嫌な人がいる時は
可哀想な人だと思いなさい
みたいなことを言う人いますが、
誰かを可哀想な人
って思うのって上から感否めないし、
お前何様という気持ちになるため、
好きではない。
だったらまだ
憎しんでる方が対等じゃん
って思うんだけど、
可哀想だと思われたい人もいるんですよね。
私って可哀想、
だから許して、
だからあわれみを持ってください、と。
その可哀想がられたいと思う気持ちって、私には全然理解ができないと思っていたのだけど、最近無意識に自分は可哀想だからということを理由にしていることがあるということに気がついてしまった。
客観的にみたら繋がらないようなことも、だって可哀想だからというパワーワードにより立派な理由みたいにして言い訳することがある。
本当はそれはそれ、これはこれで責任をとりけじめをつけていかないと全部ごっちゃにして不都合に対してどんどん言い訳をするようになってしまう。不幸はなかなかそれが言い訳であることに気がつけないこと。
あわれみ
には、
憐れみと哀れみってふたつ漢字があって、
憐という字には、
愛すべく、いじらしく思う
という意味。
哀という字には、
悲しい、心を痛める
という意味。
だから可哀想を言い訳にしたい人は憐れみの方が欲しいのだと思うけど、実際は哀れみしか持てないのだから、みじめだということに気がつかねばならない。
自分で自分をみじめにはしたくないよね。