月別アーカイブ / 2019年01月

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いや、なればいいってわけではない。

とある学校教師が授業でLGBTについて話したそうなんです。
で、話し終わった後に生徒が「で、先生はゲイなんですかー?」って茶化したみたいなんですわ。まあ、予想の範疇ですよね。だいたい子供なんて保健体育したら下ネタで攻めてくるしそういうのが好きなお年頃です。で、先生はなんて返したかっていうと…


「んなわけねーだろ(笑)!」


だったそうです。
いや、先生。ちょっと、先生よ。
取り扱ってくれたその心意気はありがとうですよ。きっと良かれと思ってのことでしょう。
でもデリケートな問題ですこれは。
学校という子供にとって影響力の高い場所で、影響力の強い立場の先生なのだから本当に気を使わなくっちゃですよ。
これはLGBTに関わらずね。私は今LGBTにほんの少し詳しいからそう思うけど例えば人種について、例えば格差について、例えば病気について。パーソナルでデリケートなことって気が付かないところにたくさんあって、私も無意識に人を傷つけてるかもしれない。
当事者が大人であったら、理解が及んでないのも仕方ないって諦められる人もたくさんいるんだけど、まだまだ多感な時期。もし当事者がそこにいたとしたら、LGBTの話をして生徒が茶化した言葉に対して先生が「んなわけねーだろ」ってどんだけ傷つくだろう。
想像力を持って人と関わっていきたいものです。

でもね、「んなわけねーだろ」って価値観がだめってわけじゃないんですよ。それも現状。でも現状って割り切れるのはある程度精神が成熟してからじゃないかな。
人間の思考は自由。価値観も偏見も自由。綺麗なもんばっかの世の中になんてなり得ないしそれは気持ち悪い。
だけど、時と場合、そして自分の立場なんかは特に意識しなきゃなって思うんです。
潔癖的に生きることが善しではないですから、酸いも甘いも痛みも辛さも、そんなのを伴いながら人は生きているということ、そして自分が発信するというのはどういうことなのか考え、責任をもつこと。そういう当たり前のことをネット社会の今みんなが問い直していけたらな。いいな。




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あるのは、人間誰しもが抱える悩みである。


いただくメッセージにはあの時も悩んでいたのかなあと思うと…とかって言われたりするのですが、実際は悩んでたかもしれませんが、悩んでいなかったかもしれません。
やはり悩みすらもその人の一部であり、全体ではない。それに四六時中悩んでいては社会生活は営めませんからね。
今回の発表に至ったのは「私はこんなに辛かったんだ!」
と自分の辛さを分かってもらいたいとかそういった類のものではなくて、まずは広く自分のことを伝えることで自分で自分を肯定するため。それと細かく心情を語ることで偶然にも引っかかることがあって、どっかの誰かの痛みがちょっとでも和らいだらな、という思いです。この長かった25年で考えたことを文章にしてるので、凝縮されてるから、もしかしたらずっと悩んでいたという印象になるかもしれないのだけど、そこまででもないっす。ご心配かけちゃった皆さんごめんね。実際悩んだことはあったけど、そんな自分も含めてみんなが見ていた私とそんなに大きく変わらないと思います。

さて、LGBTと聞くとその当事者には周りには分かりえない特別な悩みがあると考える人もいるかもしれません。そして逆に当事者が自分はマイノリティだから特別で異端で、自分の悩みは誰にも分かってもらえない。と考える人もいるかもしれません。
私もそう思っている時がありました。でも、実際は紐解けばアイデンティティの悩みだったり、信頼の問題だったり愛の問題だったり、人間だれしもが抱えうることだと気が付きました。私の信頼するカウンセラーの方が言っていたのですが、現代人は多数の人が多かれ少なかれ悩んでいて、その中でLGBTの方はむしろ問題が明確だから悩みを見つけやすく、かつ前を向きやすいと言っていました。マジョリティに属する人にだって人それぞれ色んな悩みがあって、でも「普通」という実体のないものに支配されて「普通のはずなのになぜか苦しい」とそもそもの悩みや問題を見つけられず原因が分からなくて苦しい。みたいな状況が多くあるようです。比較することではありませんが、私は明確に悩めたこと。模索したこと向き合ったこと、前を向こうと一歩踏み出そうと勇気を持てたこと。そのすべてがありがたいことだなと今は思っています。
LGBT関連でなくても、もし自分だけにしか分からない悩みだ、共有できないものだと思っている方がいたら、信頼できる人に話してみてはどうでしょう?実は紐解いたら誰もが持ちうる悩みだった、なんてことがあるかもしれません。
私はかたくなに言わなかった時間が長かったからか、口にしたら驚くほどあっという間に溶けたもの、拍子抜けしたこと、たくさんありました。
幸か不幸か、ものすごく特別、なんてことってないんだなあ。

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カミングアウトして、たくさんの方からリアクション頂きました。

本当にありがとうございます。

私が私であることを認めてくれるその言葉ひとつひとつが温かくて次から次へと涙が溢れ、パンパンに目が腫れた元旦となりました。

皆さんがくれた「コロはコロで変わらない」という言葉。

こんなにもたくさんの方が言ってくれたことに驚いています。というのも私はこんな単純な事実に全然気づくことができなかったからです。

数年前母に打ち明けたときに「あなたがあなたでなくなるわけではないもんね」という言葉をもらって初めて気が付きました。私は私であるということに。

すんなりと皆がその結論に至っており、やはりすんなりと私に投げかけてくれた。素直にすげー、みんなすげーってなりました。

個人的に連絡をくれた仲間の中には立場上カミングアウトできずに世間には隠している人もたくさんいます。理解が深まっている世の中のようには思えるけど、それとはまた違う理屈で自分を偽らないと生きていけない人、また、私とは全然違った状況に身を置いている人からしたらこの世界が到底理解がある世の中とは思えない人もいる。私は比較的フレキシブルな世界に身を置いているから、だいぶ世界は変わったなあと思えるし、多様な価値観を受け入れてくれる人が多いなとも感じられる。だけどそれはあくまで私から見た世界です。

人はどこまでいってもひとりである、とよく言われますが、それはどんなに仲を深めても本当に他人が思っていること感じていることを正確そのままに受け取ることはできないという意味も含まれると思っています。

カミングアウトする前の私は皆がくれた優しい言葉を素直に信じ切ることができなかったかもしれません。そして今は素直に受け取れていても何かしらのきっかけでまた信頼できなくなるのかも知れません。

かといって、じゃあ「言っても意味ないのかよ!」とかってそういう意味ではありません。むしろ滅茶苦茶嬉しいのでどんどん言ってください、優しい言葉大好物です(笑)!そして実際救われています!ありがとうございます!

信じ切ることができないというのは、詰まるところ完全に私の問題です。頭では分かっているんだけど、心が認められないっていう、長年培った固い堅い硬い『お前の罪はそんな簡単に認めてもらえるものではない』という私の中に満ちた偏見と罪悪感が信じることに許可を出さないのです。

自分のことは自分しかコントロールできないはずなのになんでしょう。2018年一番影響を受けたアドラー的考え方でいくと「信じられないのではない、信じたくないのだ」ということなんでしょうけど、なんだかそんな風に思うのはとても癪です。信じたいです。

厄介ですよ、積み上げた偏見というのは、もはや私を構成する価値観ですから。この偏見という価値観は世の中が変わることも否定します。世の中がマイノリティに優しいことも認めません。なんならマイノリティ否定派の味方さえする時もあります。

自分の欲求と逆のことを考え続け蓋をしてきた25年間の壁はなかなかに高い。

この壁を切り崩すためにも是非みなさんの力をお借りしたいなと思います。

どんな偏見があるのか。

例えば、恋愛とは、適齢の男女がするものである。

というもの。固いでしょー。古いでしょー。今時何言ってんだって感じでしょー。

でも、そう思い込んで自分を騙し続けた私にとっては心の奥底でどうしてもこう思ってしまい受け入れきれない時があります。

例えば、海外ドラマで『Lの世界』というものがあります。これはハリウッドあたりのレズビアン事情を赤裸々に描いたシリーズもので、10年位前とても流行りました。

私は誰にも気づかれないようTSUTAYAで借りて、また誰にも悟られないよう、イヤホンをつけ、万全の状態で鑑賞していました。さながら思春期の男子がAVを見るかのように。

まず冒頭。女性同士が濃厚なキスをするところから始まります。これ見た瞬間に結構拒否感がありました。当事者ですけど、自分の姿は客観的には見れないですから。同時に自分もそうなのになんでこんな風に思ってしまうんだろうとそんな自分に心底辟易しました。

頭の固い私は否定して否定してそれでも納得のいく答えが見つかったらやっと納得するというような形でしか理解をすることができなくて、なんだそんなことって周りは思うかもしれないけど、私は思えなくて、でもすごく納得したい気持ちはあるんですね。

ただ、この世の中に納得できる答えなんて果たしてあるんでしょうか。そもそも、人間が生きていることに意味があるのか?そんなところから疑うことになります。私の結論。意味はありません。意味はあるなしではなく、付加したいかしたくないか、なのではないか。

多くの人類は種を残すために本能と共に男女ですべきであるという意味を付加したいと思った。しかし、人間十人十色、だれが何に興味を持つか魅力を感じるかは人それぞれで男女に当てはまらない人もいた。という風に自分が意味づければ納得できる、かな…?

同性愛みたいなものを気持ちが悪いと思う人がいること基本的には仕方がないことだと思ってるんですよ。それもその人の価値観だし、世間も全力でその価値観でいこうぜって流れだったし。では私がどうしても気持ち悪いなって思ってしまうもの、例えば近親相姦とか(私が気持ち悪い例であげたことにより、気分を害された方がいらっしゃったらすみません。あくまで主観です。そのこと自体を否定しているわけではありません。そしてこれも世間の全力のそうしようぜに呑まれた結果な気がします)。でもそれだって本人たちからしたら本気の愛のカタチだったりするかもしれない。大切な友達が意を決してそのことを告白してきたらどうしよう。もしかして自分に子供ができたとして、兄弟がゲイでしかもお互いに愛し合っていたらどうしよう。

偏見というのはもしかしたら自分を守るための防御壁なのかもしれません。

私は弱い。

臆病で弱くて怖い人ほどマウンティングをとってしまうような気がします。目に見える確かなリアクションや言葉しか信じることができずに。全てを否定する。強い人は本質を知っている。信じる力がある。目に見えない信頼を着実に積み重ねている。だからそう簡単には折れないし偏見なんて言う防御壁を築かなくても、人を真っ向から受け入れることができる。

私もそうありたい。自分を偽らなくても大きく見せなくてもかっこつけなくても向き合っていける人間でありたい。そんなことに気づけたのは仲間がいてくれたからです。

 

私は自分の大切な人の意思は他の人を巻き込み物理的に傷つけるものでなければどうあれ尊重したいと思う(物理的に、と加えたのは、心の傷に関しては真剣に向き合う過程でついてしまうものもあるから全部だめって言えなくて)。頭では。もちろん実際そうなったら強固な偏見が現れ心が阻止しようとしてくるかもしれないけど。偏見は持ってしまうこと自体は仕方がない。ポイントはそれとどう付き合っていくかなんだよなと、善悪ではないのだよなと、思うんです。

 

と、同時にね、もしなにか受け入れられないことがあったとしてもそれはあくまでその人の一部であり全体ではないということを忘れないようにしようと思うのです。

つい、人は嫌なことがあったりするとそれがその人の全部だって思っちゃうから。そもそも他人の全部なんて分かりっこないし。大好きだった部分がなくなるわけではないし。うん、そしてみんなのコメントは私に対してそういうことを言ってくれているんだ。感謝しかないです。ありがとう、ありがとう、ありがとう。

信じ切れない自分、心底変えたいので、これからも皆さんよろしくお願い致します!

 

 




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