生たちの話で、新入生役のキャストたちは稽古が始まって少し経ってから合流することになっていた。先に稽古に入っていたメンバーはバスケの練習も何度もしていたからすでに打ち解けあっていた。その新入生を迎えたとき、やっぱりそこに少しの溝が生まれた感覚があった。新入生役のキャストは試合のシーンもないのでバスケの練習に参加する必要もなく、一緒に過ごす時間も減っていった。俺たちは「あんまり馴染んでこないよね」なんてことを言っていたら、加藤拓也に怒られた。「自分が相手を好きになってないのに、好きになってもらえるわけない」そう言われた。「好きになって欲しかったら自分から好きにならな」

誰かを好きになるって難しいことだと思うし、でも大切なことだと思う。人を好きになるためにはまず自分の心が人を好きになれる状態でないといけないし、相手の素敵さを発見できる状態でないといけない。そのヒントはやっぱりスマホの中には無くて、自分の目で見て感じていないといけない。一目惚れされる時というのは自分が一目惚れしている時なんだと思う。

誰かに愛されたいと思ったら、まず自分が愛を持たないと。自分の作品を愛してほしいと思うならまず自分がその作品を愛さないと。

自分が作品に立ち向かう時、どれだけその作品を愛していられるかは僕にとって結構大切なことだった。2019年は多くの作品に関わらせていただいたけど、物語の中心になる人物を演じる機会をやっと得ることが出来て、そのとき作品に対する愛をどれだけブレずに持っていられたかが自分を支えたと思う。作品に恵まれた。やっぱり心が折れそうなときはあったから。

2019年に撮ってきた作品は1月から早速公開が始まる。1月のスケジュールを書いておく。
1月18日から二週間、池袋のシネマロサで始まる主演映画『鼓動』。品田誠監督作。シネマロサではhisと同時上映ということになる。シネマロサで皆に会えるチャンスがこの時期たくさんある。走り回る忙しい1月になりそう。鼓動のことも改めてブログに書こう。平成の終わりに撮った俳優としての始まりの映画、ずっと大切にしたい映画。
鼓動初日の1月18日の夜にもイベントがある。新文芸坐『すじぼり』オールナイト。1話〜8話まで、原作すじぼり完結まで一気に見れるというクレイジーな企画。ハロウィンの夜に小林勇貴とのトークショーですじぼりチームの人たちに頼み込んだら本当に実現してしまった。同世代の俳優もすじぼりオールナイトを知って、これは行きたいと言ってくれた。きっと皆すじぼりを1話からチマチマ観る心待ちになれなくてオールナイトを待っていたんだよね、そうだよね、一気に観たいんだよね。それは・・・楽しみだねええ🤣🤣🤣
そういえば1月18日は誕生日だ。新しい一年の幕を開けられるように、鼓動とすじぼりで誕生日を迎えたい。デカくて鋭い鼓動とすじぼりで。
1月21日、22日は春の朗読。
これは自主企画でやってる舞台で、前回の秋の朗読の好評や反省もあって、ずっと次回を狙っていたんだけど、この忙しいタイミングであえて朗読をやりたいと思った。なぜこのタイミングにあえて朗読をやろうと思ったのか、そして冬に春の朗読をやるのかはまた改めてブログに詳しく書こうと思う。
翌日の23日からは舞台『誰にも知られず死ぬ朝』の稽古が始まる。加藤拓也作、演出。
そして1月24日からは『his』の劇場公開が始まる。

なんで朗読をやってるのかと言えば、前回のブログにも詳しく記したけど、まず単純に僕の憧れがある。宮沢賢治を大声で読んだら気持ちいいだろうなぁというピュアな憧れ。そのピュアな気持ちに呼応した仲間が今回は7人も集まってくれた。濃ゆいメンバーが集まったので賑やかになりそう。このことはまたブログに書こうと思う。朗読だからといって堅いものではないし、みんなの楽しみになるような公演にしたいので、いっぱい遊べたらなと思うし、自分が宮沢賢治やシェイクスピアの作品に対してどれだけ愛や責任を持てるかは本当に勝負だと思ってる。勝つか負けるか楽しみ。
来年は朗読できるかわからないし、朗読をやるときはロビーで皆と話せるので自分にとってナイスなチャンスだと思ってる。本当はhisが公開した後に直接感想聞きたかったけど、ぜひ観る前に会いにきて話したいです。

2019.12.28
物語が消滅していく時代に違和感を覚えている。自分の中からも物語が消滅しかけていたことに気づいた。その逃げ場として春の朗読をやろうとしていたがそれは間違いだった。物語を失うと想像力を失っていく。想像力を失うと人に優しくすることが出来なくなる。ご飯の味もしなくなる。お米がたくさん食べられることも当たり前だし欲しいものがなんでも手に入るのも当たり前になり、頭が真っ白になるような喜びも愛情も、胸が痛くなるような怒りも哀しみも感じられなくなっていく。それが物語を失っていくということだと俺は本気で思っている。俺は意志が弱いから、同世代の作家や監督や俳優たちよりも強くないから、こういうことを時々文字にしないと心が折れそうになる。

2019.12.30
誰かのために。そういう気持ちでいるとプレッシャーに押しつぶされそうになって、自分はなんで朗読をやりたかったんだっけって悩んだ。すごいことがやりたい見たことない景色を表現したい目立ちたい、そんな気持ちだけでいると途端に想像力が止まってしまって、何もできなくなってしまった。12月29日の稽古納めの前日も、明日どうすればいいんだろう、なにも演出思いつかないし、どうしようって真っ暗な部屋でロウソクの炎眺めてた。それで自分が子どもの頃から好きだった映画見たりしてみて「稽古をやめよう」と思った。自分が自分の利益とか、したいやりたいそんなことのために稽古をしても自分の心は何も動いてくれないんだと知った。もっと皆を信じてみよう、みんなの話を聞いてみよう、みんなの心に触れてみよう、そんな稽古にしたいと思って、関係ない本とか稽古場にばらまいて、たまたま拾った本の一行だけをメモしてそれで物語を作るっていうゲームをしたり、自分たちが好きな物語を紹介したり、くじ引きで当たったメンバー同士で写真撮ったりした。
本当に素敵なメンバーが集まったなと感動した。自分が朗読でやりたいことが少しわかった気がする。自分は物語を持っていられる俳優になりたい。やっぱり俳優でいたい。その気持ちが誰よりも負けてない。誰かのためにとか、周囲の期待とか、そんなことのためじゃなくて、自分が何に感動して何を見て何を伝えたいのか、それを丸裸の心で表現できる場所を手に入れたかったんだ。俳優として自分の身体で自分の声で空間を埋めたかったんだ。苦しんで苦しんで、そのことがわかった瞬間、心が晴れた。
ブログ書かなきゃ書かなきゃって思ってずーっと書けずにいて、なのに心が晴れた瞬間、言葉が止まらなくなった。自分が好きだった映画が、映画の台詞が蘇ってくる。
みんな年の瀬の夜をどう過ごしてるんだろう。強く生きてる。「ガキはガキなりに、考えて生きてんだよ」
考えて生きてるんだな。孤独で切ない年の瀬の夜を、それぞれの夜を越えていくんだな。

2019.12.31
夢から目覚める。夢の中は学校の教室で、クラスは文化祭かなんかで盛り上がっていた。みんながゾンビの仮装をしていた。俺はその空気に何となく馴染めずにいる。でもクラスの人は俺のことをどうやら好いてくれているようで、向こうは俺のことを知っているのに、俺は知らない。もう高3なのに、クラスの人や廊下にいる人は知らない人ばかり。
俺はある喧嘩に巻き込まれてしまって、相手に手を出してしまう。それから、その責任を追及されて廊下の端で不良たちに詰め寄られてしまう。首元に小刀のようなものを突きつけられて謝れと言われる。俺は恐ろしくなって謝る。でもそのあと、本当にこれでいいのかと思う。後にどうなってもどんな怖い目にあっても、ここでナメられたままでいいのかと思う。そして階段を降りようとするその不良の背中にドロップキックをかます。殺してしまったかもしれない、そう恐れながら俺は階段を駆け下りて学校の外へ向かう。そこで目が覚める。

ブログを書かなきゃって思ってこうして25日あたりから文字を書いていたけど全くしっくりこなくて、結局その経過もまるごと載せてみることにした。自分の迷走ぶりがけっこうわかる。その文章を誰かに読んでもらうために書いた文章が次第に自分の書きたい文章に変わっていってる。自分の中で裏と表が重なっていって、バラけそうだった藤原季節がまとまっていって、12月31日を迎えることが出来た。俺は裏と表がたまにバラけそうになってしまう。自分という人間が何者か見失いそうになる。バラけない人もいる、そういう人はスターだ。このまえ松田翔太さんに言われた。「日本中友達にしちゃえばいいんだよ、友達なんてコロコロ変わらないだろ?」自分もそうなれるようにギリギリまで食らいついている。
今朝見た夢はなんだったのかわからないけれど、そんなに嫌な気持ちはしない。きっと今の自分、そしてこれからの自分を表してるんだと思う。この夢の話は、文章だけ見ると怖い話だけど、実際は夢の中にも少しだけ登場人物がいる。俺が逃亡するときに助けてくれたやつ、クラスの中で俺を好きになってくれたやつ、担任の先生や憧れの人。昔から夢に出てくる人は好きになりやすい性格だけど、だからその人たちの登場もあって、目が覚めたときは清々しかった。ドロップキックなんて夢の中でしか出来ないしね笑
来年は確実に激動の一年になる。それは自分にとっても、日本にとっても。想像もつかないことが一年後には確実に起きてる。自分にとっても、日本にとっても。価値観も急速に変わってゆく。hisを経て、ジェンダーの問題に関わらず、今の日本で急速に変わっていく価値観を見つめたし、理解できないことや古い価値観に傷つき、苦しんだ。その激流の2020年の中でいかに自分を見失わずにいられるか、それは物語を持っていられるかどうかだ。伝えたいことがあるかどうか。忙しさは物語を消滅させてしまう。身を粉にして役を演じるということは誰かの物語に没入してゆくこと。そうすることで自分は磨耗し空っぽになってゆく。でもそこで本当に大切なものを守り続けてゆけるか、そうじゃないと本当に演じたい役に辿り着くことは出来ない。消耗して、消えてゆく。
12月25日のクリスマス。主演映画の撮影で仕事納めをしたとき、全て失うと思った。信頼も、尊厳も。東京に戻って、何をすればいいのか絶対わからなくなると思った。怖くて怖くて涙が止まらなかった。一つの作品に本気で関わるってそれぐらい怖いことだと知った。
何も特技がない足も速くなかった自分。何もかもが満たされていて欲しいものが手に入るこの時代に、頭が真っ白になるような喜びや哀しみをどう味わってゆくのか。俺たちはゾンビじゃない。自分にだってできること、生まれ落ちた理由があるはずだ。ずっと、ずっと考える。くだらないと言われても考える。

2020年はその答えが少しだけ出るはずだ


藤原季節
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本はけっこう好き。でもたくさんの量を読むわけじゃないからあまり「本が好きです」とは言わない。でも同じ本を何度も読む。中学生の頃、夏目漱石の『こころ』に出会った。授業で教えてもらったのだ。学校の授業のことはほとんど忘れてしまったけど、『こころ』の授業のことはよく覚えているし、教えてくれた女の先生のことも覚えている。当時の僕は反抗期の真っ最中で、親や大人や、とにかく大人という存在に対して反抗ばかりしていた。
「あれをしてはいけません」
「なんでですか」
「これをしてはいけません」
「なんでですか」
聞き返すだけならまだしも、やるなと言われたことを実際にやってしまうからタチが悪い。『こころ』を教えてくれた先生にも毎日のように反抗していた。ある日の放課後、僕は担任の先生に呼び出された。呼ばれた場所に行くと、そこには僕の母親と、その女の先生がいた。授業中に僕が放った心ない一言に大変傷ついたというのだ。僕はその時になって初めてその先生がそこまで傷ついていたのだということを知って後悔した。しかし、なんで担任の先生や母親をいちいち連れて来るんだ、言いたいことがあるなら直接言えばいいじゃないかとも思って、謝りはしたのだがその後この先生との関係はギクシャクしたままになってしまった。
あれから10年以上が経ったけれど、その先生が今どこで何をしているのかも知らない。ただ、あなたに教えてもらった『こころ』のことをずっと覚えてます。このブログを読んでるはずもないけれど、そう伝えることが出来たらなあ。

19歳の時に上京して役者を始めた僕は、その膨大な時間を持て余していた。とにかく時間だけが無限に存在していた。時間というやつは予定が入ってる人だけが感じられるもので、予定が無い人に時間という概念はない。
そして小学校や中学校の教科書に載っていた文学を再び手に取るようになった。古本は安く手に入る。宮沢賢治の『よだかの星』や梶井基次郎の『檸檬』に出会ったのもこの時期である。いつか宮沢賢治が書いた台詞を大声で叫びたい、そんな漠然とした想いはこの頃からあった。

「お日さん、お日さん。どうぞ私をあなたの所へ連れて行ってください。灼けて死んでもかまいません。私のようなみにくい身体でも灼けるときには小さなひかりを出すでしょう。どうか私を連れて行ってください」

26歳になって、最近の僕には予定がある。だから時間もどんどん進んでいく。たくさんの作品や人と深く関わる中で、自分は何がしたいんだろうとか、自分には何が出来るんだろうとかそんなことをよく考えるようになった。
東京ランドマーク、中村屋酒店の兄弟、のさりの島、すじぼり、his、鼓動。
上半期は本当に燃え尽きるまで演技させていただいた。そして本当に人と深く関わって、再会を約束して別れた。そしてまた一人になった。出会った作品や皆を振り返ってみたら、皆が信じてくれる藤原季節がちょっとだけ立派に思えた。こんなに全力で人と関わったの初めてだった。でも、俺が信じる藤原季節はなんだろう。そんな訳もわからないことも考えた。自分は自分とどう関わることが出来るんだろう。スクリーンの中の自分ではなく、自分自身。
監察医朝顔で出会ったスターの人たちは本当にカッコよかった。皆が自分自身の力を信じて表舞台に立っているように見えた。だって信じてないとあのステージに立つことは出来ないから。朝顔の放送期間中、本当にたくさんの災害や事件が日本を襲った。朝顔はまるでリアルタイムでその内容を日本中に届ける決断をして放送されたテレビドラマだった。僕はそのことにけっこう衝撃を受けて、テレビの力を改めて知ったし、そのプレッシャーの中で真ん中に立つキャストやスタッフを尊敬した。この人たちのレベルにいくには自分はまだまだだと痛感した。それでも自分にしか出来ないことを見つけたかった。誰かに届けたいという気持ちと、それから自分自身ともっと関わりたいという気持ち

ある夜、僕は三鷹の駅前でサックスを吹く青年を見つけた。会社帰りの人たちなどが行き交う夜の駅前、そのサックスの音色は綺麗で、僕は近くに腰掛けてその風景をしばらく眺めていた。すると少し離れたところに、買い物を終えた1人のおばあちゃんが座っていた。そのおばあちゃんは静かに無表情でそのサックスを聴いていたのだが、その表情に僕の心を打つものがあった。少し寂しそうにも見えるそのおばあちゃんにはどんな人生があったのだろう。サックスの音色を聴きながら何を想っているのだろう。あるいは何も考えていないかもしれない。僕は青年の音楽が羨ましかった。自分と関わることで、知らず知らず誰かの人生に関わっていることに深い感動を覚えた。もし自分に楽器を演奏することが出来たら、すぐにでも街に立つだろう。でも僕は楽器を演奏することが出来ないし、それに音楽をやりたいともあんまり思わない。

夏休みに一週間、札幌の実家に帰った。僕の母親はちょうど働いていた職場を辞め、次の職場に行くまで長めのお休みの最中だった。僕の母親はほんとうに働き者だ。家にいる時も、夜の晩酌の時間まで殆ど座ろうとしない。ご飯の支度やら洗濯やら掃除やらずっと何かをしている。「母さんも座りなよ」とか「母さんも食べなよ」っていつも言ってる。そんな母親も、妹が就職してひとり立ちして、それから長いお休みを突然もらったものだから、ついに暇になった。僕は母さんが昼寝している姿を初めて見た気がする。これまでにも見たことはあるのかもしれないが、あんまり記憶にない。記憶にあるのは「ただいま」って学校から帰ってくると、正座して洗濯物を畳みながら「おかえり」という姿。「母さんも昼寝するんだね」と僕が嬉しそうに言うと、笑って「頑張って昼寝してるのさ」と言った。僕は頑張って昼寝をする母親の姿を見て、もっとたくさんの楽しみを与えられるように東京で頑張ろうと思った。
それから札幌に帰った時に、もう一つ印象的なことがあった。友人の子どもに会いにいったのだ。友人のこどもはすでに小学生で、僕は子どもと遊ぶのが好きだからたくさん遊んだ。でもその中で、子どもとの間に共通言語が少なくなってきてるのを感じた。僕はiPhoneを持ってないから、携帯ゲームとかをやったことがない。初体験の携帯ゲームはめっちゃ面白くて、親指のタップだけで記録を競えるシンプルなものだった。そのゲームでひたすら勝負をしながら試しに「ねえ漫画とか読まないの?」と聞いてみたら「持ってないから読まない」と言っていた。そのかわり「ねえスタンプ70個以上持ってるの!見る?」とスタンプをたくさん見せてくれた。僕はそのたくさんのスタンプを眺めながら、このスタンプや親指一つで出来るゲームの記憶はこの子の中にどれだけ残るんだろうと思った。これらはこの子の原体験になり得るだろうか。いやそれともこのスタンプは僕らがシールやカードを必死に集めていたのと同じなのかもしれない。この子が大人になったとき、将来の道を選ばなきゃいけなくなったとき、僕はきちんとアドバイスしてあげることが出来るだろうか。「好きなことを探せ」「夢を見つけろ」今の子たちが大人になった時にそんなアドバイスをするのはなんだか酷なように思えた。

東京に戻った僕は、文学の朗読を始めようと思った。それが僕が唯一出来る会話だと思った。僕と関わってくれる皆との会話、そして自分自身との会話。吹けないサックスのかわりに本を読むのだ。それらの物語はきっと何かしらの力になってくれる。僕の力になってくれたように。昔を振り返って切なくなったり未来を夢見て胸が高鳴ったり。そしてその客席の中に、三鷹の駅前でサックスを聴いていたおばあちゃんの姿や友人の子どもの姿を重ねるのだ。それは僕にとって素晴らしいことのように思えた。だから今回は道端や公園でもたくさんの人に声をかけてチラシを配った。たくさんの老夫婦や子どもたちや若者とも知り合いになって、とても楽しかった。路上で僕らの歌や話を聞いている人たちのあの表情に出会うことが出来ただけでも幸せだった。

いつかは地方にも行って日本中でたくさんの人たちと関われたらと思っている。もしかしたらいつかはその客席の中に、僕に『こころ』を教えてくれた先生の姿があるかもしれない。そんな奇跡、あるはずもないけど、今は少しだけ希望を感じてしまう自分がいるのだ。

そしてこの公演が終わったら僕はまた映画の撮影に入り、絶望に立ち返る。そういうやり方ならこの長い人生を生きてゆけるかもしれないと思った。


藤原季節
『秋の朗読』初開催

◎日時
9月23日(月)秋分の日
14:00~
17:00~

◎場所
プーク人形劇場(新宿)

◎作品
宮沢賢治「よだかの星」
梶井基次郎「檸檬」

◎出演
藤原季節
義山真司
丸山北斗(音楽)

◎自由席
一般1500円
高校生以下500円
シニア(60歳以上)500円
https://www.quartet-online.net/ticket/akinorodoku

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