月別アーカイブ / 2020年10月

遠い昔のことのようだ。

 「経済規模は人口が多い国に抜かれてもいい。科学技術力は、アジアで圧倒的な1番を続け、中国やインドなどアジアの本当に優秀な研究者が、日本に学びに来るような状況になるのが望ましい」

 京都大学iPS細胞研究所長の山中伸弥氏の発言である。中国が経済規模で日本を抜く前年、2009年末に「ジャパン・アズ・No.3」の企画で取材した時のことだ。山中氏は、米国より見劣りする研究者の待遇の改善を繰り返し訴えてもいた。

 あれから約10年。日本の経済規模(ドル建て)は微減したが、中国は3倍近くに膨らんだ。その財力を背景に、研究開発費が伸び悩む日本に対して、中国は約3倍に増えた。「科学技術指標2020」(文部科学省)によれば、16~18年の論文数は米国を抜いて初めて首位となり、注目度の高い論文の数も長くトップを走る米国に迫る。英国の組織による世界大学ランキングで上位100に入る数も中国が日本より多い。

     *

 日本学術会議の問題に絡んで、中国が08年から始めた「千人計画」が改めて注目されている。外国で活躍する研究者を国籍を問わず集める国家プロジェクトだ。約10年で中国系を中心に約8千人が対象となった。数千万円規模とされる研究費や住宅の購入などを支援する。

 ここで、まず言っておきたいのは、どこで誰が研究するにせよ、知的財産権や税金などをめぐる違法行為や情報の虚偽は断じて許されない。「軍民融合」の研究が軍拡を支える中国を念頭に、安全保障にかかわるルール作りも急ぐべきだ。

 そのうえで、中国側の狙いを探ると同時に、別の角度から直視すべき問題がある。

 なぜ、優れた日本人研究者が中国へ行くのか――。

 中国の有名大学で数年前から教授を務める日本人の中堅研究者に、オンラインで話をきいた。基礎科学の一角が専門で、千人計画の一人である。中国での研究に対して「軍事研究への協力など誤った情報に基づく誹謗(ひぼう)中傷や嫌がらせが広がっている」として、日本で暮らす家族を含む安全のため、匿名を条件に取材に応じてくれた。

 「私の年給は40万元(約630万円)。日本の教授より少ないが、設備やスタッフなど環境は良い。ただ、一部の有名教授を除けば破格の待遇というわけではない」

 「中堅・若手が中国へ向かう大前提として、中国の研究水準が上がっていることが大きい。私の分野も昔は日本が圧倒的に強かったが、今は論文ランキングでみると大差をつけられている」。かつては、日本で学んだ中国人留学生が帰国して、定年後の恩師を呼び寄せる事例が代表的だったが、若手に世代が広がりつつあるという。

 日本で大学教員のポストが限られるなか、中国では採用が増えている。彼によれば近年、基礎科学の分野で毎年10人弱の若手・中堅が中国の大学へ渡っている。日本や欧米を含む複数の国に申請し、条件を見比べて決めている人も多い。「軍事や産業に遠い基礎科学の研究者に対してまで、中国での研究=軍事転用と一律にバッシングしても、日本の基礎科学の基盤の危機は解決できないと思う」

     *

 中国政府は人材確保のため、さまざまな支援策を練ってきた。ハイテク都市深セン市がトップ人材を誘致する「クジャク計画」など各地も競う。一党独裁の強権中国共産党ですら、科学者の国家に対する忠誠に頼む「愛国搾取」的な待遇のままでは人材を呼び戻せなかったからだ。

 日本が研究者を育て引き留め、世界から招きたければ、職場の確保と研究環境の改善が必須だ。日本人が誇りとする、ノーベル賞受賞者を含む多くの科学者らが長く鳴らしてきた警鐘を、皮肉ながら中国が拡声している。


排外的な発言を繰り返す米国のトランプ大統領。「敵」を面罵しておとしめる政治は、世界をどう変えたのか。この4年間で生じた「社会の分断」に私たちは慣れてしまっていないか?

 ■「危機の時代」常に警戒を 西崎文子さん(東京大学名誉教授)

 まるで魔法のランプから魔神が飛び出したかのように、怪しげなものが噴き出し、暴れ続けたのがこの4年間の米国だったと思います。

 今週も、連邦最高裁判事の人事をめぐって波紋が広がりました。同性婚や人工中絶、銃規制といった米社会を二分する問題への最終判断を下す、日常生活に大きな影響力を持つ終身制の職です。

 4年前の3月、当時のオバマ大統領が提案した指名人事に対し、議会の共和党は「選挙の年に最高裁判事の指名を審議すべきではない」と放置し、葬り去りました。ところが、今年9月にリベラル派の判事が死去した後、トランプ氏は保守派の候補を指名し、共和党が数の論理で承認しました。このようにして、保守派の圧倒的な優位を築くという目的を達成したのです。

 重要なのは、自分たちの公言したルールでさえ無視したことです。これでは、権力を握り続けないと報復されることになりかねません。「選挙に負けたら大変なことになるから、負けられない」ということです。平和的な権力の移譲を前提にしていた民主政治の根底が侵食されかねません。安定した統治の原理が脅かされていると思います。

 近代の米国に、このように法をないがしろにする大統領はいませんでした。あえていうとウォーターゲート事件で辞任したニクソンがいますが、彼には違法なことをやっているという自覚がありました。トランプ氏はどうでしょう。この4年間、縁故主義や公私混同、ウソの拡散を含め「やった者勝ち」という発想で、どこまでルールを破っても大丈夫か、無自覚に試してきたようにすら見えます。

 トランプ政権下では「黒人の命は大切だ(BLM)」や「#MeToo」といった叫びも噴き出しました。「人種差別や性差別はいけない」といった、一致できる合意、理念が培われていたはずでした。それらを否定する言説が、あろうことか権力の中枢の座から繰り返されました。切羽詰まった状況の中から生まれた連帯が、これらの運動を支えたのだと思います。

 「米国第一」も、理念や理想をかなぐり捨てる言葉でした。本来、自国の利益と、国際秩序や国際正義とをどう調整するかが、外交手腕の見せどころだと思うのですが、まったく無頓着のようです。

 後世の歴史家は米国のこの4年を、危機の時代と記すのではないでしょうか。民主主義の根幹の危機だけでなく、コロナでより明らかになった医療保険制度など、生活の危機も明らかになりました。

 もっとも、これは対岸の火事とはいえません。日本をはじめ、世界の国々にトランプ的な政治と危機が広がってはいないでしょうか。つねに警戒を怠ってはならないと思います。(聞き手・池田伸壹)

     *

 にしざきふみこ 1959年生まれ。成蹊大、東大、同志社大の教授を歴任した。著書に「アメリカ外交とは何か」など。

 ■怒りと憎悪、その「次」は 吉田徹さん(北海道大学教授)

 「トランプは伝染する」という言い方があります。なりふり構わず相手をののしる。「友か敵か」という激烈な対立も、政治のニューノーマルとして、「こんなもんだろう」と有権者も慣れてしまう。トランプ氏がもたらしたのは、こうした政治のモードの変化です。

 トランプ氏個人より、それを生み出した原因こそが重要です。人民の代表を自称し、既存の政治をエリート主義として揺さぶる。典型的なポピュリストのトランプ氏は、権力の中枢であるホワイトハウスの住人になっても「敵」と闘い続けた。敵はイスラム過激派、中国、国内の「極左勢力」など、状況に応じて移り変わりました。

 生み出したのは産業構造の転換に取り残された、象徴的な意味での「白人男性労働者」でした。ポピュリズムは米国固有の問題ではありません。歴史的に見ると、19世紀後半、第2次世界大戦後の20世紀半ば、そして現代の三つの波がある。それぞれ農業から工業へ、サービス業の都市部集中、そしてIT産業と金融の発展という構造転換と呼応する政治です。

 いずれのポピュリズムも、転換に取り残されたことへの反動から生まれた感情に根ざしたものです。ただ、現代の3番目の波には、感情の源泉にアイデンティティーが強く作用しているという特徴がある。トランプ支持者たちだけではありません。#MeToo運動やBLM運動の加速の背景にも、「私は何者か」という問い、つまり他の人と人種やジェンダー、ナショナリティーがどう違うか、があります。社会の構造的差別の原因はこの「違い」にあると捉えられ、怒りが、政治的な力に転換されています。

 こうした感情の力は、従来の政治の回路でくみ取れなくなった民意の存在を教えてくれます。一方で、生み出された怒りや憎悪が大きくなりすぎて収拾できなくなっています。アイデンティティーの問題は、政策的課題と異なって妥協や合意を導くことができないからです。

 ただ、歴史的にみれば、分断・分極の時代はずっと続くわけではありません。ポピュリズムの第1の波は不況克服のためのニューディール体制に、第2の波はレーガン政権のような新自由主義に収束していきました。鍵は個別のアイデンティティーに依存しない政治が可能かどうかです。

 では次の政治はどうなるか。国際秩序や立憲政治を損なった「例外的存在」としてトランプ政権を否定するか、反対に既存のエリート政治は彼でも変えられなかったと評価するのか。有権者の判断は次の時代の政治の在り方を決めるでしょう。その判断は日本を含めて、多くの国に影響するでしょう。(聞き手・高久潤)

     *

 よしだとおる 1975年生まれ。専門は比較政治。著書に「ポピュリズムを考える」「アフター・リベラル」など。

 ■単線的な価値観、世界中に 樋口恭介さん(SF作家・批評家)

 トランプ政権の4年間で、米国では人種差別や移民排斥を掲げる「オルタナ右翼」が勢いを強めました。影響を与えたのが、加速主義や新反動主義と呼ばれる思想です。

 加速主義は「未来を先取りする思想」です。歴史は過去から未来へ単線的に発展するから、それをテクノロジーで加速しようとする。加速主義者として知られるIT決済サービス「ペイパル」の創業者ピーター・ティール氏は、2016年の大統領選ではトランプ氏を支持していました。

 新反動主義は、リベラルな価値観を否定し、人種差別や優生学を部分的に肯定する思想で、「暗黒啓蒙(けいもう)」ともいわれます。民主主義のまどろっこしい手続きを一足飛びにしようという点では、加速主義とも共通点があります。

 加速主義や新反動主義が広がるのは、閉塞(へいそく)感があるからです。近代が構築してきた民主的な体制では、いつまでたっても世界は変わらない。だから、面倒な手続きは無視して一気に変えようというトランプ氏が支持される。

 加速主義は、古くはマルクスにさかのぼる思想です。しかし、階級闘争で歴史が発展するという「大きな物語」が破綻(はたん)し、左派は「ポリコレ」(政治的公正)のような細かい課題が中心になりました。

 トランプ氏は、「アメリカを再び偉大に」という「わかりやすい大きな物語」を提示しました。それが加速主義や新反動主義と呼応し、閉塞感を抱えている大衆も飛びついたのでしょう。

 SF作家として、テクノロジーで未来を加速する発想自体には共感できます。SFは未来のビジョン、「大きな物語」を提示するものです。人間は生きるために、自分の小さな物語だけではなく、何か大きな物語を必要とします。

 ただ、加速主義や新反動主義の「大きな物語」は、歴史が1本の線だという単純な図式にもとづいています。「優れたもの」と「劣ったもの」を区別し、AIやバイオテクノロジーで「優れたもの」になることを目指すという「古い」発想で、優生学や人種差別にもつながってしまう。

 歴史は複線的で、未来はひとつではなく複数あるはずです。「優れたもの」と「劣ったもの」という単純な価値観ではなく、あらゆる存在があるがままに生きられるようにするために、テクノロジーは使われるべきだと思います。

 いま、加速主義や新反動主義の単線的な歴史観や価値観は世界中に広まっています。民主主義や自由よりも発展を重視する中国の「中華未来主義」も、歴史を単線的に加速させる点では同じです。

 必要なのは、複数の多様な未来の可能性を担保していくことです。そのための社会システムを考える時期に来ていると思います。


排外的な発言を繰り返す米国のトランプ大統領。「敵」を面罵しておとしめる政治は、世界をどう変えたのか。この4年間で生じた「社会の分断」に私たちは慣れてしまっていないか?

 ■「危機の時代」常に警戒を 西崎文子さん(東京大学名誉教授)

 まるで魔法のランプから魔神が飛び出したかのように、怪しげなものが噴き出し、暴れ続けたのがこの4年間の米国だったと思います。

 今週も、連邦最高裁判事の人事をめぐって波紋が広がりました。同性婚や人工中絶、銃規制といった米社会を二分する問題への最終判断を下す、日常生活に大きな影響力を持つ終身制の職です。

 4年前の3月、当時のオバマ大統領が提案した指名人事に対し、議会の共和党は「選挙の年に最高裁判事の指名を審議すべきではない」と放置し、葬り去りました。ところが、今年9月にリベラル派の判事が死去した後、トランプ氏は保守派の候補を指名し、共和党が数の論理で承認しました。このようにして、保守派の圧倒的な優位を築くという目的を達成したのです。

 重要なのは、自分たちの公言したルールでさえ無視したことです。これでは、権力を握り続けないと報復されることになりかねません。「選挙に負けたら大変なことになるから、負けられない」ということです。平和的な権力の移譲を前提にしていた民主政治の根底が侵食されかねません。安定した統治の原理が脅かされていると思います。

 近代の米国に、このように法をないがしろにする大統領はいませんでした。あえていうとウォーターゲート事件で辞任したニクソンがいますが、彼には違法なことをやっているという自覚がありました。トランプ氏はどうでしょう。この4年間、縁故主義や公私混同、ウソの拡散を含め「やった者勝ち」という発想で、どこまでルールを破っても大丈夫か、無自覚に試してきたようにすら見えます。

 トランプ政権下では「黒人の命は大切だ(BLM)」や「#MeToo」といった叫びも噴き出しました。「人種差別や性差別はいけない」といった、一致できる合意、理念が培われていたはずでした。それらを否定する言説が、あろうことか権力の中枢の座から繰り返されました。切羽詰まった状況の中から生まれた連帯が、これらの運動を支えたのだと思います。

 「米国第一」も、理念や理想をかなぐり捨てる言葉でした。本来、自国の利益と、国際秩序や国際正義とをどう調整するかが、外交手腕の見せどころだと思うのですが、まったく無頓着のようです。

 後世の歴史家は米国のこの4年を、危機の時代と記すのではないでしょうか。民主主義の根幹の危機だけでなく、コロナでより明らかになった医療保険制度など、生活の危機も明らかになりました。

 もっとも、これは対岸の火事とはいえません。日本をはじめ、世界の国々にトランプ的な政治と危機が広がってはいないでしょうか。つねに警戒を怠ってはならないと思います。(聞き手・池田伸壹)

     *

 にしざきふみこ 1959年生まれ。成蹊大、東大、同志社大の教授を歴任した。著書に「アメリカ外交とは何か」など。

 ■怒りと憎悪、その「次」は 吉田徹さん(北海道大学教授)

 「トランプは伝染する」という言い方があります。なりふり構わず相手をののしる。「友か敵か」という激烈な対立も、政治のニューノーマルとして、「こんなもんだろう」と有権者も慣れてしまう。トランプ氏がもたらしたのは、こうした政治のモードの変化です。

 トランプ氏個人より、それを生み出した原因こそが重要です。人民の代表を自称し、既存の政治をエリート主義として揺さぶる。典型的なポピュリストのトランプ氏は、権力の中枢であるホワイトハウスの住人になっても「敵」と闘い続けた。敵はイスラム過激派、中国、国内の「極左勢力」など、状況に応じて移り変わりました。

 生み出したのは産業構造の転換に取り残された、象徴的な意味での「白人男性労働者」でした。ポピュリズムは米国固有の問題ではありません。歴史的に見ると、19世紀後半、第2次世界大戦後の20世紀半ば、そして現代の三つの波がある。それぞれ農業から工業へ、サービス業の都市部集中、そしてIT産業と金融の発展という構造転換と呼応する政治です。

 いずれのポピュリズムも、転換に取り残されたことへの反動から生まれた感情に根ざしたものです。ただ、現代の3番目の波には、感情の源泉にアイデンティティーが強く作用しているという特徴がある。トランプ支持者たちだけではありません。#MeToo運動やBLM運動の加速の背景にも、「私は何者か」という問い、つまり他の人と人種やジェンダー、ナショナリティーがどう違うか、があります。社会の構造的差別の原因はこの「違い」にあると捉えられ、怒りが、政治的な力に転換されています。

 こうした感情の力は、従来の政治の回路でくみ取れなくなった民意の存在を教えてくれます。一方で、生み出された怒りや憎悪が大きくなりすぎて収拾できなくなっています。アイデンティティーの問題は、政策的課題と異なって妥協や合意を導くことができないからです。

 ただ、歴史的にみれば、分断・分極の時代はずっと続くわけではありません。ポピュリズムの第1の波は不況克服のためのニューディール体制に、第2の波はレーガン政権のような新自由主義に収束していきました。鍵は個別のアイデンティティーに依存しない政治が可能かどうかです。

 では次の政治はどうなるか。国際秩序や立憲政治を損なった「例外的存在」としてトランプ政権を否定するか、反対に既存のエリート政治は彼でも変えられなかったと評価するのか。有権者の判断は次の時代の政治の在り方を決めるでしょう。その判断は日本を含めて、多くの国に影響するでしょう。(聞き手・高久潤)

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 よしだとおる 1975年生まれ。専門は比較政治。著書に「ポピュリズムを考える」「アフター・リベラル」など。

 ■単線的な価値観、世界中に 樋口恭介さん(SF作家・批評家)

 トランプ政権の4年間で、米国では人種差別や移民排斥を掲げる「オルタナ右翼」が勢いを強めました。影響を与えたのが、加速主義や新反動主義と呼ばれる思想です。

 加速主義は「未来を先取りする思想」です。歴史は過去から未来へ単線的に発展するから、それをテクノロジーで加速しようとする。加速主義者として知られるIT決済サービス「ペイパル」の創業者ピーター・ティール氏は、2016年の大統領選ではトランプ氏を支持していました。

 新反動主義は、リベラルな価値観を否定し、人種差別や優生学を部分的に肯定する思想で、「暗黒啓蒙(けいもう)」ともいわれます。民主主義のまどろっこしい手続きを一足飛びにしようという点では、加速主義とも共通点があります。

 加速主義や新反動主義が広がるのは、閉塞(へいそく)感があるからです。近代が構築してきた民主的な体制では、いつまでたっても世界は変わらない。だから、面倒な手続きは無視して一気に変えようというトランプ氏が支持される。

 加速主義は、古くはマルクスにさかのぼる思想です。しかし、階級闘争で歴史が発展するという「大きな物語」が破綻(はたん)し、左派は「ポリコレ」(政治的公正)のような細かい課題が中心になりました。

 トランプ氏は、「アメリカを再び偉大に」という「わかりやすい大きな物語」を提示しました。それが加速主義や新反動主義と呼応し、閉塞感を抱えている大衆も飛びついたのでしょう。

 SF作家として、テクノロジーで未来を加速する発想自体には共感できます。SFは未来のビジョン、「大きな物語」を提示するものです。人間は生きるために、自分の小さな物語だけではなく、何か大きな物語を必要とします。

 ただ、加速主義や新反動主義の「大きな物語」は、歴史が1本の線だという単純な図式にもとづいています。「優れたもの」と「劣ったもの」を区別し、AIやバイオテクノロジーで「優れたもの」になることを目指すという「古い」発想で、優生学や人種差別にもつながってしまう。

 歴史は複線的で、未来はひとつではなく複数あるはずです。「優れたもの」と「劣ったもの」という単純な価値観ではなく、あらゆる存在があるがままに生きられるようにするために、テクノロジーは使われるべきだと思います。

 いま、加速主義や新反動主義の単線的な歴史観や価値観は世界中に広まっています。民主主義や自由よりも発展を重視する中国の「中華未来主義」も、歴史を単線的に加速させる点では同じです。

 必要なのは、複数の多様な未来の可能性を担保していくことです。そのための社会システムを考える時期に来ていると思います。


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