ここ最近で色々な変化の兆候が起きている。
まずは禁酒して今日で4日が経った。
禁酒など絶対に出来ないと思っていたけれど、案外すんなりと出来ている。別に飲まなくたって、なんだか平気だ。目の前で家族が普通に変わらず飲んでいるけどそれでも羨ましくもないし「只今禁酒中なのでお酒飲まないよ」と感情抜きで言えるくらい。
それよりも飲まない事で寧ろ良いことが起きている。肌荒れが少なくなった。昨晩に至っては、布団に身体が吸い付くようにして眠れた、つまりしっかりとした睡眠を取れたという実感があるのだ。鼻水と鼻づまりもマシになっている。飲んでいる時は飲みながらその場でティッシュが山積みになるくらいガンガン鼻をかんでいるから、今がとても過ごし易いくらいだ。そして、寝ている間に激しく感じる喉の渇きや喉の奥の酷い痒みも禁酒中の今は殆どない。

毎日お酒飲んでいた時は実にベッドに入る寸前まで飲んでいたしそれが習慣だったのでいざ禁酒し飲まないとなると絶対に落ち着かなくなると思っていたが、全く素面でも落ち着いてるし寝る前まで飲んでいなくても平然と愉快だ。飲んでいた時が馬鹿馬鹿しく感じるくらい。

飲むことも好きだ。食事と合ったお酒があることで料理も更に美味しいし、人と話すのもお酒があることで更に深く良い会話が出来たりする。それが所謂、呑ミュニケーションとかなんとかなのだろう。

一人で習慣的に飲むのはちょっと無駄なのかもな…とふと感じた。私にとって毎晩飲むことは例えるなら毎日同じ小説を必ず音読で読破しなくては眠ってはいけないみたいな、妙な決まり事みたくなっていて、半ば義務化していたから、殆ど自分だけのルールや習慣であって特に必要なことではない。

でもこの短期間で辛い症状が緩和されていたりすると、ひょっとして?お酒の何かに対してアレルギーがあるのではないか?…というところを疑わざる得ない。

例えば、ビールは1年半前に初めて美味さを知って以来、一瞬どハマりした時に飲んでいて鼻づまりになっていて、試しにビールやめたら治ったので私の場合はその時、麦が体質的にアレルゲンとなっていると考えたことがあった。それ以来ビールは時々しか飲まないし、でもそんなことがあったなということも今これを思い出して書くまで忘れていたことだ。

人は自分の生活に都合の悪いことはうまく忘れるように出来ているのだろうか?
私にとってはお酒が好きというところで、お酒に対するなんらかのアレルギーがあるなんてことを考えたところで酒が楽しくなるわけもないので都合よく忘れていたのだろう。。

では、この頃酒を飲む代わりに何を飲んでいるかといえばリンゴ酢や梅酢の炭酸水割りを飲んでいる。最初はただの炭酸水と割っていたのだが少しだけシュウェップスのトニックウォーターを混ぜるとうまいしスッキリと飲みやすい!甘い物を物凄く欲するといったこともなく、食欲が異常に増すなんてことも特になく快適に過ごしている。


禁酒が今のタイミングでよかったと思う。
感情任せに色々やっている時期だと節制することで自暴自棄な反動が出てしまいがちだけれど、今は変にどこかで悟っているところがあって、
他人は他人、自分は自分、猫は猫、猫は可愛い、以上。みたいな。これが単純明快で生きるのが遥かにラクだ。昔は他人のことを必要以上に考え過ぎて自分まで壊れていたけれど、今では他人の物事を測る尺度も私には関係ないし、自分は自分の好きなものだけ信じられる。他人にはあまり興味がないし、寧ろどうでもいい。人類平和であればなんでもいい。私は自分自身と猫のことと今の日本の政治とかに強い興味があるので、昔は他人のsns見ていたけれど、今はFBなんて見ない。インスタは面倒ないし、イメージや写真だけなのでパーっと流し見できるので時々見ている。でもそれよりもやはりYouTube!自分でも活用しているし、色んなインスピレーションとなりそうな映像作品や音楽を探して見たり、ゴルフグッズや他色々欲しい物、猫の物をネットで物色したり、オンタイムで起こっている政治ニュースやそれに対する人々の反応などを見たりしている。例えお酒を飲んでなくてもそれらは永遠に終わりなく見ていられるのでなんとも愉快でいられるのだ。

自分が欲しい物に対する人々のレビューや、その物の紹介文や魅力の詰まった写真などを見ながら寝落ちすることが気持ちいい。一昨日は欲しいと思った水筒の紹介文を読みまくり、売っているサイトとどこがどの値段でどういう風に売っているか、サイトによってのポイントの還元率やクーポン、送料、納期などを見ながら何処から買うと得なのか等リサーチしながら、その水筒の写真を見ていてそのままうっとりと眠りに落ちた。実際にはいらないものでも、使っている感覚を妄想することが私の物を見るときの喜びなのだ。買わずとも妄想だけで世界が広がる。

逆にお酒を飲んでいる時は、酔いに任せて危うくボタン押し決済に進んでしまうことがあるので、酒を飲みながらネットでショッピングサイトを見る時は気をつけなくてはならない酒というのはある意味正常な判断を脅かす場合もある。


これだけ良いことが起こるとお酒も永遠に止めれば?と思うでしょうけど。やめませんよ、別に。
今は今、先は先。20日の日の本番踊り終わったあとには帰りに缶チューハイでも買ってプハッとやりたいしね。
ここだけの話、踊ったあとの酒ってうめぇんだ…ささやかな幸せを感じることって生きていて大事なことじゃない?


生きていてとんでもなく大きな幸せがポンポンと舞い降りることはとても稀なことだけど、日々の生活の中で感じる小さな幸せを貴く思えることこそがある意味で人生の質を上げることなんだな、と感じてます。



ということで、この辺で本日の日記終わり。


おやすみなさい😴


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かれこれこの3日間、とても不思議な気持ち。

一言で言えば苛々しているのだけど、対象物があるわけでもなく、何か嫌なことがあったわけでもないのに、単に苛々していてそれでも怒りという沸点までにはなかなか達しない。

頭の中がどーんと重くて、スッキリした気分にならない状態。だからただただ何にムカついているわけでもないし、怒ってもいないのに、頭の中が苛々している。

そんな状態で家の中にいればダニエルの言動は苛々という一種の火の粉に油を注いでくる。ただ私の今の苛々はシケているのでなかなか燃え上がらない。いつものようにもう少し感情的になれたら楽なのかもしれないけれど。何故か感情を抑制する力が強く働いているのだ。

ただただ苛々しているのはメンタルというより体調のせいなのかもしれない?2日前なんかは物凄く鼻が詰まっていて呼吸がしにくいし頭もボヤボヤするし何飲んでも食べても味も香らず楽しくない。。。身体中の感覚を感じるところをサランラップで包んで閉じ込めてしまったかのような感じ。
外の空気吸いたいのに潜水艦の中にいるかのような。
そんな感じ。
息をしているけど、息をしているのがなんとなく息苦しい感じ。ダイビングのマスクをして呼吸しているかのような。



昨日は、一昨日よりはマシだけど人の言うことに答える余裕が無いから殆どダニエルが何言ってても無視していた。おまけに体中が痛くて脳みそまで凝り固まってしまったかのような。腰が一歩間違えるとギックリ腰になりそうな痛みがあったので起きてすぐに湿布を貼り、日常動作をゆっくりと腰に負担が来ないように動いていた。頭の中が重い時は首のあたりから何か調子が悪い。おまけに腰が痛いと自分の中には一切の余裕がなくなる。
スタジオに篭り1時間マッサージ機の上に横たわった。温熱のモードがあるので、マッサージ後10分ほどその上で寝て、起きあがりそこからウォームアップを始め4時間後には完璧に体が動けていた。

最近は体がよく動く。

体の不安も段々と無くなり精神以外はコンディションがかなり良く動ける状態になってきている。


今日は、案の定体がまたガチガチになって起きた。
ゴルフのレッスンに加え、来週と再来週行けない振替分を先週と今週で受けている。体の動きの調子悪さはゴルフに顕著に出てくる。コーチも、「今日はかなり調子が悪いね」なんて流石に御見通しだ。

どんなに体のコンディションがうまくいっていない時でもレッスンは無駄ではないと私は感じている。どんな状況の時もやってみる、そして、その感覚を味わう。そうするといつもできることが出来ないなど、感覚を彷徨うことが重要だ。自分がこういった状態の時に、コーチがどうアドバイスするか、それを素直に聞いてゆっくりと焦らず、それまで言われていた細かいことについては一旦頭空っぽにして、ただ今の自分の体と見つめあう。するといつもとは違うアプローチで感覚が蘇る瞬間もあり、また、いつも意識していない部分が強く意識できてその体の部分を使っていることが強く感じられる。そうして新たな面で打開策を見出していけるのだ。不調と好調とを繰り返すことは経験であり、練習であり、人の体も精神も日々変わるものだから踊りも趣味のゴルフにしても成長に繋がるのだと思った。


ゴルフ終わって帰って来て、

お風呂もしっかりと入り湯船でストレッチしたり、最近週に2、3回程度やっている酒粕パックをした。

自分の体の為に何かを出来る時間は尊いと思う。

少し前まで美容なんて面倒くささでしかないと感じていたのに、今では美容という意識もなく単に体に良いことを自らの衝動で行っている。年齢30を過ぎると必需な感覚だ。。。凡ゆる老化の反応には抗うことはできない。ただ、体をケアして大事にする事だけだ。



そういえば最近、毎朝猫を外に出す日課が増えた。
朝起きて猫を外に出す時外がまだ若干寒い🥶❄️それなのでいっしょに出て、新鮮な空気を吸い込んでしばらく猫が遠くに行かないよう監視する為外にいる。そして試しに飛び跳ねたりなんだりして自分のウォームアップもする。

それにしても猫がいると生活が明るい。
こんなにすばらしい生き物は他にいないというくらい、私の人生を輝かして毎日を明るく照らしてくれる。猫は人を幸せにする生き物だ。


猫の糞の掃除も、ゴハン作りも、飲み水機の清掃も、歓びを持って行っている自分がいる。面倒くさいだなんて一切思わない。本当に好きだし、本当に大事だから。


そして、つい最近友達が文鳥を飼ったとLINEして来た。正直なんとも思わなかったけれど、その子は猫好きで猫も飼っているのでどちらかというと猫に食われないだろうか?とそっちが気にかかったのでその旨を伝えた。

私が子供の頃家で飼っていた猫がベランダでツバメを仕留めていた。猫はそれを自慢するかの如く胴体を持ってきたが、首がない。後ほど、胴体と頭それぞれバラバラになって別の部屋の床に落ちているのをみたことがある。その事を友達に伝えた。「やめて?ほんと恐怖でしかない」と言われた。

私は鳥を飼う人はみんな精神的に頭がおかしいと思っていた。だから勝手に鳥を飼っていると聞くと距離を置きたくなる。それを初めて正直に彼女に伝えた。そしたら「まってまって頭おかしいところの下りが気になる」と言われたので、自分でも理由を考えたことなくてただ漠然と鳥と蛇を飼う人間達は飼ってるもの同士が同類であり同罪であると信じていた。

とりあえず理由を見出した。

鳥は、
①手が怪獣みたい
②空を飛んでしまう
③目が何を言っているのか分かりにくい

まず、空を飛ぶような生き物と如何に意思疎通するのだろう… か?

蛇と、どうやってペットとして意思疎通するのだろうかか?…………


でも、その文鳥を飼い始めた友達はまずサイコではないと言い切れる。信用できる人だ。だから鳥を飼ってる人間はそれでも大半は頭おかしいと思っているけれど、セキセイインコとかオカメインコとか、どちらか忘れたけどどちらかを飼っている人はもっと頭おかしいらしい。
少なくとも文鳥の彼女は大丈夫。彼女は唯一頭のおかしくない鳥飼育者であろう。


というところで、今日のiraira日記終わります。


おやすみなさい。🛌

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今日は入院中の祖父の病院へ三線を持って弾き語りに行った。正月に会った時には多少の不自由はあっても家で生活していたのが、1月末〜2月あたりに体調を一段と崩し再び入院生活を強いられている。

見る度顔が変わっていたり、弱ってきているという情報を耳にしていたので、私もそろそろ会いに行かなくては…と思い、思い立って直ぐ今日見舞いに行った。

今日もいつもの如く三線を持って病室へ行った。祖母は不意に私が現れたので、
「丁度三線を聴かせに来て欲しいと思い連絡しようと思っていたの!今日はおじいちゃんに歌って弾いて聴かせてやってちょうだい!」
と言って、
たまたま私もいきなり来たのだが、最近は身近な人とのタイミングがよくリンクする。


三線をはじめたのは3年程前。
その頃私は沖縄を1年に7回ほど旅しているような年で、あまり頻繁に旅するため安い宿を転々としていた。ある夜泊まった宿は一泊1,500円程のホステルで真夏だというのに空調設備を使うのに1時間100円取られるのであえてエアコン付けずに、窓から運良く夜風が部屋に入らないかとうずうずしながら試行錯誤していた。窓には網戸が無く、開け放せば蚊が入ってくるのでなかなか大々的に開けられないのだが、窓をうっすらと開けた時に完璧な夜の闇の中のどこかから三線の音色が聴こえてきた。誰かが練習しているようだった。その音色と息づかいが体の中にじんわりと響いてきて、熱帯の夜の暑さも、宿の不便さもすべてが三線の一音一音と調和してとてつもなく心地のよい空間になった。
それまで三線の音は沖縄の町中ならどこからでも観光向けのCDが流れているし、食事屋さんやらでも生演奏しているのをちょくちょく見かけてはいたが、
こうして、安宿の窓を開けた時にふと聞こえた三線の音色は心を鷲掴みにしてそれが聞こえなくなるまで私は聞き入った。またその三線がプロのように完璧でないところに物凄く味があった。
そしてその夜が明けた次の日に私は練習用の一番安い三線を買いに行き、その楽器屋にいたおじぃに10分500円で簡単な弾き方を教わって以来、その日から独学でYouTubeを見ながら三線を練習した。

音の出逢いや感動は凄まじい。一瞬のことなのに、その世界を永遠に奏でるような三線の音色は私の中で最も感動的だったし、とても癒された。

三線との出会いがあってからはじめて祖父母の家に三線を持って現れた時、試しにまだまだ下手くそだけどと言いながらも、祖父に弾いて歌を聞かせたら今まで見たことない表情というか、まるで素っ頓狂な顔をして目の奥が開ききった感じで私が弾くのを見つめ聞き入っていた。 
弾いた後に、

「宝よ、お前、なかなかうまいよ。
三線練習してこれからもっと弾いたらいいよ」

それからというもの、
一昨年始めて祖父が緊急入院した時にもお見舞いに三線を持っていって病室で弾いていた。その時は、祖父の意識が混濁していた状態で生死を彷徨いかけていた。少し意識が回復し出した時、顔を合わせたら祖父が、

「ずっと狐とタヌキが自分の周りを忙しそうに動いていた。そしたらいきなりどこからかお前の三線の音が聞こえてきたんだよ。そしたら目が覚めたんだ」

三線の音色が祖父をこの世に引き戻したのかな…
まさか、
と思ったけれど
正直自分にはわかる。この音色が脳のどこかに響いた時に何かが、蘇る感覚。

忘れていた情景をふと思い出したり…
記憶の中の傷を癒し呼び起こさせたり…
なんだかわからないけれど、三線て凄い。


それからというもの私は祖父を見舞う際には三線を持っていく。
病院という素っ気のない場所にずっといる祖父と、つきっきりで世話をする祖母の気持ちや空気を替えられる手段でもあるからだ。

簡単なものしか弾けないけれど、聴いて懐かしい気持ちになったりして一緒に歌ったり出来たら楽しいし病室という空間に、気が入る。

今日は、祖母と母がいっしょにいて私の三線に合わせて二人が涙を溢れさせながらおじいちゃんの手を握ったりさすったりしながら歌っていた。

三線は良いな、
人の温度と心を繋げる音色。


「また来週も三線持って歌いにくるね」
と祖父の手を握る。

祖父は、
「宝は、やればなんでもできるよ」
と掠れた声を放ちながら、

つよく手を握り返してきた。

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