3 月 24 日、無事博士号を取得した。

これに至るまでの遍歴を綴ろうと思う。

高校 3 年

なんの意味もなくなんか雰囲気で東大を志望していた。何がしたいというわけでもない。そこに東大があるから東大を受けるのである。

秋の東大オープンかなんかで壊滅的な感触を得て、マジでこれは勉強しないとヤバいと思ったので、一週間勉強を一切やめてエロゲをやりまくったことを覚えている。

うちの学校は予備校が附属しているような自称進学校で、本来の 7 コマくらいの授業の他に放課後に 5 時間くらい別の授業があって、帰れるのは 22 時くらいだった。放課後の授業が始まる前に精神が崩壊して泣きだし友人に保健室に連れられていったことを覚えている。このへんで既に精神に異常を来していたのだと今あらためて思うな。いや、なんか英語の先生がマジで精神的に無理だったというのが大きいが。

入試は受けてみたら意外とうまくいって、ああこんなもんだったのか、という気持ちになった。駿台だかの解答速報を見て自己採点をした結果、もうこれは受かったなと思ってすべての勉強を放棄した。当時は東大に後期試験があったので、本当は前期試験が終わってもまだ勉強しなければいけないのだが、もうやめた。遊んだ。学校から再現答案を作れといわれたがやらなかった。もう勉強はこりごりである。東大に落ちたら授業料免除が通っていた早稲田に行くつもりだった。

首席になれるわけでもなく、かといって合格者平均は余裕で超えられるくらいの、そういう成績だった。

学部 1 年: 東大入学

理科一類に入学した。

当時、進学先は情報系と化学系で迷っていた。

化学を考えていたのは、単純に高校時代「化学という科目」が好きだったからだ。実際、滑り止めの慶應では薬学部を受けている。

構造化学だの物性化学だのを受けた結果、僕に化学は無理だという結論になり、情報系に進学することにした。

高校時代、数学とか化学とかのパズルが好きだったのに、大学に入って絶望すること、ありがち。

電情(工学部電子情報工学科)と理情(理学部情報科学科)で迷っていたが、父親(理情)と同じ道に進むのはつまらんだろうということで、電情に進学した。

今考えても、どう考えても自分には電情が合っていたと思う。

精神的には既に崩壊しかかっていて、このへんからいわゆる心療内科だの精神科だのにお世話になりだした。

駒場には結構高い建物があるので、そこから飛び降りようと思ったこともあった。

学部 2 年: 進学

このへん何も覚えてないな。何も覚えてない。何してたんだろうか。

数学の授業で自己紹介させられたことしか覚えてない。

学部 3 年

当時、学科では成績の合計点によって研究室配属が決定されるという異常な状態だったので、必然的に大量の科目を取らざるを得なかった。

精神が異常を来しているので、意味不明なエフォート配分で生きていた。そこに時間かける? みたいなところに時間をかけていたと思う。人工知能とか。

あとはマジで何も覚えてないな。なんか BDM とかいうのですごい勢いで曲を書いたことだけは覚えている。

学部 4 年前半: 研究室配属

まあ普通に第一志望の研究室に配属された。

かわいい声を作りたいという気持ちで音声系の研究室を志望した。

ボスがちょっと怖かったが、(当時)助教の先生にいっぱい面倒を見てもらいながら、まあなんだかんだ進捗は産んでたと思う。

研究自体は優れた成果が出ているわけではなかったが、卒論としてはなんとかなるくらいの成果にはなっていた。

学部 4 年後半: 破滅

だいたいこのへんから精神が本格的に破滅しだした。

うちの研究室は毎週 2 回くらいミーティングがあって、時期によってはもう 1 回勉強会があって、週 3 度はリアルで集まらなくてはならない。なんかミーティングに間に合うはずの時間に家を出たのにつらくなって大学に向かわずケーキ屋さんに向かったこととかあった。

院試はまあ普通だった。同じ研究室(助教の先生の方の研究室を志望したのでボスは変わるが)を第一志望にして、無事配属が決まった。

12 月、翌年 1 月に自殺することを決意。1 月 4 日、人生ではじめて本気の(つもりで)自殺をした。

なんかそのまま閉鎖病棟に連れこまれて 3 月くらいまで退院できなかったのだが、なぜか卒論を書けるだけの進捗をそれまでに揃えていたので、助教の先生がときどき病院に通ってくれたりしたのもあって、卒論を病院の中から提出できた。

卒論発表には病院から行った。チノちゃんのポポロンパーカーを着て、めちゃくちゃな卒論発表をした。はちゃめちゃである。

卒論は参加賞。ほんとうにそう。

あきらめかけているみんな、参加しよう。閉鎖病棟の中からでも卒業はできる。

修士課程

まず卒論の供養をしたと思う。国際会議に出し、普通に reject された。どうでもいいが、この研究は D1 のときに国際会議に accept された。

修士では、卒論からの続きの研究をやっていた(やったが虚空に消えた)。

研究室の方針で、M1 の夏に研究インターンをすることになっている。インターンでは、僕の iTunes に広がる膨大な音楽ライブラリに感動したえらい先生方が、ここから研究テーマを作れないか、ということで、今の研究テーマが生まれた。このインターンでもらった研究テーマをベースに修論を書くことになった。

修士時代は、ほんとうに進捗を産んでいないに等しく、毎年クリスマスに(ということはつまり修士課程の中で 2 日だけ)進捗を死ぬ気で産んで、それだけで研究会とか修論とかを回した。

正直今見返すとよくこんなんで研究会出したな、修論にしたなという気持ちである。

修論は努力賞。ほんとうにそう。50 ページ修論を書けさえすればよいのである。

あとは、なんかすごい意味不明な研究成果で一本国際会議に出した。あの研究は一体なんだったのか。なぜあの研究は国際会議に通ったのか……。

修士の就活の時期(つまり M1 の冬)に博士課程に進むことにした。博士課程に進むことにしたのは、単純に就活が面倒くさかったのと、特にやりたい職業もなかったのと、自分的にもちょっとこの研究をここで終わらせるのは悲しいなと思ったからである。この研究、どう考えてもやる人世界で僕しかいないし(なぜなら実験に使うまともなデータをここまで用意できる音声研究者が僕くらいしかいなさそうだからである)、僕がやるしかねえなという気持ちであった。

このときの進学という選択を、僕は博士課程に進んで、あたりまえのように何度も後悔したのである。

博士 1 年

ほんとにのんびりやってた。マジでのんびりやってた。進捗という進捗を全然産んでないに等しい。本当のモラトリアム。

マジで何をしていたのか?

修論のテーマとは関係ないテーマで研究補助員だかなんだかという役職をもらった都合で、確かこのあたりで研究テーマが 2 つになった。

なんか同期の学生とディスカッションをしていたときに生まれた発想をもとに、提案手法を作ったことを覚えている。

2 つ研究テーマがあるというのは、2 つとも並行で研究しないといけない以外はいいことしかないので、博士課程の学生には 2 つ研究テーマを並行することを勧めたい。なぜならば、それぞれ修論級のことしかやらなくても、博論を 100 ページ書けるからである。

あ、2 つ研究テーマがあると、もう 1 つ悪いことがあった。それは、博論で 2 つの研究テーマを糊付けするのが大変ということである。

博士 2 年

いよいよやらねばならんという気持ちになり、なんか進捗を産んだ。

D1 のときの進捗で国際会議に出し、普通に reject された。その夜、ひよこ堂でめちゃくちゃ食い、9% を 500ml 飲んで大学から帰ったことを覚えている。

もう一回その内容で別の国際会議に出し、こちらは accept された。

博士号授与の目安(僕の所属している専攻では一応「要件」とはされていない)として、ジャーナル論文を 1 本通す、というのがあった。

したがって、このへんでいよいよやばいぞという気持ちになり、ジャーナル論文を書きはじめた。

研究テーマは 2 つあるわけだが、1 つめの成果でジャーナルは通るんじゃないかという甘い予想で、そちらを優先して提出した。国際会議に通っている方である。3 月のことであった。

就職活動を並行してやった。

研究職は一切考えなかった。なぜならば、僕はこれまで一切の研究において自分でものごとを提案したことがなかったからである。卒論のときはボスにテーマをもらい、修論のときはインターンでテーマをもらい、博士課程に入ってできたもう 1 つのテーマの提案手法も同期の彼が思いついたといっても過言ではないからである。僕は研究のセンスというものが一切ないと自覚していたので、一生研究職はやめようと決意した。

博士 3 年前半

修論から続いているテーマの方を研究しつつ、ジャーナルを出したほうのリプライレターを書いたりしていた。

ジャーナルを出したほうのやつは、なんか査読プロセスがぐちゃぐちゃになっており、なんかヤバいことになっていた。

もう片方のほうも 8 月にジャーナルを出した。

まあどちらかなら 1 月の審査までにワンチャン間に合うのではないかと期待していた。

予備審査はなんか穏やかに終わったと思う。いろいろ聞かれたので、博士論文に反映しましょうね、という感じだった。

博士 3 年秋

10 月、先に出したジャーナル論文がぐちゃぐちゃな査読プロセスを経た結果、reject。ヤバいわけである。爆速で別のジャーナルに as-is で提出した。

一方もう片方のジャーナル論文は査読に時間がかかっていて、なかなか結果が返ってこない。

10 月、僕は博士号と人生を諦めて、2 回目の本気の自殺を決めた。翌年 2 月 20 日をその日にした。

博論はなんかめちゃくちゃ計画的に書いていたので、徹夜もすることなく、ぬるっと提出した。修論前日の夜は徹夜で書いたので、それに比べれば進歩である。

博士 3 年 1 月

別のジャーナルに出しなおした論文のほうが、いい感じのレビューが返ってきた。

もう一方のほうも 1 回目査読が終わって、そちらも RQ(major revision)だがちゃんと対処すればいけそうな雰囲気であった。

出しなおした方のジャーナルは、査読の回数が 2 回(投稿→査読→リプライ→査読→accept or reject)なので、爆速で出して爆速で返ってくれば、ギリギリ博士号には間に合うかもしれない、とボスは見ていたらしく、こちらを優先して爆速で返すように言われた。

博士審査はまあ穏やかであった。予備審査ほどいろいろなことは聞かれなかったと思う。もうよく覚えていない。

爆速で返さないといけないほうをまず爆速で返した。徹夜した。

博士 3 年 2 月

専攻会議で、ちょっと今のままでは博士号が出せません、という話になった。ジャーナルが 1 本くらいは通ってないと……という話である。今の時代ジャーナルの本数だけで決めるのは……という意見もあったらしいが、結局こうなった。もうこれで 3 月の博士号は諦めて、ジャーナルの accept が来た後の専攻会議で博士号授与を決定する、ということになった。

しかしながら、ボスが頑張って頭を下げてくれて、専攻会議よりも後の、さらに上の教育会議までにジャーナルの accept が返ってきたら博士号を出します、という話になった。おいおい。

僕はもう 3 月の博士号を既に諦めているので、うんそうだね、みたいな気持ちだった。期限までにジャーナルの結果が返ってくるのは絶望的だし、なにより accept で返ってくる保証もない。履歴書に「単位取得(満期)退学」と書かなければいけない人生を覚悟していた。普通に博士号を諦めていた。

2 月 20 日、その日である。僕はどうせ生きていても 3 月の博士号は無理だろうと思っていたので、計画通り城ヶ崎海岸に行った。この話は以前の記事で書いたのでそれを見てほしい。

その後、事務的に、この日の午前中までに accept の連絡がないと厳しいです、という日があって、その日の午前 10 時に爆速で返したほうの accept が返ってきた。奇跡である。なんてこと。

結果として教育会議に間に合い、そのまま事務的に博士号が取得できることになり、最終的に今博士号がある。

博士 3 年 3 月

ここまでのプロセスで「博士号取れます! 大丈夫でーす!」みたいなイベントが発生していないので、ほんまに僕は博士号を取れるんか?? という気持ちでずっと 24 日までいた。

学位記授与式に出たところ僕の学位記が存在した。びっくりである。

その後、もう一方のジャーナル論文の 2 回目査読が AQ(minor revision)で返ってきたので、こちらを今返している。修了したものの、まだまだ研究は終わらない。

博士課程に進むか迷っている人たちへ

世界的な研究者を目指しているとか、今の研究を大成させたいとか、大学の教員になりたいとか、そういうモチベーションがあるなら、迷わず進んでよいと思う。

社会人になってから博士号を取ることは、そのまま進学するよりも難しいとは言われる。たとえばうちの専攻の場合には必修科目があるので、そういったものを職業と並行してやるのは難しいと正直思う。なので、いつか博士号を取りたいと思っているのなら、いま進学を考えてもよいと思う。(もちろん、社会人ドクターもできる人はできるのだが。)

そうでなくても、人生経験にはなると思う。博士号はいずれにせよしっかりと研究成果が認められないともらえないわけで、博士号が取れれば自分の研究成果を世界に認めてもらったというお墨付きがもらえるし、取れなくてもそれに至るまでの努力をしたという事実はちゃんと残ると思う。

「博士号」という称号と、それに至る努力の経験は、博士課程に進まなければ得られないのは確かである。

博士号だって、3 年で取らなければいけないという決まりはない。4 年目も学生をやる、満期退学して社会人になりながら博士号を目指す、などいろいろな選択肢がある。自分のペースでやっていい。人生いろいろだ。だいたい標準修了年限(3 年)で博士号が取れる人など半数程度である。なんなら博士号が取れなくてもいい。それも人生。

ただまあ、軽い気持ちでしてよい選択ではない。博士号が取れそうか? ではなくて、「あと 3 年研究をして成果を出そうとするという努力が、自分にとって意味があるか?」で決めたほうがいいと思う。

実際問題、博士号が取れなかったらつらい。僕は普通に博士号を諦めていたので、つらかった。この(研究室に入ってからの)6 年間、いったいお前は何をしていたんだ、という話だからである。

3 年で博士号が取れず 4 年目に突入すると、資金的な援助も受けられにくくなる。これもかなりつらい。

最近は博士課程の学生への支援の動きも出てきているので、モラトリアムの延長にもなるとは思うが、それを目的に進学することはおすすめしない。思った以上につらいので。

結局のところ、世界的な研究者になりたい、などの具体的な目標がなくても、その努力にかけがえのない価値を感じるのであれば、僕は進んでいいと思っている。博士課程は失敗の連続である。つらい。苦しい。その博士課程に進んで感じたつらさ、苦しみ、絶望は、博士課程に進学しなければわからない、経験できないものである。「博士号」や「博士課程経験者」は希少価値である。その希少さに価値を感じるのであれば、進学を考えてもよい。ポストや職などは博士号を取っても必ず得られるものではない。でも、経験だけは嘘をつかない。その経験のために博士課程に進んでもよいと思っている。

どうでもいいが、博士課程に進む場合、恋人がいたほうがよいというのは、事実かもしれない。理解のある恋人は大事だ。学振に落ちたとき、ジャーナル reject されたとき、研究成果が何かの間違いですべて水の泡になったとき、誰かに聞いてもらえるというのは、全然違う。そこの君。恋をしろ。ただ、まあ恋人がいなくても博士号は取れるが。

博士課程に進もうと思っている人たちへ

悪いことは言わない。

自分の好きなことや憧れを研究テーマにしたほうがよい。それだけは確実に言える。

僕は箱崎星梨花への愛だけでこの博士論文を書いたといっても過言ではない。好きなことを研究テーマにするべきだ。

あとは、研究室をちゃんと選んだほうがよい。僕はよい研究室を選べたと思っている。ちゃんと面倒を見てくれる、自分を大切にしてくれる研究室を選ぶとよい。

いま博士課程にいる人たちへ

いっぱい成果を出して余裕な人へ。何もいうことはないです。がんばってください。

博士号がとれるかギリギリの人へ。なるべく早く成果を出して publication すること。それに尽きる。早めに行動するのがよい。国際会議もジャーナル論文もある程度不十分でも通ると思う。とにかく publication すること。D1 の間に最強の進捗を産んで、D3 は暇を持て余すくらいがちょうどよい。

僕の片方の研究成果は、実は国際会議など査読のあるところに一度も出さずにいきなりジャーナルに投稿している。これはかなり危ない。なにせ、ふつうの専門家が自分の研究に対してどうコメントするのかをまったくわからない状態で投稿することになるので。これはよくなかった。

なるべく publication をすること。reject でもいいので査読してもらうこと。それがよいと思う。

僕は、あと 2 時間 accept の連絡が遅かったら間に合っていなかったレベルで、本当にマジでギリギリで博士号を取得できたので、これがギリギリの人間からのメッセージである。

あとは、趣味とか恋人とかをおろそかにしないこと。

さいごに

博士号だけが人生ではないが、躁鬱と闘いながら博士号を取ったこと、取るために頑張ったことは、人生において価値があったんじゃないかなと思っている。

博士課程に進んでからの時間で、研究以外にもいろいろなことを経験していて、そういうのが就職にも繋がったので、この 3 年間は意味があったんじゃないかなと、今でも思っている。信じている。

今後の人生で、この博士号に対してどういう感情を抱くのかはわからないが、まあすべて無意味だった、ということはないと信じたい。

これからは Ph.D. を振り翳していくぞ。どうだ見たか博士号だぞ。

ただまあ、僕は研究に向いてなかったな。これだけは言える。気付くのが遅かった。

おわり。