先週末、Teruさんが東京に会いに来てくれた。

一泊二日の予定だったけれど、二日泊まって朝帰っていった。半日でも多く一緒にいられて嬉しかった。

昨日は昼に一緒にお寿司食べて午後は上野にクリムト展を見に行った。昨日は一日中頭の中がぼやぼやしていて話したいことがいっぱいあるのに頭が動かなくてやっと会えてとても嬉しいのに大した話もできない感じでいたけれど一泊伸びたら段々いつものように話せた。

わたしの小さい頃からの悲しい癖がある。
"お別れの日ブルー症候群"だ。それこそ幼少期はあからさまに悲しい顔になりガクンと落ち込み、涙が止まらなかったものだが、最近では自身の生まれ持った性質を完全に認知しているせいか、脳内のプログラミングが進化し、未然に予防体制に入るのだ。つまり、お別れの日ブルー症候群の場合、喜びや楽しさ、愛おしさなどの想いを抱けば、すぐに悲しみ感情のスイッチが反応してしまうので、それが勃発しないようにと脳内が自然と不活発化するようになっている。究極のところ何も感じなければ淋しさも起こらない。


人と近くなると、喜びも増える分悲しみも多くなる。


人に感情を抱くことほど面倒だと色々な経験から感じていたため、約2年ほど前から人とつるむことを避けるようにしていた。勿論恋愛なんてこの世で最も嫌いなものだし、友達とも深い仲にはなりたくなかった。裏切られたりして傷つくのは嫌だしマイナスな感情に囚われている時間が痛くて無駄だ。。それに淋しさを感じるくらいならば現実的に何かで体が痛かったりした方が紛れたり、自分を傷つけて淋しさを緩和したい衝動が湧いてくる。実際にはそんな事もできない。。無力すぎて。


でも、人はそんな淋しさという痛みを忘れる。


最近はまた色んな人と出会って仲が深まり始めた。最初はやはり人付き合い程悩ますものはないので、人を信用しないように、また心奪われ依存して深入りしないようにと心掛けて人と接するようにしていた。真摯に、でもあくまで内ではなく外面で接するように。しかし、心を開くような人と出逢うことで、時間と共に自分というものが徐々にふるいにかけられ素直な部分が顕になっていくのを感じて、わたしはまたなんとも言えない淋しさを感じる人間になった。


人間なんて嫌いなのに、とても信頼できる人々に出逢うと私は素直になる分淋しさを再び味わうようになった。そしていざ会えば、会うは別れの始まりそのものでお別れのカウントダウンが始まっていると思うと一緒にいても感情が左右されないように自分を制することで精一杯になる。話したかったことさえも話せず、まるでいっしょに食事しようと言って一人で舌を火傷しヒリヒリして何も味わえなくなってしまったかのような、そんな残念さ。。。


出逢う人々と信頼し好きになったり、気持ち寄せ合っていることを感じると、故に私の心の中は同時に悲しく、淋しく疼く。


人と出逢うということはそういうことなのだろうか。


何も永遠の別れでなくてもバイバイと言って目の前から相手が消えてそこに規則的な物の配置や知らない人々の不特定多数の動作が無関心にその空間を遮っていく時に、わたしと見えなくなった人との一秒一秒をさらに無機質に遠ざけていく感覚はとてつもなく空虚で淋しい。心の疼きにふわっと胸が痛くて、すこし苦しくて、涙しそうになる。そんな時に頭上に開けた広い空や少ない雲が広がっていたなら、淋しさよりも同じ空の下にいるということを感じられるのだろうか。そして、それを感じることで淋しさは拭えるのだろうか。わからない。

とにかく人と出逢うことは喜びと共に淋しさを植え付けられる。その淋しさは喜びの反動でもあるのだろう。


昨夜見た夢は、帰って行く人を想うあまり、案の定色んな人が帰ってしまう夢を見て、わたしのお別れの日ブルー症候群はこうして30歳になっても尚起こり続けている。


別れを惜しみすぎるとあまりよくないと思うから私は別れの場であまり惜しみはしない。でも、そのかわり一人になった心の中で疼き、ひたすら痛い。もう少し心が成熟したならこの痛みはいつか気持ちよくなれるのだろうか。30歳という今のわたしにはまだ、分かり得ない。

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