先週からリハーサルのため大阪に来ていて
一昨日の午後、国立国際美術館にクリスチャン・ボルタンスキーというフランス人のアーティストの展示を見に行った。

この展示は凄く印象的なものだった。


ボルタンスキーは、
歴史や記憶、死や人間の不在と存在の痕跡をテーマとして表現し続け、ナチスの暴力、ホロコースト以降の社会における死について問いを投げかけてきているアーティスト。

彼の一貫した創作のテーマから、
永遠に色褪せることの赦されない過去からの現在進行形である闇の中の光を示しつづけているような展示だった。


空間を祀り、空間に陥れる。
作品の中の一つ一つが、見て見ぬ振りのできない「不在」の集合体。そこにただよう響き、光や影、物の角度は、人間の欲望が取り止めなく生み出していく社会の不条理さや世に生まれる人々の哀しみの抜け殻を象っているかのようだった。


そこに対して、見ている者がシンパシーさえも抱くことができずに佇むことしかできない無力さを感じさせるのだ。

写真撮影を許可している事においてとても不思議に思ったけれどどうしても撮ろうという気は起きなかった。何故ならそこは不在の山だからだ。
それを撮影したところで断片的に写る物体はただのインテリアのオブジェにしか見えない。

ただ、言われた通りどこでも写真を撮りまくっている人々が大半で、試しに彼らが携帯のカメラで撮ろうとしているものを覗いたけどやはり無意味な物体にしか写っていない。しかし、撮影している人間達を俯瞰し全体でその空間の構図を見た時に驚いた。無意味なものを撮影している人々の姿があるこの空間の風景が私にはかなり怖いと思った。

見に来ている人がインスタレーションの作品の一部になっているというところに後に一緒に見に行った人と話して気がついた。
この[Lifetime]という展示の完成形は、現代の機器であるスマホで写真を撮影している人々の姿があって完成するのだろう。

私がその展示を見ていた時に、大人が楽しそうに記念撮影する中、赤ちゃん連れで来ていた夫婦のベビーカーの中で泣き叫ぶ赤ん坊の声が響いていたり、展示作品の一部にある心臓音が聴こえたりしている中、大人が酷く無機質に見えてたまたま泣き叫んでいた赤ちゃんの声がまるで誰にも聞こえていないように感じた。

子供の恐怖や悲痛の訴えは大人には聞こえていない。
何も考えず、考えることや感じることを麻痺させられていて、社会の流れに乗せられ、必死に命が訴え掛ける響きには完全に気が付きもしなければ、それを黙認したとしても感覚が疎くてなんとも思わないのだろう。


それがボルタンスキーが創作する作品を通して表現するメッセージの一部になっていると思った。人間が持つある種の性質は常に現在進行形の過ちなのだ。


いつの時代も人は残酷で弱く、傷つけ合うことで得をする人間に支配され不幸が無くならない時代はない。


この葬り去られた光を尚灯し続けること、
それは単に絶望の闇を見せているのではない。
その痛みや響きを代弁するようにアーティストが作品に命を掛けて表現する。入れ替わり立ち替りする無関心な世の中に必ず存在し続けなくてはいけないトランスミッターの役割があるのだ。


戦争と平和は紙一重。


人は選ぶ道をよく考えなければ一瞬で万物の灯火を消し去ってしまう。

生命を繋ぎ続ける人間の一人一人は単体ではなく 過去も未来も、先祖も子孫も、悪も正義も、毒も闇も光も、すべてが自分である。

私がクリスチャン・ボルタンスキーの[Lifetime]で感じたことでした。



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