わかったことがあっただけに清々しいと感じるところと、同時にとてつもなくわからなくなっていく感覚と、凡ゆる感覚と疑問がトランスする。

それが体の中でトランスしているというわけではなくて、自分の体は透き通った膜になって中に濃紺と輝く星が瞬くような宇宙空間があるような感じで、わたしの脳はもはやもう頭には無いという夢遊の実現だ。

ここまで来て、日常的で無意識的な恐怖心と心的な感性が少しずつ解離してその中に宇宙の闇がじわりと伝うのがわかる。でもそれは決して液体のようなものではなく、あくまでも、どこまでも、"無"なんだ。

無が伝う時に、スパークしている星は哀しみの欠片みたいなものなのだと思うけれど、そこには感度しか残っていないから一体どの痛みから来たものなのかはわからないだろう。

人は感覚的な"有"を重視し、し過ぎている。無が漂っていたことはもう殆どの人は知らないと思う。スパークさせておくべき痛みの活きる領域が、人の感性の洞窟のような空間がほぼ残されていないだけに、感性も忘れて去られてしまう。

空間が消えると響きが消える。感度も薄れて無くなる。

感性は生み出せない。

元々あるものを消し去ったらあとは一生貪欲で浅はかな人間という血肉の塊でしかなくなる。人間という動物はどこまでも汚くなれる。どこまでも落ちぶれることができる。魂なんか簡単に棄て去り大事なものも消し去り欲望に埋もれ同じような血肉の塊で飢えた人間達と集団的にさらに埋もれる。集団でいると我が物顔でさらに血肉は汚く濃ゆくなる。人はそうやって集団で落ちぶれていく。救いようもない光景に感性が悲鳴をあげるのに限りがある、それは水の中で苦しいと思った瞬間に何秒で這い上がるか…それと同じで、我慢してその波に飲まれているうちにそこの住人となり血肉の塊で飢えを感じて肉体をギタギタに叩いていくことしかできなくなる。そしてそれはその中で年月を重ねてしまえばしまうほどに餓鬼の闇に沈み、更に光と感性のスパークしている魂を見つけてはそれを餌食にして血肉の塊は仲間を作って陥れていく。人の作り出す凡ゆる社会、コミュニティー、政治的なものには誘惑と危険があり、裏を返せばどこまでも汚い。

群れから離れなければやがて、魂が無くなり血肉の塊で妬みや情念の蠢く世界で体を焼き尽くすことになる。魂は魂が震え合うものと共鳴する。
集団心理に侵されていると魂は響きを失ってしまう。

人間という血肉の世界はとても危険な世界だ。
魂の響きと輝きを失っていない人と出逢うには、心の声をしっかりとあげられる環境に身を移さなくてはならないのだ。でもそんなことも痛みに蓋をし続け周りの目だけを気にして自分自身の胸の奥を感じないようにしているうちに、埋もれていき、いつのまにか自分という個性さえもわからず"集団の中の自分"という同じカラーを維持するための感性しかなくなってしまう。

誰かの商品となり、誰かに認めてもらい、常に誰かという周りの目を気にした世界だけに生きて、人ひとりの存在が果てしなく狭くなる。資本主義の罠でもあると思う。国も社会もそうやってできている、、どうやってもそこで生きていくしか、魂があろうとなかろうと根本的に肉体を有した血肉として生まれてしまってはその中で生きていくしか仕方がないことでもあるが……


しかし未来はどうにか変えていける可能性を秘める。魂を欠いた欲望に埋もれた血肉は腐って朽ち果てるしかないが、まだ埋もれていない感性は救える。共鳴し合えるものと出逢い、もっと響きを強く広く渡らせ合う。


もしかしたら、感性の腐った血肉さえも蘇らせる力を発揮できるかもしれない。でも、あえてそこには期待しない。これからももっとも大切なのは若い者であり、またその下の世代や子供達、新しい命だ。 力を持つことは大事ではない、それよりも一人一人が洗脳されないようにすること、集団心理に侵されないこと、それぞれが個々を意識できること…そうでなければ、弱いものを蔑ろにしない社会が一向に成り立たない。



戦争経験者以降で今の50〜60代の大人達が、現在の20代〜30代の社会を形成した。若者がどうのこうのと非難できるだろうか?
大人は自覚が無いだけに物凄く罪深いと思う。



というところで、軸を意識し今日も運動に取り組もう。良い一日を…

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Images used from my favorite art sight.

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すべてが嘘で、すべてが事実だ。
この身に起こることすべてに対して疑う。
良いことも悪いことも信じない。全ての物事には裏があり、本当の心とはわからないものだ。

普段から感覚で生きているけれど、それでもわたし含め人間の感覚は日々変わってしまうものでもあるから、何を信じたら良いかはわからないし、もはや自分以外信じられるものは本当にはないのかもしれない。
ただ、自分を信じることってなんだろう?自分なんて世界で一番嫌いなのに。心のどこかで常に自分自身に対する嫌悪というか嫌気がある、自分で自分に対して"あんたなんかいなくてもいい"と思う。だけど、周りの愛が強すぎてそれどころではないのが本当のところだ。


今行きたいところはトルコとアフリカ。どうしたらどこに辿り着けるかを日々考える。まあ、行けば良いだけなんだけど。何も問題がない。


そういえば2、3日前に異様に子どもを産んでみたいと感じた。今そんな欲求が全く無いが、たまたまなぜか赤ちゃんが欲しいと思った。でもそんな感覚も移り変わる通過性の虚偽に過ぎないのだろう。
子どもなんてわたしには産めやしない。

考えただけで馬鹿馬鹿しくて、それ以降自分自身にはそれを一瞬たりとも考えるだけで阿呆らしい気持ちになっていく。
まるで、枯れた芝生をただただむしっているようなそんな気分だ。至る所も無ければ、自分という腐り果てた躍動の塊にうんざりする。

アイスクリームは甘い砂糖の塊だ。
アイスクリームを食べるより酒を飲んでいた方がいい気がする。アイスクリームで着膨れるよりも、酒で浮腫んだほうがいいに決まっている。そんなものは言わずと知れている。酒を飲んだ後に出てくるアイスクリームは、軽蔑するというよりも、宝石箱に入ったダイヤを眺めている気持ちだ。食べなくてもただ、あるだけでいいかも知れない。


人間には、本当に言いたいことなんて本当には無いのだろう。ただ生きてるだけで、それだけで充分に表現なのだ。

でも何故か私には生きていても、例え存在していなかったとしても、永遠に何かがきっと物足りない。死んでも死に切れないどころか、死んだところで人間という存在の無意味さを感じることもできずに命は絶えてしまう。だから、今、それをわたしは感じてここにいる。

人間は   誰もが 浅はかだ。

人間は  みんな 弱くて、悲しい。

人として生まれても、    目に写るものは
フィルターを通し色褪せたところにわざと色を加えたような世界。

人間になんて生まれてしまったことに永遠の恥を感じる。

輪廻転生最終章と信じて悠然と過ごす今世の踊り、今世の味。しっかり感じて生きたい


生きたいなんて言う人間になりたくなかった、
はい、致し方のない人間です



さよなら!








ここ最近で色々な変化の兆候が起きている。
まずは禁酒して今日で4日が経った。
禁酒など絶対に出来ないと思っていたけれど、案外すんなりと出来ている。別に飲まなくたって、なんだか平気だ。目の前で家族が普通に変わらず飲んでいるけどそれでも羨ましくもないし「只今禁酒中なのでお酒飲まないよ」と感情抜きで言えるくらい。
それよりも飲まない事で寧ろ良いことが起きている。肌荒れが少なくなった。昨晩に至っては、布団に身体が吸い付くようにして眠れた、つまりしっかりとした睡眠を取れたという実感があるのだ。鼻水と鼻づまりもマシになっている。飲んでいる時は飲みながらその場でティッシュが山積みになるくらいガンガン鼻をかんでいるから、今がとても過ごし易いくらいだ。そして、寝ている間に激しく感じる喉の渇きや喉の奥の酷い痒みも禁酒中の今は殆どない。

毎日お酒飲んでいた時は実にベッドに入る寸前まで飲んでいたしそれが習慣だったのでいざ禁酒し飲まないとなると絶対に落ち着かなくなると思っていたが、全く素面でも落ち着いてるし寝る前まで飲んでいなくても平然と愉快だ。飲んでいた時が馬鹿馬鹿しく感じるくらい。

飲むことも好きだ。食事と合ったお酒があることで料理も更に美味しいし、人と話すのもお酒があることで更に深く良い会話が出来たりする。それが所謂、呑ミュニケーションとかなんとかなのだろう。

一人で習慣的に飲むのはちょっと無駄なのかもな…とふと感じた。私にとって毎晩飲むことは例えるなら毎日同じ小説を必ず音読で読破しなくては眠ってはいけないみたいな、妙な決まり事みたくなっていて、半ば義務化していたから、殆ど自分だけのルールや習慣であって特に必要なことではない。

でもこの短期間で辛い症状が緩和されていたりすると、ひょっとして?お酒の何かに対してアレルギーがあるのではないか?…というところを疑わざる得ない。

例えば、ビールは1年半前に初めて美味さを知って以来、一瞬どハマりした時に飲んでいて鼻づまりになっていて、試しにビールやめたら治ったので私の場合はその時、麦が体質的にアレルゲンとなっていると考えたことがあった。それ以来ビールは時々しか飲まないし、でもそんなことがあったなということも今これを思い出して書くまで忘れていたことだ。

人は自分の生活に都合の悪いことはうまく忘れるように出来ているのだろうか?
私にとってはお酒が好きというところで、お酒に対するなんらかのアレルギーがあるなんてことを考えたところで酒が楽しくなるわけもないので都合よく忘れていたのだろう。。

では、この頃酒を飲む代わりに何を飲んでいるかといえばリンゴ酢や梅酢の炭酸水割りを飲んでいる。最初はただの炭酸水と割っていたのだが少しだけシュウェップスのトニックウォーターを混ぜるとうまいしスッキリと飲みやすい!甘い物を物凄く欲するといったこともなく、食欲が異常に増すなんてことも特になく快適に過ごしている。


禁酒が今のタイミングでよかったと思う。
感情任せに色々やっている時期だと節制することで自暴自棄な反動が出てしまいがちだけれど、今は変にどこかで悟っているところがあって、
他人は他人、自分は自分、猫は猫、猫は可愛い、以上。みたいな。これが単純明快で生きるのが遥かにラクだ。昔は他人のことを必要以上に考え過ぎて自分まで壊れていたけれど、今では他人の物事を測る尺度も私には関係ないし、自分は自分の好きなものだけ信じられる。他人にはあまり興味がないし、寧ろどうでもいい。人類平和であればなんでもいい。私は自分自身と猫のことと今の日本の政治とかに強い興味があるので、昔は他人のsns見ていたけれど、今はFBなんて見ない。インスタは面倒ないし、イメージや写真だけなのでパーっと流し見できるので時々見ている。でもそれよりもやはりYouTube!自分でも活用しているし、色んなインスピレーションとなりそうな映像作品や音楽を探して見たり、ゴルフグッズや他色々欲しい物、猫の物をネットで物色したり、オンタイムで起こっている政治ニュースやそれに対する人々の反応などを見たりしている。例えお酒を飲んでなくてもそれらは永遠に終わりなく見ていられるのでなんとも愉快でいられるのだ。

自分が欲しい物に対する人々のレビューや、その物の紹介文や魅力の詰まった写真などを見ながら寝落ちすることが気持ちいい。一昨日は欲しいと思った水筒の紹介文を読みまくり、売っているサイトとどこがどの値段でどういう風に売っているか、サイトによってのポイントの還元率やクーポン、送料、納期などを見ながら何処から買うと得なのか等リサーチしながら、その水筒の写真を見ていてそのままうっとりと眠りに落ちた。実際にはいらないものでも、使っている感覚を妄想することが私の物を見るときの喜びなのだ。買わずとも妄想だけで世界が広がる。

逆にお酒を飲んでいる時は、酔いに任せて危うくボタン押し決済に進んでしまうことがあるので、酒を飲みながらネットでショッピングサイトを見る時は気をつけなくてはならない酒というのはある意味正常な判断を脅かす場合もある。


これだけ良いことが起こるとお酒も永遠に止めれば?と思うでしょうけど。やめませんよ、別に。
今は今、先は先。20日の日の本番踊り終わったあとには帰りに缶チューハイでも買ってプハッとやりたいしね。
ここだけの話、踊ったあとの酒ってうめぇんだ…ささやかな幸せを感じることって生きていて大事なことじゃない?


生きていてとんでもなく大きな幸せがポンポンと舞い降りることはとても稀なことだけど、日々の生活の中で感じる小さな幸せを貴く思えることこそがある意味で人生の質を上げることなんだな、と感じてます。



ということで、この辺で本日の日記終わり。


おやすみなさい😴


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